第一章 遭遇ー20

 上がった呼吸を整えることも出来ず、青年は呻き声をあげてうずくまった。胸元からも肩からも溢れる血潮とつんざく痛みに、目の前が霞む。呂律が回らず、魔法を操る体力ももう限界だ。それなのに、目の前の獣は幾度炎を身に受けて傷を負い、血を流そうと、痛みを知らぬかのごとく、その手を緩ませることはなかった。

 こんなはずではなかったのに、と彼は震える唇を噛む。青年に蒼珠を連れ帰るよう命じた相手は、簡単な仕事だと告げた。彼の魔法の腕ならば、手に負えないような相手はいないと、微笑んでいたというのに――。


 差した影に視線を上げれば、抗わなくなった彼に興味を失くしたのか、先まで薄く弧を描いていた金色の目が、冷ややかに青年を見下ろしていた。まずいと呪文を紡ごうと思った時にはもう遅く、飽いた獲物に止めを刺そうと、鋭い軌跡を描いて、無慈悲にその爪が彼へと振り下ろされた。


 だが、それが彼を抉り、切り裂くより早く、一陣風が吹き抜けるように影が割っていった。音高く刃のごとき爪を弾き返し、不意のことによろめいたその身体へ間髪入れずに蹴りを叩き込む。その時また風が渦巻いて、多少のことでは揺らがなかった蒼珠の身体は、倒れはしないまでも、勢いよく弾かれて地面を滑った。

 ふたりの視界がともに捉えたのは、凛と剣を構える薄く紫がかった黒髪の少年。青年が驚きに目を瞠るのと、新たな獲物の登場に蒼珠が笑みを刻むのとはほぼ同時だった。


「お前には聞くことがある。助けてやるから逃げずに下がってろ」

 振り向きもせず青年に告げると、透夜は蒼珠との距離を縮めて地を蹴った。楽しげに向かってきた蒼珠の振るう斬撃を受けて流し、切り結ぶ。その度に、風がその剣の周りに彼を守るように吹き寄せた。


 ピユラが透夜に求めたのは、時間稼ぎだった。

『あの姿になった蒼珠を止めるには、私の魔法であやつの力を鎮めねばならぬ。じゃが、ただでさえ多少時間を要する魔法である上、いま、私の魔力はかなり消耗している。確実に鎮め、蒼珠を止められる精度で魔法を行使するには、魔力を紡ぎ、術に込める時間がいる。じゃから――』

 透夜にそれまでの間、蒼珠を制し、かの魔法使いの青年を守ってほしいとピユラは頼んだ。いまの尋常ではない蒼珠の力に相対し、それを押さえ続ける難しさを理解したうえでなお、彼女はそう乞うた。そして、それを分かったうえで、透夜はその願いを聞き入れた。

『多少、いまの蒼珠にならば怪我をさせても構わぬ。私が必ず治すゆえ、遠慮はせずにゆくがよい。下手な加減は命取りになる。それは、だれも望まぬ結末じゃ……』

 そう忠告したピユラに、最初から回復の力を当てにしていたと、透夜は答えた。元より手を抜いて挑む気はないと、ユリアの安全をピユラに託し、わずかなりとも助力にしろと彼女が与えた風の力を身に受けて、彼は蒼珠へと剣を向けた。


 蒼珠の薙ぐような腕のひと振りを跳んで避けるのにあわせて、彼の足元で風が動く。常より高く軽やかにその身は宙を舞い、地についたと同時に隙を狙って踏み込む足にも、加速が増す。

 ピユラが透夜へ施したのは、彼女が起こした風魔法の力を一時的に移譲するものだった。蒼珠を封じるためにも大した力は割けないが、多少動きの速度を上げたり、守備や攻撃の補強になると彼女はいった。


『預けた分の風の力だけじゃが、それはそなたの意に従い操れる。慣れぬ力ゆえ、扱いづらいこともあろうが、ないよりはあった方が助けになるじゃろう』

 そのピユラの言葉に反して、風は透夜に寄り添い馴染み、確かにその助けとなっていた。


 振りぬいた剣を身を逸らして避けた蒼珠の前髪を、切っ先が掠め、真紅の髪を青空に散らす。睨み上げる透夜の双眸に金の瞳孔がさらに細く長く、興奮に揺らめいて、牙を覗かせた口元が笑う。拳をたたきつけるような一撃を透夜が躱せば、先まで彼がいた地が貫かれ、舞い上がる小石や砂塵が視界を濁した。それを風で勢いよく払って振りかぶられた剣を爪で払いのけ、蒼珠が透夜めがけて足蹴りを叩き込む。風を纏った腕に衝撃を和らげてその打撃を受け止められると、すぐさま体勢を変えて、蒼珠は透夜の首元を狙って爪を走らせた。


 それを身をかがめて避けると同時に、低くなった姿勢のまま透夜の剣が蒼珠の足元を切り払う。高く飛び退いた蒼珠へ間を与えず、透夜は風の助力を得て飛び、追いすがると、中空でそのまま剣を振り下ろした。想定より早いその追撃に蒼珠の目が見開かれ、彼の左の肩から鮮血が吹きあがり、空に散る。


 悔しげに呻いて肩を押さえ、透夜と距離を取って地に下りた蒼珠がその獣の瞳で彼を睨み据えた。だが、その凄烈な眼差しをものともせずに、透夜はさらに迫って舞うように剣をふるう。

 透夜の剣筋を飛びのき避け、時には爪で受けて流しながらも、追い詰められて蒼珠は苛立たしそうに顔を歪めた。

 彼の頬に痣のごとく刻まれた青い文様が、鈍い光を帯びて浮かび上がる。金色の瞳の奥にゆらりと暗い影が揺らめいた。それに訝しんで透夜が眉根を寄せた、瞬間。蒼珠は地を蹴って透夜と大きく距離をとった。


 真紅の髪を逆立てて、咆えるような、叫ぶような声を張りあげる。それと同時に、蒼珠の右腕の周りに雷が渦巻いた。青白く爆ぜ飛びながら、雷の波は彼の腕さえ焼き焦がして眩く煌く。

 息を飲んだ透夜に向けて、矢のごとくその閃光は放たれた。



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