第二章 紅い魔獣ー1

 人間の母と、魔獣の父。人と似た姿ながら精霊に近い性質を持ち、遥かに強い魔力を宿していた異種族――その血が蒼珠の中には流れている。

 夢物語のようだと、当の本人である蒼珠自身でさえいくども思う。古にはこの地に人と共に住まっていたという魔獣は、いまはいずこかに消え、姿を見せることはない。もはや実在したかも危ぶまれる物語の中だけの存在――世の多くの者にとっては、魔獣とはもはやそうした幻想に近しい。


 だが彼の父は、間違いなく人ならざる魔を宿しながら、まるで人のように彼の母を恋い、再び人の世に姿を現して交わることを良しとした。魔獣がなぜこの世を去り、いまはいずこにいるのか、父は決して語らなかったので蒼珠は魔獣の子とはいえ知る術を持たない。ただ、人とともに在ろうとすることが、かの種族にとってどれほど異質なことかは理解していた。人の世とは極力交わらない――魔獣たちはそれを己の誇りに誓う。命とほぼ同義に誇りを扱うかの種族にとって、それは重い誓いだった。その誓いをわずかなりとも破ることを覚悟してまで、父は母を選んだのだ。


(ああ、だから――親父が母さんをなにより大切に思うのは、当たり前だ……)

 どこに自身があるともつかない虚ろな意識の片隅で、蒼珠は思う。


 生まれついての彼の性質は、どちらかといえば人である母に寄っていた。魔獣と呼ばれる所以のひとつたる獣に似た身体的特徴もなければ、かすか髪に特異な父譲りの紅が混じる程度で、髪も瞳も母と同じ。深い黒と、海を切り取った蒼をしていた。

 そう、彼の瞳は本来、その名が示す通り、深く澄んだ海原の蒼だったのだ。それが父と同じ金色に塗り変わったのは、十七の時。父が母と共に姿を消し、ひとり取り残され、特に目的もなくさすらいながら、どうしたものかと途方にくれていた頃だ。


 その帝国の男は、彼の生まれに目をつけて蒼珠の前に姿を見せた。元より強い魔力を持つ存在を自国に呼び集め、従わぬならば消していた国だ。魔獣である父はもちろん、蒼珠の母も、いまの世の人としては並々ならぬ魔力を持つ女性だった。そのため、帝国は二人を当然のごとく追い求め、ゆえに蒼珠の両親は、ずっと帝国から身を隠し続けていなければならなかった。だから、蒼珠の存在をかの国が知ることになったのも、きっと父母を辿ってのことだろう。


(まあ、俺には、ほとんど魔力なんてなかったけどな……)

 父にも似ず、母にも似ず、魔力をほとんど持たなかった蒼珠は、それゆえ魔力の強弱に拘泥する帝国の目には止まらないかと思われた。だが、魔法技術府の長官――その男は、ただ魔獣の子という一点において、彼に強い興味を示し、彼をこう、誘ったのだ。

『魔獣の力を、目覚めさせたくはないかい?』

 それはまだ少年だった蒼珠には、どこか甘美に響く誘いだった。もし父のような力があればと憧れた。もし母のごとき魔力が備わっていればと夢を見た。力がないからこそ、幼い頃から心のどこかでずっと希っていた。そうすれば――父母と同じ世界が見える気がして。


 蒼珠はその男の誘いに乗り、差し伸べられたその手を取った。そして彼によって、魔獣の血を無理やり呼び覚ます処置を施されたのだ。けれどそれは、蒼珠が焦がれた、父のような誇り高い力ではなかった。殺戮に溺れて狂気を快楽とするような、陰惨な力になり果てていた。

 だから彼はその男の元を抜けだし、帝国の傘下にない風羅まで逃げ延びたのだ。だが、例え逃げ出そうと、一度目覚めさせた力はそのままだった。それゆえ蒼珠は、常時は魔力はなくともその気配に敏感で、魔の力をその身に受けると姿を魔獣に変じてしまう。その上いまだ、自身で抑えが効かず、力を誇示するように暴走してしまうのだ。


(情けねぇ話……。いつか必ず、使いこなしてやるって思ってんのに、いつも、うまくいかねぇ……)

 父のように在れない。その強大な力を意のままに御し、守りたい者のために時に凪のように鎮め、時に嵐のように揮う――その背に追いつくどころか、その影を踏むことすらできない。絶望的に――

(遠い……)

 魔法の消えゆく世界でなお、強力な魔力を有する母を持ちながら、真の魔獣たる父を持ちながら、彼は父母の足元にも及べなかった。生きる世界が違い過ぎた。


 父母と比べればあまりに異なるその弱さは、それゆえに事が起こった時、共にいる二人の足を引き、母を危険にさらすかもしれなかった。だから、あの突然の旅立ちの日、母をなにより思っていた父は、危険を招く彼を、きっと――

(置いて行ったんだろうなぁ……)

 それは蒼珠にとって受け入れがたいことではなかったが、それでも、なにかが胸の奥に穴をあけた。

(だから、ああ、そうだ。だから――あの日、あいつの手を取っちまったんだ……)


 一年に及ぶ拘束と断続的な苦痛を代償に、かの男が目覚めさせてくれた力は、幼い日から蒼珠が焦がれてやまなった父の血に連なる力だった。魔力もないひ弱な名ばかりの魔獣の子ではなく、確かにあの父と繋がるものはあったのだと示してくれた。制御できないという、父との格の違いをより明白に浮き彫りにされてもなお、その父譲りの力は蒼珠にどこか安堵を与えてくれた。

 だからこそ、どんなに厄介だと手に余らせようと、力があること自体は快く受け入れられてしまっているのだ。そのため、余計に呪いきれない。恨みきれない。彼に焦がれた魔獣の力で、殺戮を為させたあの男を――。

『君も、魔獣を夢見ているんだろう?』

 そう笑った魔法技術府の長官。彼の真っ直ぐな琥珀の瞳は、蒼珠の胸の奥にあるのと同じ虚空を持っていた。


(ジェディアーツ……。レニウム・ジェディアーツ――……)

 忘れ得も出来ないその名の男は、初めて金色に染まり変わった蒼珠の瞳を見た時、純粋な喜びを湛えて、美しいと魅入っていた。

 ようやく父と繋がった魔獣の色。獣の瞳――それは、魔獣の姿ではない時も変わらず、元の蒼に戻ることはなかった。


(そういや、昔、ピユラにそんな話、したな……)

 彼の金の目を珍しいと覗き込む彼女に、以前は海のような蒼だったとなんの気はなしに話したことがある。その時、ピユラは大きな紫の瞳を憧れに染め、そして微笑んでいったのだ。

『そうか、ならばその色のそなたも見てみたかった』

 幼子から少女へと足を踏み出しかけた屈託のない笑みを、風羅の風にそよぐ黒髪が彩っていたのを覚えている。

『その陽射しの瞳も美しいが、妾は海を見たことがない。さぞ、美しい色であったのだろう?』

 彼女とその父の瞳は明け染める空に似た深い紫。風羅の民は、若葉の翡翠色。彼女の周りに確かに青い瞳は存在しなかった。だが、紫よりも、薄緑よりも、ずっとずっと、ありふれた色だ。そう、思っていたし、そう伝えもした。けれど彼女はいったのだ。

『蒼珠の〈蒼〉なのだろう? ならばきっと、美しいに決まっておる!』

 ありふれた、魔のない証の元の蒼を望んだその言葉は、金色の魔獣の瞳に焦がれていたかの男とも、切望した蒼珠自身とも違っていて、どこか胸の奥に柔らかに落ちた。


(なんでだろうな……そいつが、とても――)

 嬉しかったのだ。自分でさえ手放したあの蒼を望まれたことが、なぜか彼の奥底に喜びをもたらした。そのことに己で驚きもしたが、あれからだったように思う。彼女が彼にとって、ただの護衛する王女ではなく、守りたいピユラという存在になったのは。


(そうだよ、だから、こんな風にぼんやりしてる場合じゃ……ねぇだろ)

 揺蕩う意識を搔き集める。朧に不確かに、闇の中を泳いでいたような感覚が少しずつ冴えてくる。自分は魔獣となり、正気を失っていたのだと記憶が繋がってきて、目を開けねばと、蒼珠は四肢へと力を込めた。

 魔獣へと変じる前に、ピユラを透夜へと投げ飛ばした。あの少年のことだ。上手くやってくれているだろうが、その信頼とは別にピユラの無事を確認しないわけにはいかない。

(また、迷惑かけちまったことも、謝らねぇと――)

 心配に影を落とす瞳ではなく、あの日、海に思いを馳せて浮かべたような鮮やかな笑顔をこそ、彼女にもたらしたいのに。

(気張れよ……俺!)

 強引に拳を握りしめる。その感触に、沈み落ちそうだった身体が覚醒し始めた。目を、開く。金色の瞳に眩い光が差し込んで、思わず彼はそれを細めた。朝陽のようだ。


「蒼珠――! 目覚めたか」

 朝焼けの温かな輝きの中で、彼をのぞき込む淡い輪郭がやがて確かな姿を結んだ。ほっと息をついた紫水晶の煌きに、蒼珠は堪らず手を伸べ、その頭をなでた。

「ああ……。ピユラ……悪かったな」

 かすれた声は、彼が思った以上に情けない響きだったが、ピユラはそれでもよかったらしい。不安げな色を揺らめく涙の奥に溶かし消して、彼女は淡くその瞳を弧に和らげた。

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