第五章 風の姫ー14


 玉座の間を照らす術式の紫に、白銀の光が火の粉のように混じる。床に繋ぎ止められたままのユリアはぴくりとも動くことなく、ぼんやりとした鈍い金色の光が、薄布のように彼女の全身を包んでいた。ただかすか上下する肩だけが、彼女が生きていると教えてくれている。


「最後の仕上げよりも奴らの到着の方が早いかもしれませんねぇ」

 玉座の背もたれ越し、遠慮もなく八雨を見下ろし、紫陽は緩慢に声をかけた。

「お人形ちゃんがやらかしてくれたようだ。あれはお利口ちゃんだが、いい子ちゃんとは限らねぇぞって、紅奈には言っておいたんですけどねぇ」

「まあ、いいさ。紛れ込んだ魔獣は使い物にならなくしてくれたんだろ? 大目にみておくさ」

 かつてと同じ右掌に埋め込まれた真紅の〈呪珠〉を見ながら、八雨は笑った。その石も薄ぼんやりと淡い光を放っている。


「来てくれるのも構わないんだが、仕上げの邪魔になるようなら、その間止める手立てを打たなければとは思うけどね」

「もちろん、そのへんは俺が引き受けますよ。俺の方の手筈はもう終わったんでね。あとは陛下に、〈呪珠〉と魔獣をうまく繋いでいただくだけですから」

 伏したままのユリアに藍色の視線を投げて、待ち遠しげに紫陽は口端を引き上げた。

「そうすりゃあの身が幻獣と繋がって、魔獣に変わる。その時に俺が思い描いた通り、この世の魔力の流れがいっきに変わって動き出す。見ものですね。早くこの目で、その様を眺めたいもんですよ」

 珍しく真に浮足立った声音に、八雨は可笑しそうに笑い声を立てた。


 紫陽は自身が編み上げた術式が、頭で組み上げた通りの結果を導き出すことを――その思考の過程と結実の美しさを愛でている。それが誰かやこの世に及ぼす影響の良し悪しなどは考慮の外だ。

 彼がいまラクシュミーを蘇らせるために編み上げた術式は、幻獣というよすががあるにせよ、死者を呼び戻す業に近い。人の手どころか魔獣にすら及ばぬ領域に踏み入るものだ。それはかつてラクシュミ―が、報復のため八雨に死なずの呪いを与えた時と似ている。

 本来ならば為し得ぬはずのことを為す。そのために、この世にある魔力の根幹を揺さぶるほどの力を搔き集めようというのだから、それは自然と、ラクシュミ―の時と同じ事態を引き起こすに違いないのだ。それも、ラクシュミ―の時に続いて、今回は二度目だ。魔力を吸い上げたことにより各地に現われた異常が、最初の時のように一時で済むとは限らない。それに、影響を受けた地が、二度目の衝撃に持ち堪えられるかも確かではないのだ。


「己の術式の完成見たさに世界を滅ぼしかねない。お前のそういうところ、僕はとても気に入ってるよ、宵鴉」

「それをいうなら陛下もですよ。たったひとりのために、この世のすべてを滅ぼせる」

 愉快げな八雨に紫陽は笑い声を重ねた。

「だからあなたのおそばは楽しい」

「お前があの堅物なシヨウの末裔かと思うと面白いよ。術式の腕と頭の働くところは、さすがだけれどね」

 己をのぞき込む背後の男を仰ぎ、八雨は懐かしむように瞳を細めた。

「サシュカに刃を与えた一族の末が、僕の側についたと知ったら、あの時の当主は……ああ、名は忘れたが、あいつはさぞ驚くだろうな」


 ラクシュミーに埋め込んだ〈呪珠〉を砕いた、サシュカの刃に施された術式。あれは術式の知識があるからと、おいそれと作れる代物ではない。〈呪珠〉と同じくらい、緻密な計算と組み上げを行って、ようやくそれを砕ける力を宿せる。そんな術式が組める者は、古のラクシュミーヤの部族のうちでも限られていた。

 だから八雨は、刃の力を見た瞬間、確信したのだ。サシュカの協力者のうちに、シヨウの一族がいると。かの血筋には、こだわりが強く、頑固だが実直で真面目な気質の者が多かったと記憶している。八雨の〈呪珠〉作りに協力した別の一族と並んで、抜きん出た術式の腕があり、常に競い合っていた。


 〈呪珠〉作りの一族はラクシュミーの街の破壊とともに滅びたが、シヨウの一族は生き延びた。そして、部族の決別の時――

「子々孫々、僕を見張るためにあえて従う顔でついてきた。どういう手段で伝えているのかまでは探ってないが、宵鴉もそれは知ってるんだろ?」

 楽しみにほころぶ八雨の口元に、世代を重ねた末に、彼の右腕となった当代の紫陽も大口を開けて爽快に笑った。

「ええ、秘伝の書みたいなもんがありまして。そこにご大層な暗号で、陛下にばれないよう、くどくど書いてありましたよ? この国の術式に施した仕掛けのことやら、スティルの分家との連携のことやら……ま、簡潔に言えば、事が起きたら、陛下を殺せって内容でしたが」

 憚りのひとつもない答えに、八雨は独特の笑い声を心底面白そうにこぼした。

「いく代もいたシヨウのうちでも、お前ならできたかもしれないんだがなぁ」

「陛下に歯向かうより、こっちのほうが俺には面白かったですからねぇ。先祖は先祖、俺は俺ですから。好きにやらせていただきますよ」

 顎髭を指先でなでながらしみじみと紫陽は告げ、そのままくつくつと喉の奥で堪え切れない笑いを転がした。

「それに、さすがに首を斬り飛ばしても生きてる陛下を殺すってのは、俺の術式でもまだ答えが出せませんね」


 ラクシュミー――ディヴァインは、八雨に永劫の苦しみを与え続けるために、結果として、その身に不死も与えた。だから八雨は呪いによって死ぬことがないのだ。首を刎ねようと、心臓を捻り潰そうと、彼の身体は元に戻り、呼吸する。ディヴァインが憎しみ続けるかぎり、ずっと。

 本来ならばその命には、耐え切れぬ苦痛が伴うはずだった。それこそ、身体を刃で刻まれるような、臓腑を剣の切っ先で抉り、なでつけ、綯交ぜられるような――そんなサシュカの味わった苦しみが、永久に八雨の身の上には続くはずだった。

 けれど、彼はただ、止まった時とともに朽ちぬ肉体だけを享受した。


 八雨の魔法は、すべての魔の力を無にするのだ。それは魔獣の命を賭した魔法にすら、等しく力を発揮した。

 八雨の力は、己から誰かに働きかけることはできない。だが、自身へ注がれる魔法に対しては、絶大な力を示す。八雨は自分に向けられた魔法ならば、その力をすべて無効化できるのだ。魔法による攻撃も呪いも、彼の前には意味を成せない。


 ディヴァインが彼のことを――その血の持つ魔の力のことを、よく知ろうとしていれば、そのような逃げ道を残さぬ報復を果たせたかもしれない。だが、悲しいかな、ディヴァインはずっと人に興味を抱かずにいた。だから、時たま族長の血筋に現われる、深い紫の瞳の者が待つ、不可思議な魔の力ことなど、意識の端にかけたこともなかったのだ。

 その無関心を八雨は惜しみなく利用して、呪いの苦痛の部分だけを消し飛ばした。そして、長い時を苦しみなく生き続けたのだ。もし己を憎む魔獣がその様を見たなら、どんな目をするかと、楽しみに思い描きながら、再びまみえる日を、夢見て――。


「僕が生き続けているということは、ラクシュミーがいまだ僕を憎み、恨んでいるという証だからね。なかなか心地いいものだよ。いくどか暗殺を試みられ、許したこともあったが、それに生き永らえるたびに感じ入ったものさ。ああ、彼女の憎しみは続いているのだ、とね。だから、宵鴉も試してくれても構わないよ? 首はあるが、ばらばらとかは、そうだな。まだ経験がない」

 物騒な誘いを軽くかけてくる八雨に、戯れるままにのって、紫陽も不敵に口端を引き上げた。読めぬ藍色の中にただかすか悦楽が、八雨の金糸から照り返す火灯りに呼び出されるようにのぞく。

「んじゃ、ひとつ試してみますかね。魔獣を蘇らせる術式の完成を見たら、次になにをするかってのをまだ決めかねていたんで。陛下の命を狙うってのも、確かに言われてみりゃ、なかなか楽しそうです」

「ああ。僕はラクシュミ―に忙しいから、狙うにはいい機会かもしれない。期待してるよ」

「ったく、陛下もご自身と魔獣の時間を邪魔する度胸を試されるとは、お人が悪いですねぇ。ま、ご期待に応えて、まずはばらばらあたりから検討してみましょうか」

 気安く軽快に、けれどその実、冗談は交えていない互いのやりとりに、ふたりは声を揃えて睦まじく笑い合った。


「――んじゃ、こいつの完成を見るためにも、その後の楽しみのためにも、その前のひと仕事を終わらせておきますか」

 おもむろに、そう紫陽がその巨躯でさらに大きく伸びをして歩き出した。腰回りの金属の飾りがしゃらりと鳴り、首からかけられた長い織物の帯が風をはらんで翻る。金糸で縫い取られた四つ葉に似た花の紋が、濃い紫の上で鮮やかに映えわたった。

 伏して動かないユリアの脇を通り過ぎ、玉座前への短い階段を悠々と下りていく。

「こっちはどこまで、楽しめっかな?」

 唇を薄く笑みに歪めた精悍な相貌を、鮮やかさを増した術式の光が照らしだした。瞬間、狡知な鋭い視線の先で、玉座の間への重厚な扉が勢いよく開け放たれた。

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