第一章 遭遇ー23

 ユリアから湯気の立ち昇るスープを入れたカップを差し出され、ピユラは礼をいってそれを受け取った。少し口をつければ、先ほど起きたばかりの空っぽの身体に温もりと優しい味が染みわたる。


 すっかり夜も更けていた。月はもう沈んでしまったが、窓からのぞく冷えた空には星が瞬いている。

 あのあと何事もなくたどり着けたのは、宿もない小さな村だったが、幸い夜は使わない集会所を一夜の寝床として借りることが出来た。透夜の話によれば、最初彼らを受け入れがたくしていた村人の説得に、ユリアの手腕が光ったらしい。隙間風は多少寒いが、確かな屋根と壁があるだけで昨夜よりずっとましだった。ランプの火灯りは焚き火よりは弱々しくとも、部屋を十分に照らしてくれている。長椅子に横たえられた蒼珠はまだ起きずに寝ているが、呼吸は安定しており、大事はなさそうである。おそらく明日には目を覚ますだろう。


「しかし、また肝心な時に、私は気を失っていたのじゃな……」

 意識が途切れたあとの事の顛末を聞き、莠と玄也が現れたと知ってピユラは肩を落とした。すまぬ、と詫びる彼女に、隣に腰掛けたユリアは首を振る。

「ピユラちゃんはあれだけ頑張ったあとだったんだもん。なにも悪いことはないよ?」

「それに、おそらく、お前が残した風魔法に助けられた。なにもできなかったわけじゃない」

「そうか……。うむ、なら、よいのじゃが……。そうした魔法ではないはずなのじゃが……」

 重ねて向かいからかかる透夜の言葉に首を捻るピユラの顔は、いまひとつ晴れない。歯切れ悪く手元のカップをくるくると弄り回している。


「しかし、そなたらには随分と迷惑をかけた。このようなことになるなら、先に蒼珠の事情を詳らかにしておくべきだったやも知れぬが――あやつの踏み込んだ領域のこともあってな。すまぬ……」

「話づらいことは誰にでもあるだろ。別に、いまも詳しく話さなくてもいい。今後のために、対応方法ぐらいは聞いておきたいがな」

 気遣うというには淡白に過ぎるほど、当たり前のように透夜はいう。それに少し救われて、ピユラは淡く微笑んだ。

「ならば、いまはその言葉に甘えよう。話すにしても――本人の口からの方が良いじゃろうからな」

 おそらく、いまとなれば蒼珠も迷わずその身の上を語るだろうし、ピユラが代弁することも良しとしよう。だがその一線は守っておきたいものだった。ピユラは紫水晶の視線を柔らかに、眠る蒼珠へと注いだ。


「ピユラ。それとは別に、ひとつお前が起きたら聞きたいことがあったんだが、いいか?」

「なんじゃ?」

 話題を変えての透夜の問いかけに振り返り、ピユラは首を傾ぐ。

「魔法を使う際に、呪文を唱えないっていうのはよくあることなのか? 莠と玄也がそうだったんだが」

「そういわれてみれば……最初の夜の時も、そうだったかも」

 記憶を手繰るようにしてユリアも呟く。彼女としては気に留められるほどの余裕もなかったのだが、透夜は違ったようだ。


 先の交戦の際、それは彼に無視できない引っかかりを残した。ピユラは魔法を使う時に必ず呪文を口に上らせる。あの魔法使いの青年もそうであったし、獣と化した蒼珠でさえ、明瞭な言葉にはなっていなかったが、雷を放つ前になにごとかを咆えていた。しかし、莠と玄也のふたりには、まるでそうした素振りがなかった。指先ひとつ、時には動きさえなく彼らは魔法を行使していた。


「なんじゃと?」

 身体を固まらせ、ピユラが驚愕に眦を裂く。その語るよりも明瞭な反応に、透夜は眉間にしわを寄せた。

「普通じゃない感じだな……。特殊な力か?」

「特殊……とは少し違うかもしれぬが、それは、考えらえぬほどの魔法の使い手じゃ。いや、魔力の量が異なるというべきかもしれぬ。私はおろか、例え魔法大国の王とはいえ、父上ですら呪文詠唱なしに魔法を操ることは不可能じゃった……。呪文は魔力を精霊へと繋げる道筋のようなもの。道もなく精霊へと自身の魔力を結びつけるなど、よほどの魔力量がなければできぬ芸当じゃ。古の頃には、そうした魔法を使えた者もいたと伝え聞くし、それこそ、魔獣のような魔力の高い種族ともなれば別じゃろうが、いまの世の人の身で、そのような魔法使いがいるとは――……」

 ピユラは言葉を途切らせ、俯いた。長いまつげが、その瞳に深く影を落とす。


「なるほど……。しかしならば、得心がいく。魔法大国の王女といっても、私は呪文もなしに魔法を操るなどできぬ。そんな力はない。だが、そんな力がある者たちがかの国にいるのなら、たかが普通に魔法が使える程度の王女ひとり、生き残っていてもなにを怖れることがあろうか……」

 零れ落ちた長い黒髪が伏せた顔を隠し、その表情はうかがえない。だが、その声音はいつにないほど重く沈んでいた。細い肩がかすか震えている。

「あの魔法使いは、蒼珠が狙いで他はどうでもよいといっておった。莠たちの狙いはいうまでもなくユリアじゃ。帝国の狙いは、ユリアであり、蒼珠であったということじゃ。風羅の王女など、かの国の眼中にはなかった――……」


 追手が彼女たちにかかった時、それが帝国に関わるかもしれないと思われた時、危機感や憂いの念ともに、ピユラの胸に灯ったのは期待だった。

(生き残りを――生き残りの王女を、かの帝国が見過ごすはずがないと……)

 そう、思っていたかった。祖国を滅ぼされた理由もいまだ分からない。だが、そこにしかとした訳があり、だからこそ、いずれ国を継ぐべき者がいまだ生きていることを、あの帝国に危惧していてほしかった。自身があの国にとって排除せねばならないほどの存在ならば、生き延びているだけで、それはかの国への報復となる。

(私があの国の脅威足り得るならば、復讐の手立てとて、多くなろうと……)

 風魔法を操る者――風羅の王女を見つけたから、帝国から追手がかかっているのかもしれないという予測は、だから彼女を奮い立たたせた。帝国は彼女を怖れているのだと――そうあってほしいという、ピユラの願いを支えてくれるものだった。しかし、現実は違った。それは、幻想だった。


「国を失い、蒼珠と二年、旅の身でさすらい続けていたのは、安住の地を探してではない……。かの国の情報を得て、なにか報復の方法はないかと、探して、いたのじゃ。二年、ずっと……ずっとあの日から、探していたのじゃ……」

 城から外に赴けば、ふわりと優しい笑顔がそこかしこに花咲いた。風にそよぐ春の若草のような翡翠の色の瞳を細め、人々は温かに彼女を出迎えてくれた。


(ああ、そうだ……)

 彼女の頭に似合うからと花を飾る女性がいた。手招きし、焼き立ての菓子をくれる老婆がいた。手を引いて、新たな家族を教えてくれる幼子がいた。その愛おしい人々の話を持ち帰れば、すべて穏やかに耳を傾け、聞いてくれる父がいた。

 あの天を裂いた光の中に、いたのだ。確かにいたのだ。あの日までは、当たり前にいたのだ。

 だから、ずっと探していた。取り戻せないあの日々を、それでも取り戻したいあの日々を。それを奪ったすべてへ報いを受けさせることが出来る術を――。

 ピユラは膝の上で両掌をきつくきつく握りしめた。


「じゃが、けれど、私は、奴らにとってはなんでもなかった。――なんでもなかったのじゃ……」

 蒼珠のことを知っているのだ。ピユラの存在とて掴んでいるだろう。それにも拘らず、帝国は彼女を歯牙にもかけなかった。

 突きつけられた心地だ。お前にはなにもできない――と。あの日、民と父を見捨てて生き延びながら、王女としてなにも為せはしないのだと。

「いつか仇を討つと、そう思えば、あの日を思い出しても歩んでこられたのじゃが……。私は、脅威どころか――あの国にとってはもはや――目にも、入っていない存在なのじゃな――……」

 ピユラの声は、消え入るように静まった空間に溶けていった。

 声をかけあぐねて戸惑う隣のユリアへ、すまぬ、と力なく笑いかけ、ピユラは手にしていたカップをそっと手渡した。

「預かっていてくれぬか。外へ行く。少し、風にあたりたいのじゃ……」


 足早に外へと駆けたピユラの背があまりもか細くて、出ていった扉を眉を曇らせ、ユリアは見守った。

「大丈夫かな……」

「追手の心配、というだけなら、すぐそこにいるからなんとかすると答えられるが……そうじゃない方は、俺たちにどうこう出来る話ではないな」

 柔らかに溜息を落として、透夜がユリアに歩み寄る。その彼の眼差しもまた、どこか気づかわしげに外へと向けられていた。


「私ね……ピユラちゃんって、私の持ってたお姫様像と違って、よく謝るなって思ってたの」

 ぽつりと、ユリアが話しかけるでもなく呟いた。薄い青の瞳の奥で、ランプの灯が星明かりのように揺らぐ。

「力になれないってなると、しゅんとして、本当に申し訳なさそうに謝るの。逆に、誰かを助られたり、力になれたりすると、すごく喜んで――なんだか、それがいま、ずっと故郷になにもできなかったってことを引きずってたのかなって、気がしちゃった――……」

「二年前じゃ……どうしたって、よく覚えてるだろうしな」

 ピユラの話に透夜の脳裏を過ったのは、あの血の海だ。遠い霞んだ記憶の先にあろうと、それは思い出すたび、いい気はしない。だから、あの血の海に紐づく先に、どうしようもない愛おしさがあるのなら、それはどれ程の憎悪に変わるのか、どれほどの痛みになるのか――分かりはしないが、わずかなりとも慮ることはできた。おそらく、きっとそれは、堪らなく――

「苦しいだろうな……」

 囁くように零れた透夜の一言に、ユリアはふと、そば近くにあった彼の手へそっと自身の手を絡めた。払うでなく、握り返してきてくれたその掌に、ユリアは堪らず込める力を強める。

 風がふわりと二人の間を抜けて、ピユラを追うように部屋の中を吹き過ぎていった。


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