第一章 遭遇ー24
村の集会所のすぐ隣は小さな広場になっていた。村を守るように大樹が一本、落葉した枝で星空を突き刺し佇んでいる。あまり離れても心配をかけようと、ピユラはその樹の根元に腰を下ろし、梢越しに空を見上げた。冴えた輝きを見せる星々は、故国で仰いだ星と似ているようでどこか違う。
(これぐらいの時期にはもう、風羅では雪が舞ってたの……)
所が変われば季節の移ろいも随分と違うものだと、知識では知っていたが、体で感じるのはまた格別だった。短くない夏のきらめきも、緩やかな秋も、国を逃げ延びてから初めてその肌で触れ、その眼で見た。異なる街並み、新鮮な空の色、人の溢れる大市場に、感じたことのない風のそよぎ。透夜やユリアとの出会いも、風羅にいたままでは得られなかった巡り合わせだろう。それは確かにピユラの心を躍らせたし、温かな感情を灯しもした。
(あのようなことがあっても、心は動くのだと――……)
最初にそのことを認識した時、自身の薄情さにひどく落胆したものだ。あの日の閃光を胸に刻んだまま、楽しいと感じるなど、頬が笑みに動くなど、決してないと思っていた。
(許されることではないと――)
だがピユラの心は時に弾み、時に歌うことをやがて取り戻していた。それは悪いことではないと、そばで見守る優しい金色の瞳が、その微笑みで教えてくれてもいた。だから、彼女は、その心を受け入れることにした。もしかしたら、あの日宿した復讐の火を忘れてしまうのではないかと、どこか危惧しながら――。
(それは、要らぬ憂いじゃったがな……)
楽しいと思う、美しいと感じる。そのたびに、ああ、どうして、これを見せ、語ることをしたい相手がもういないのだろうと、踊る心の奥底で、なにかが暗く揺らいで燻るのだ。それは旅の中で訪れる幸せの積み重ねに比例するように、時を重ねるごとに、強く深く彼女の胸の底に根を張っていった。
あの時花をくれた女性に、この異国の花を見せたなら、どんな目をして驚くのだろう。あの時の老女に、見慣れぬ菓子を贈ったらどんな顔をして味わうのだろう。大きくなっていたかもしれない幼子とその新しい家族に、人に賑わう市の話を聞かせたらどのように瞳を輝かせたのだろう。
(父上に、それをお話したら――……)
どんな笑顔で、笑ってくれたのだろう。
風羅の外を楽しむピユラと背中を合わせるように、ずっとずっと、あの日を思い出して、仄暗い感情を圧し抱き続ける彼女がいるのだ。
「だから必ず、仇を討つと決めておるのに……」
悔しげな涙混じりの声を攫うように、風が吹き寄せ、空へと抜けていく。
「なんとも――本当になんとも思われていないとは……!」
抱いた膝頭に顔をうずめ、ピユラは溢れそうな涙を噛み殺した。
彼女がどれ程の憎しみを抱いていようと、かの国にとって、亡国の王女は、気に留める必要もない矮小な存在なのだ。それはまるで、彼女の抱く復讐の念すら、無意味なものだと貶められたようにピユラには思えた。
そこに、柔らかに風が渦巻き舞った。顔を上げれば、濡れた紫の瞳に、幼子の姿をした精霊の姿が飛び込んでくる。
「祥雲……。透夜の兄君を見つけてくれたのか」
淡く浮かべられた笑みに、翡翠の瞳を陰らせながら祥雲は小さく頷いた。すまぬな、と感謝を示すピユラの元へ、ふわりと近寄り彼女を見つめ上げる。
本来人の姿を持たない彼は、自在にその形も色も変えられる。ただ、風羅の地で初めて彼女の前に姿を結んだ時から、いつも祥雲の瞳の色は、彼女の愛しむ民の色を模していた。それを彼女がどんな眼差しで見つめていたか、彼は知っていたからだ。
「……心配をかけてすまぬな」
あまり表情は動いていないが、しかと伝わる労わりの色に、ピユラは淡く翳る紫の瞳を力なく細めた。
「二年経っても、仇をとる術さえ見つけられぬ……。不甲斐ないの。じゃからじゃろうか……。私は、あの国にとって敵ですらないらしい……」
冷たい空気に震える星空へ、滲むようにピユラの声は消えていく。
「せめて、父君をあのような目にあわせた奴だけでも討ち取ってみせたなら、かの国も私を脅威と怖れるじゃろうか?」
まるで叶わぬ夢を語るように、ピユラは上辺ばかりは笑ってみせた。瞬間。真っ直ぐに気づかう、風羅の民の瞳の色がその視界に重なった。涙がピユラの顔を、いっきに歪める。
「すまぬ……。祥雲。いまは少し、心が折れそうじゃ――……」
再び顔を膝に沈めて身を抱いて、ピユラは堪えながら肩を震わせた。
無意味だと打ち捨てられても、この振り上げた刃の意味をしかと思い知らせてやりたい。けれど誰に、どうやって――。それすら掴めないまま過ごした二年は、確かにあの国が突きつけてきたように、なにもなし得ない無力さそのものなのではないかという気がした。
(なにも、なにも皆のために、父上のために、出来ぬのなら……)
この思いは、どうすればいいのだろう――……。
ピユラの黒髪を撫でて、また風が一陣、遠く北の空へと吹き過ぎていく。目には見えない風の行く末を、ふと祥雲は追いかけて瞬き――そっとその眼を閉じて、しばし寄り添うように風の王女の隣に腰掛けた。
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