第五章 風の姫ー13
階段の大広間を揺るがせたピユラの風が、紅奈の生んだ異形を薙ぎ払い、血濡れた彼女へとなだれ込む直前。突然逆巻いた別の風が、その強風の渦を弾き飛ばした。
それた勢いのまま風は吹き抜けの天井を突き破り、ばらばらと粉々に砕けた瓦礫が踊場へと降り注ぐ。星明かりが、そこからこぼれ落ちて差し込んだ。柱もひび割れ、燭台の火などとうに消えた暗い広間を、ひっそりと静謐に照らしだす。
「やれやれ……。――こればかりは、君にも譲れないな」
愕然とするピユラの耳に、遠い日、吹雪の玉座で聞いた声がした。目の前の高い背に、沈んだはずの月色が流れてなびく。背後のピユラへと投げられた、翡翠の瞳の色は読めない。けれどただただ鮮烈に、射抜かれた心地がした。
「はぐ、さ……」
うわ言のように、ピユラはその名をこぼした。魔獣たるハーシュを蹴散らして、紅奈のもとに舞い戻ったというのだろうか。
確かにその身はぼろぼろだ。眼差しの強さに反して、白い軍衣は血と泥にまみれ、右腕など見るも無残に辛うじてついているといった有様だ。全身に、なぜ平然と立てているのか信じられないほどの深手を負っているのは、一目で見て取れた。
「あら、莠。魔獣は仕留めたの?」
「いえ、そこまでは。ですがもう動けません。邪魔にはなりませんよ」
莠の様子にも動じた様なく、柔らかに問う主へ、彼は静かに答えた。嘘だろ、と驚愕のまま呟き、動きを止めた蒼珠の腹を異形の兵の容赦ない攻撃が抉り、地に沈める。それを透夜が斬り伏せ庇うも、彼の顔も信じられないと訴えていて、莠の言葉を飲み込めていないようだった。
だが、彼らの様子など一瞥もせず、莠は紅奈の姿に肩をすくめた。
「まったく……。俺、傷は治せませんと言ったと思いますけどね。どうするんです、それ」
ざっと見ただけでも、肩を、腹を、紅奈は無数に斬り裂かれている。赤く染まるその身からも、裾を浸す血の海からも、命を脅かしかねない傷であることは間違いない。それなのに苦痛の片端もなく、問題ないわ、と、真実、涼しく返す微笑みに、莠は困ったように苦笑した。
「――少し、風羅の王女とお時間をいただいても?」
「構わないわ。好きになさい」
乞うる莠へ、紅奈は穏やかに許しを与えた。わななくピユラを振り向いて、若葉の目が、なびく白い軍衣とともに歩み寄る。
「さて、時間がないから簡潔に済まそうか、お姫様」
敵意もあらわに睨み上げる大きな紫色を見下ろして、莠は唇を引き上げた。その近すぎる距離に、主君の名を叫んで駆けよろうとした蒼珠を、莠が指を弾くと同時に風の壁が阻む。
「なにすぐ済むさ。心配することない」
蒼珠を振り向いたピユラの視線が己に戻ったのを確認して、莠は続けた。
「君はこの春で十六だろ? ちょうどいい。父王の口からじゃないのは容赦してくれよ」
「いま、なん、」
「冬月王から、君の
思いもかけず彼の口に再びのぼった父の話題に動じたピユラへ、敬服を込めた声が父の名を呼び、予期だにしないことを告げた。
みるみる大きく瞠られる夜明けの瞳に、莠は微笑む。
「春告げの風とともに舞い飛び踊る雪の花――……〈
風羅の民が待ち焦がれた春を告げる、雪の花を抱く風。民の愛でた〈風の花〉の名を戴く、あの風の国の最後の姫。
『ああ、そうだ。叶うならどうか――』
娘にこの名を告げてくれ――そう、もうひとつ託された。それを果たせることになるとは、あまり思っていなかったのだが――。
(思うが儘だな)
民ではない己を、愛しい若葉の目の者と呼びかけた優しい声は、どうやらまんざらでもなかったらしい。莠は苦笑した。
「なぜ、そなたが、父上から、その名を……」
「そこらへんは想像に任せるよ。確かに伝えた。ま、俺が大事にあの世に持ってくもんでもなかったし、よかったよ」
「それは、どういう、」
問い質そうとするピユラの声を遮って、風が吹いた。それはいままで彼女を散々嬲ってきた荒ぶる風ではなく――。
「父上……」
ふわりと優しく抱きしめるような、父の風の力だった。
「さようなら、風の姫。君の決意の道が、よき旅路であらんことを」
風の向こう――いとおしい、若葉の瞳が微笑んだ。
ふわりと体が浮き、黒髪が乱れて躍り、服がはためく。その裾に、わずか彼の指先が絡んで、唇が端に触れたように――見えた。瞬間、蒼珠たちを遮っていた風の壁が部屋中を渦巻いて、異形の兵や獣たちをことごとく切り裂き消した。同時に、包み込むような柔らかさのままピユラを抱いた風が駆け、その身を蒼珠の腕の中に押し込み、預ける。
「――莠、どういうこと?」
そっと見つめていた紅奈が、微笑み首を傾げた。たおやかさに怒りはなく、ただ純粋に尋ねている。莠は笑った。
「風の姫たちは意地でも進む。だから俺たちはここで手詰まりなんです、紅奈さん」
莠はいとおしく、紅奈の姿を視界におさめた。
艶やかな黒髪、しなやかな線を描く身体は血に染まり、見るも痛ましいが、その表情には莠の覚える苦痛は見えなかった。あまりに相変わらずの彼女らしさに、自然、呆れるほどの笑みが柔らかくこぼれる。
背筋をざわつかせる妖しげな美しさをたたえた相貌に、あでやかな紅の唇。そしてなにより――いつも彼の視線を奪う、その瞳。陽だまり色の光の目。
暗く闇に沈み淀んだ部屋に、眩い輝きとともに扉を開けてきてくれた。手を取ってくれた。
あの日、彼の命はすべてが始まったから――。
多くを見て、愛しみ、彼女のことも、ずっとよく知った。なぜ彼女なのかと、彼女でなければと思ったことも、あったかもしれない。
(けれど、それでもやっぱり、貴女がよかった――……)
愛していたいと、願ってしまった。
彼女の隣を選んだ。それなのに、飽き足らず、多くを望んだ。不器用なやり方でしか叶えられず、多くを踏み躙り、奪い、傷つけた。それはとても褒められた生き方ではなかっただろう。
だから、ここを選んだ時から、救いなどないと分かっていた。そもそもそれは、望みもしない。彼女も、己も、どうせまともな死に方など出来もしないだろうし、してはならぬのだろう。
(でも……俺には、十分だったな……)
歪でどうしようもない今日までの日々は、それでも、あの日までの臥せっていた幼子が思い描きもできなかった我儘な――きっと、幸福な在り方だった。
『またね』
あのあたたかな夜の瞳に、最期に刻んだのがよりにもよって偽りだったことだけは、どうにも不本意だが――どうせ彼の所業に腹を立てているのは変わらないのだ。海を越え、あの世に届く恨み言がひとつ増えるくらいは、仕方がない。
「紅奈さん、俺、ずっと決めていたことがあるんです」
白銀の閃光が走り、消え、長くなびく月色の髪が、紅奈の眼前に広がった。
「貴女を終わらせるのは、他の誰でもなく、俺がいい」
血溜まりに座る彼女へと跪き、恭しく白い手へと莠の掌が滑る。控えめに拾い上げられた己が手に、紅奈はふわりと光の瞳を瞬かせ、あら、と、ただ美しく微笑んだ。
「貴女だけは、誰にも、譲れない」
――あの日彼女が開いた扉なら、閉めるのは当然自分だと、心に決めていた。
まだ動かせる左手を絡めた指先に触れるのは、紅奈の薬指の赤い石。これさえあれば、彼女はいまも一瞬で彼の命を奪えるだろう。けれど、なぜか、そうしない。その代わりに彼女は、空いている方の手で、そっと彼の金糸を、月明かりを掬い上げるように梳かしてなでた。
「そう……。困ったわ。どうしてかしら。あなたを失うと思うと、少し胸の奥が――そうね、痛い、ようだわ」
淡い金色の光が、静かに結ばれた指先から紅奈を包んで広がっていく。驚きに揺れた翡翠色に、光のさざめく月色の髪に、紅奈は口端をほころばせた。
「ああ、やっぱり、莠。あなたは、美しい子ね……」
血に濡れた白い指先が光にほころびて掻き消えながら、愛しむに似て、ちぎれた左耳をなぞり、莠の頬の輪郭を辿る。
「あなたのような命の、果てと初めを見たかったのに……。そこに届かないのは、どうしても……惜しいわね」
「――……存外、この先になら答えがあるかもしれませんよ?」
己を見上げる彼女に、膝を折ったまま頭を垂れれば、自然、顔と顔が近くなる。その距離は、いまにも唇が触れ合うようだった。
「俺ならばいつまでも、貴女のおそばに、お伴しますから」
莠は、祈りを歌うように、恋を紡ぐように、愛を捧ぐように囁いて、美しい陽だまりの瞳へ微笑んだ。しようのない子、とでも言いたげに、柳眉を寄せたその溜息を、奪うように彼女の名前を呼ぶ。
「ねぇ、紅奈さん」
すべてをあまねく焼き焦がす、冷たい輝きであったとしても。
「あの日から、ずっと、貴女は俺の――」
光が――金色の閃光が、莠がなにかを告げる前に、紅奈のすべてをその彼方へ消し飛ばした。同時に、眩い光の渦の中に、真紅の血が高く舞い飛ぶ。主の命が消えた時、埋め込まれた魔獣へも死をもたらす〈呪珠〉の力。それが、莠の胸を穿ち破り、彼の鼓動を止めたのだ。
使い手を失って急速に弱まる、消失の魔の光の海。それがあたりから霧散し、掻き失せた時には、ぼろぼろの踊り場に、倒れ伏す莠の姿だけが残っていた。
静寂と夜の闇が這い戻り、ひたりと骨の奥まで沁みとおる。
周囲を支配した静止をほどいて、最初に動いたのはピユラだった。思いに急かされた足で、いくどか階段につまずきながら、莠へと駆け寄る。
光を失い虚ろに見上げる翡翠の瞳と目が合って、ピユラは拳を握り、唇を噛み締めた。
「――どうしてじゃ……」
胸を穿たれ倒れ込む、もう息のない姿。それが、かつての父王と重なって、あの日の記憶がまざまざと蘇ってくる。
どうしてあの時、彼の雪色の服は返り血に濡れていなかったのだろう。どうして見つけた父の瞼は、優しくそっと落とされていたのだろう。どうしていまになって――そんなことに、気づけてしまったのだろう。
「そなたは本当はあの日、あそこで、父上となにを話したのじゃ……!」
たとえ他に伝える術がなかったとしても、信のおけない相手に、父がピユラの真名を託すはずがないのだ。真名を与えるということは、風羅の王族として重要な儀式のひとつであり、なにより彼が託された名は――父が心待ちにその日を夢見て、大切にしていたものなのだから。
「残酷な男じゃ……」
優しい父の風も、慈しむ緑の瞳も、ぜんぶぜんぶ持ちながら、凍てつく態度の下に隠していた。そしてようやく与えたかと思ったら、すぐに届かないところにいってしまった。
「そなたの、思うままであったか……」
遠くてよくは聞こえなかったが、彼はここを死に場所と定めていたようだった。そのつもりでここへ来て、そして、望みどおり思いを遂げたのだろう。
「――よき旅路を、などと、言ってはやらぬからな」
柔らかに、愛しい若葉色の上に瞼を落としてやって、彼方へ旅立った彼へピユラは囁いた。
ロマリウスどころか、供える名もなき花のひとつもないのだ。けっして祈ってなどやるものか。彼のために、いくども悔しさに涙を飲んだのだ。――それなのに、最期に包んでくれた風のぬくもりを思い出して、また頬が濡れてしまった。
それが癪で、ピユラはごしごしと盛大に誤魔化すように目元を拭った。
歩み寄ってきた蒼珠が、そっと莠に一度深い視線を送り、ピユラの肩を優しく叩く。それにピユラは最後にひと拭い、目元をこすると立ち上がった。隣に立つ蒼珠と、そのすぐ後ろの透夜を振り返る。
「ゆこう。ユリアの元は、もうそこじゃ」
無言で頷く彼らと、ピユラは走り出した。父が託し、莠が告げた名を抱きしめて、城内の夜の闇を、切り裂くように駆けていく
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