第五章 風の姫ー12


 弾き飛ばされたハーシュの身体が勢いよく激突し、細い塔がまたひとつ、中ほどを砕かれ、轟音ともに崩れ落ちていく。降り注ぐ瓦礫と共に、宙を埋め尽くしてつららの追撃が注ぎ落ちる。それを、ハーシュは落ちる塔の残骸を足場に、器用に身を翻しながら殴り砕き、雷霆で撃ち抜いた。

 そこへ風を纏って瞬時に空へと躍り出、ハーシュの背後を取った蹴りが、踵から脳天に叩き落される。


 だが、ぐらぐらと揺らいだ頭ごと飛びそうになった意識を引き戻し、握られたハーシュの拳が別の風を巻き起こした。突風の威力で瞬時に反転した巨躯が、己を蹴りつけた長い足をとって、強健な膂力任せに地面へとその身体を振り抜き、落す。

 受け身を取っては見えたが、強かに地面に叩きつけられたところへ、上空から落下の速度を味方につけた蹴りが追い打ちをかけた。舌打ち混じりに莠がそれを、両の手の平を逆手についた勢いで辛うじて跳ね起き避ける。砕かれた地面の固い破片があたりに飛び散り、白い頬を掠めた。


 まだ体勢を立て直しきれていないところへ、間隙なく薙がれたハーシュの拳が腹にのめり込み、莠の身体はもはや瓦礫の山と化した城壁の残骸へと吹き飛ばされた。しかしこの程度で動けなくなるわけもないと、間髪入れずに弾かれたハーシュの指先に青く火花が迸り、雷撃の渦が莠の消えた瓦礫の上へと轟き落ちる。

 それが、一瞬で瓦礫を押しのけ弾き飛ばした吹雪に飲まれて凍りつき、同時にハーシュの足元から鋭い切っ先をいくつも携えた氷柱が、その身を貫かんと突きあがった。


 その反撃を飛び退き躱して、ハーシュが地に足をつけたところへ、見越していたのか空を駆る勢いで莠が走り寄り、氷の一撃を放った。防ぐ隙を与えず、大きく鋭い冷えた刃が、ハーシュの胸元を刺し貫く。

 それは人でいうならば心の臓のそば近くを掠め、肺を穿って背まで突き抜けた。幾重も澄んだ花弁を重ねたように、歪に重なり合った形がまた凶悪だ。引き抜く瞬間、臓腑を絡めて抉り取られる気持ちの悪い激痛とともに、胸から腹にかけて風穴が開く。ハーシュは血を吐き呻きながらも、身体の芯がひどく冷めたく凍えていく感覚に気づいて、まずいと莠との間合いをとって地を蹴った。


 傷口周りを起点に、身体の中から凍りついていっている。刃の破片が棘となって、突き刺さり、残っているのだ。このままでは内から彼の氷に蝕まれると、ハーシュは躊躇いなく刺し抜かれた胸元に手をやり、紅蓮の炎で己ごと彼の氷の棘を焼き焦がした。

「さっすが魔獣。……型破りが過ぎんでしょ」

 らんらんと光る金色の目が、炎を胸に抱き、牙をのぞかせた口元を噛み締め、睨めつけてくる。莠は思わず感嘆混じりの乾いた笑みをこぼした。


「やるじぇねぇか、くっそ餓鬼……!」

 咆えたハーシュが、烈火の名残を残しながら地を駆けた。注ぐ雷を防ぎよける莠へと猛然と拳を振るう。応じて打ち返される拳との殴り合いの攻防で、かすかな隙をついて腕を押さえ込んだハーシュが、そのまま殴り込んできた莠の勢いを利用して彼の身体を宙に返し、背中から地へと沈めた。襲う痛みに莠が顔を歪める間もなく、さらにそこへ上から拳を振り下ろす。だが、緑の瞳がハーシュを睨み上げた瞬間。瞬きの間に生まれた無数の氷の礫がハーシュ目掛けて空へと突き抜けた。

 腹や肩を突き抜けて散る血飛沫に、さすがにハーシュが身を引けば、跳ね飛び起きた莠もハーシュと距離をとって再び対峙する。


 その姿はもう、なぜ立てているのか理解に苦しむほどだった。雷霆に切り裂かれたいくつもの傷口は、凍結させて強引な止血をしているようだが、それでも白い軍衣は見る影もない。まだ真新しい鮮やかな赤と泥にぐちゃぐちゃに汚れ、切れて破れてぼろぼろだ。叩きつけ合った拳は皮が剥がれて、その指も砕けているところがあるだろう。それ以外にも彼の身体中のそこここで、骨がいっている箇所があるはずだが、彼は立って、動いて、少なくとも平然と、といっていい程度を装って戦えている。

 血と泥の化粧で彩られてもなお、見目のいい顔は涼やかさを失わず、凛と切れ長な緑の目元が、いっそう際立って映えている気すらした。とうに月の沈んだ星明かりだけの冷えた夜空のもと、乱れていてさえ華やかに、金糸の髪がなびく。

(ったく……なんでそうやって立ってられんだよ)


 ハーシュの方も莠に負けず劣らず、ろくな有様とはいえない。燃え盛る炎の髪は血と泥にまみれて重く、青い衣を深紅に染めるいくつもの傷はおろか、先ほど胸から腹に開けられた風穴は、人の身ならば命があるはずもない。それほどの痛手を許さざるを得なかった。

(魔獣と互角にやりあう、か……)

 城の中庭であったはずの場所は無惨に跡形もなく、そこだけに収まりきらなかった戦いの余波で、周囲には瓦礫が散乱し、場所によっては城内なのに更地になっている。それはもはや、人の域を超えた戦闘だ。例え魔法が使えようと、魔獣に比肩する魔力を持とうと、彼の身体は人には変わらない。そのはずなのに、魔獣との戦いに耐えて、喰らいついてきている。


 かつて揶揄したように、本当にただのよくできた継ぎ接ぎ人形だったならば、どれほどやりやすかったか。けれど目の前にあるのは、火花を散らすような鮮烈な緑の瞳。

(そういう目をしながら、そっちに立ったか)

 それは惚れ惚れするほどの、魔獣が魅せられる、己が為したいことにかじりつく、貪欲な人の目だ。

「――いい加減眠っとけよ、坊主。次は殺しちまいそうだ」

「ここで止まれないし、ここでは死なない」

 微笑みつつも低く咆えるハーシュへ、己もまた口元に笑みを携えて莠は彼を睨みつけた。

「死に方は決めてるんでね。それは、あんたに倒されるんじゃない」

「へぇ……だったら、しっかり生き抜けよ。お前を殺しちまったら俺もやべぇからな。――お前のその強情さに、賭けてやるよ」

 血濡れた魔獣が、笑い声混じりに不敵に口端を引き上げる。頬の入れ墨が淡く光り、莠が訝しんで身構えるより早く、獣の双眸がふっと細く弧を描いた。

「少しばかし、理性飛ばすぜ」


 稲妻がその眼差しから迸ったのかのように、魔獣を金色に染め上げた。瞬間。莠の視界が真っ白に輝いた。雷鳴の轟音すら遠く霞むほど、強烈な閃光が肌から瞳から、骨の髄まで突き刺し引き裂くようで――まずいと守りに全神経を集中させた時には、すべてを呑まれて消し飛ばされたような心地がした。

 ――次に莠がわかったのは、背が地面に打ちつけられ、跳ねたような感覚。引いていく光の波に、視界が赤く濡れていたことにようやく気づけた時にも、一瞬己がどこに転がっているのか把握できなかった。瞬きをして瞳へと流れ込む血の流れを阻みはできたが、腕が持ち上がらない。

(やべ……片腕、完璧に潰されたな……。足は……残っちゃ、いるか……)

 雷光に引き千切られそうな四肢を無理やり氷で繋ぎ止めた。右腕は残念ながらついているだけだが、他は正しく思い通りにはいかなくとも、動きはしそうだ。身体も防御が功を奏してくれたようで、繋がってはいる。

 だが、痛みの種類が、常軌を逸した段階にまでいってしまったらしい。痛さが薄れるほど、どこもかしこも悲鳴をあげているようなので、中身の方は目も当てられないことになっているのかもしれない。

(ああ、だけど、これなら――まだ、立てる)

 ゆるゆると、入りきらない力を足に、腕に、腹に込めて莠は立ち上がった。


「とんだ、餓鬼だな……」

 愕然と、ハーシュが苦笑交じりにぼやくのが聞こえた。

 でも、そこで身体は限界だったらしい。震えた足は崩れて、莠はまろび落ちるように膝をついた。衝撃でせりあがった鉄の味をむせながら吐きすてる。浅い呼吸にすら苦しげに上下する肩へ、ハーシュが静かに歩み寄った。

「坊主、手詰まりだ。認めろよ」

 乱雑に顔にかかる金糸を払いも出来ないまま、なおも睨み上げる薄緑を、ハーシュは睥睨する。

「お前はここで死ねない。俺はお前を殺せない。それなら、これで仕舞いでいいじゃねぇか」

「どうかな……。あんたが風の姫の助力のために進むなら、ここで止める。必ずだ」

 血の紅を引く唇が、笑みを象って懸命に牙をたてる。本当に言葉どおり、ハーシュが進むなら、彼は幾度も立ち塞がるのだろう。あまりにも意固地な決意に、ハーシュは思わず笑って、どしりと彼の前に腰を落として座り込んだ。

 素直に驚きに瞬く莠を覗き込んで、語りかける。


「俺はここまでだ。俺が行かなくても、ちゃんと、姫さんたちが片付ける」

「……できると?」

「できるじゃなくて、やるっつう目をしてた。なら、あれはやり遂げる。そういう、めんどくせぇたちの人間だぜ?」

 拳を交えていた先までの殺伐とした気迫はどこへやら、親しみすらある目配せに、莠は茫然と金色の獣の双眸を見上げ――ふと、相好を崩した。唇からこぼれた笑い声は弱々しかったが、毒も棘の含みもなく軽やかに、唐突な静寂の戻った空間に転がり落ちた。

「……確かに。言っても聞きやしないでやりたいことをやり遂げる。そういう、身勝手で面倒な……どっかの王と同じ目だった」

 民と娘とを託した、深く美しいやがて更けゆく夜の紫。あの暖かい色は、いまも鮮やかに覚えている。

『ああ、そうだ。叶うならどうか――』

 あまたの想いを飲み込んで、覚悟してなお震えた手を握りしめ、彼から最期に告げられた言葉が蘇る。莠は苦笑した。

「ったく……人の気も知らないで、あの王は――」


 ゆるりと莠が、おぼつかない動きで立ち上がる。だが、ふらつくぼろぼろの身体を追いかけはせず、ハーシュは鷹揚に問いかけた。

「どこ行く気だ? 場合によっちゃ、続きだぜ?」

「風の姫はやり遂げるんだろ? なら、俺がいるべきはここじゃない。ちょっと、託されたことがあってね」

 春風が金糸の髪に戯れた。赤く汚れていて、けれど星明かりのもと、月のようにきらめく。

「それになにより――この騒動が最後にどう転ぼうと、俺は別にどうでもいいんだよ。風の姫たちが全部終わらせるなら、それはそれでいいさ。いい結末だ。むしろ歓迎しよう。でも、ひとつだけ、どうしても譲れないことがある」

 淡い若葉の瞳はそう、魔獣に鮮やかに微笑みかけ――白銀の光の渦に飲まれて消えた。


「……難儀な坊主」

 ひとつ、呆れ果てた優しいため息を落として、ハーシュは呟いた。

 あの身体では、まっとうに生きられはしなかっただろう。それでも、もう少し諦めるなり見切りをつけるなりすれば、生きやすい道もあったかもしれない。それでも、他を選ばなかったのだ。

「お前もめんどくせぇ人間だよ、坊主」

 どさりとハーシュは仰向けに倒れ込んだ。その振動だけでも身体中に疼き走る痛みに、笑いがもれる。傷つけられるのも、それをここまで苦痛に感じるのも、どれだけぶりかわからない。


「ったく、動きたくても動けねぇな、これ……。魔獣の腹に風穴あけて、ここまでズタボロにしやがって」

 莠に散々にやられたところに、誓いへの抵触も重なって、正直なところハーシュの方も限界だった。それでも、帰りつかなければならない場所があるから、踏ん張れたのだ。だから、ピユラも、透夜も、ユリアも――そして蒼珠も、そうであれと願う。

(やり遂げたいことをやり遂げて――……)

 無事に帰って来いと、ハーシュは明るい星空をぼんやりと見上げた。瞼が重くなってくる。

「ちっと、寝るしかねぇな、これ……」

 じわじわと溶けるように抜け落ちていく力を感じながら、ハーシュはゆっくりと瞳を閉じた。

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