第一章 遭遇ー19
明けた朝は、涼やかな空気で彼らの目覚めを出迎えた。梢から垣間見える晴れた空には、薄く伸びた雲が幾筋も羽根のように流れている。
昨日の残りのパンで簡単に朝食を済ませ、動き出す準備を整えながら、蒼珠がピユラに声をかけた。
「ピユラ。大丈夫そうならまた、あれ試してくんねぇか?」
「スティルの偵察じゃな。もちろん私は問題ない。此度はうまくいくとよいのじゃが……」
ピユラはわずか仕度の輪から離れて立ち上がった。スティルを目指すと決めた時から幾度かかの国の現状を探ろうと試みているのだが、なぜか手応えなくいつも風だけがそよいで終わっていたのだ。なにか魔法への防御策を施しているのかと透夜に尋ねてみたが、彼も思い当たらないという。不可思議だが、それすらスティルの様子が分からなければ推察できない。
ピユラの呪文を紡ぐ声が風を呼び、空へと抜けた。彼女の長い黒髪を天へとあおり、彼方へと駆けていく。やがて舞い降りるように戻った一陣の風が、彼女の周りで弱く緩く渦を巻くようにうねった。昨日まではそこで、肩を落としてピユラが首を振るっていたのだが、今日は違った。
驚きに目を見開き、彼女は思わず透夜を振り返った。その思いもかけない強い視線を訝しみ、彼は柳眉を寄せる。
「なんだよ?」
「そなた、スティルの内務卿の次子といっておったな。兄君は、その……護衛兵団長で間違いないか?」
「ああ、間違いない。なにかあったのか?」
ピユラの様子に常ならざる様子を見て取って、自然、透夜の顔つきも険しくなる。
「昨日その任を解かれ、国を追いやられたようじゃ。どうもかの国の宰相の娘が攫われ、行方知れずとなったらしい。その王都周りの警護の責任を取ってということのようじゃ」
「は? 追いやられたって……追放か? しかも宰相の娘が行方不明というのは……」
思いもかけない事態にその顔に驚愕をのぞかせた透夜は、ふと、そこで考え込んだ。
「――ほかに、なにか分かったことはあるか?」
「王都周りの警備を強化しておるようじゃ。なにやら物々しい。戦でもするかのような感じすらある。あとは……目新しい情報はないの。あくまでこれで分かるのは起こった出来事や事実のみゆえ、そのことの深い意味や意図までは探り切れぬ。なにか、そなたには思うところがあるようじゃが……これ以上はしかとは分からぬ。すまぬ」
「いや、別に構わない。ただ、下手に惑わすことになりたくはないが、その事実に多少内情を知る身として推測を加えさせてもらうと、兄の国外追放の処置がなんとも怪しい。攫われた宰相の娘は兄の許婚で、ここが怖ろしいほど仲が良かったんだ。だから、なんというか……感覚的な話になるが、こう、出来過ぎてる感じがある」
「不審な動向っつうことだな。そういう勘は大事にした方がいいと思うぜ。それに、宰相の娘を誘拐するなんっつう芸当は、役職に見合った警備体制を考えれば、小国でもそれなりに困難を要する。しかも小国でもない、スティルだろ? そいつだけで、あの国にやべぇ事態があったのは確かだ。昨日までなんの手ごたえもなかった情報が、急に読めるようになったのも気になるしな。詳細が風で読めねぇとなると、例えば……国を出た兵団長に接触できりゃ、そのあたりのことが分かるかもしれねぇな。可能ならば、どっかで落ち合えりゃいいんだが」
「でも、落ち合うといっても、どうやって?」
腕組みした蒼珠の言葉にユリアが問えば、彼ではなくピユラの方から声がかかった。
「あてもなく会えることを期待するのは無謀じゃろう。じゃから、いまいずこにおるのか探そう。なかなか難儀なことではあるが……不可能ではない。先に用いた情報を探る風魔法では、どこを探るべきかしかとしないものについては使えぬが――私にはとっておきがあるのじゃ」
「とっておき?」
目配せするピユラにユリアが首を傾げれば、得意げに彼女は小さな口元に不敵な笑みを湛えた。
「我が力で、協力を仰ぐ!」
言うが早いか、ピユラは右手を空へと掲げ、呪文を唱えた。瞳を閉じて、風を纏わせ、さえずる小鳥のように彼女は魔法を歌う。それはいままで幾度か聞いた呪文と似ていながら、どこか言葉の選びが、繋がりが、そして声音が、ずっと慕わしげに語りかけるように聞こえた。
ピユラの声に呼応するかのように宙に風が集まり、淡い薄緑の光を纏う。その輝きはやがて人の形を模り、光が風と共に瞬いて溶け消えると、小さな子どもの姿がそこに現れた。
茫然とそれを見上げる透夜とユリアに、ピユラは我が意を得たりとばかりに胸を張る。零れた気がする蒼珠の溜息は、風の音に紛れて聞こえなかったことにした。
「風の精霊じゃ! 私は祥雲と呼んでおる。わざわざ人の姿を模し、見えるようになってまでそばに来てくれる稀有な者で、私のとっておきの頼もしい友人なのじゃ!」
ふわりと祥雲はピユラの横に舞い降りた。男とも女ともつかない不可思議な風貌で、銀色の髪からのぞく、人ならば耳のあるべきところが翼の形になっている。背にも小さな白い羽が生え、子どもの姿をしているのに大人のような落ち着いた雰囲気があった。
「祥雲。突然すまぬな」
ふるふるとそれに祥雲は首を振るった。表情はないが、その淡い緑の瞳は穏やかにピユラを映している。深い親しみを込めた目だと、ユリアは感じた。
「祥雲に頼めば、いずこと場所が分からずとも、透夜の兄君を探し出してくれよう。その上、こちらが合流したいと思っていることも伝えられる」
透夜たちに満面の笑みでピユラはそう説明し、頼んだぞ、と友たる精霊を振り返った。こくりと頷き、いわずとも事態を把握しているらしい祥雲は、そのまますっと空へと舞い飛び、四人の視界から遠のききる前に風に溶けるように姿を消した。
それを見届けて、額に手をやりながら蒼珠がピユラに歩み寄る。
「あのなぁピユラ、身体は平気か? あいつの好意があるから多少負担は軽減できるとはいえ、精霊を呼び出すなんて古でも横紙破りな魔法、相当消耗すんだろ」
実際この魔法は、彼女よりもずっと魔の力のあった、父たる風羅の王でさえ使うことが適わなかったものだ。魔力の多寡や、魔法の腕前の才覚とは別のもの――精霊に深く愛される才が必要なのだ。王族の紫の目は魔を魅入ると風羅では昔からいわれてきたが、まさしくピユラがそれだった。愛される力が、彼女にはあったのだ。
「あんま軽々しく使うな……といいてぇが、まあ、この場合は、かなり有用な手段だしな」
「じゃろう?」
複雑な表情でその力の行使を認める蒼珠を、ピユラは得意満面の笑顔で振り仰いだ。思わず、蒼珠も苦笑に頬を緩める。
「ああ。助かんぜ。……でも、少なくとも祥雲が戻るまで、体調には気をつけろよ? 魔法を使い続けてるようなもんなんだからな」
「うむ。実はすでに、ちょっと眠い。じゃが、動けはする。つらくなったらいうので心配は不要じゃ。探索にはしばし時間がかかろう。私たちもここで留まらず、行くとしよう」
はりきって皆に告げ、意気揚々とピユラは足を踏み出そうとした。だが――
「見つけた」
ふわりと吹き寄せた風の中に、囁く声がしたかと思った瞬間。進もうとした木立の向こうから、紅蓮の炎が矢のように上空を滑って降り注いできた。咆えるように彼女の名を叫んだ蒼珠の腕が、寸でのところでピユラを引き寄せ抱き飛び、その矢は大地を穿って揺らめき消える。
透夜がユリアを庇って剣を抜き放ち、矢の飛び来た方角を睨みつけた。
「金髪の魔法使いだ……」
彼の声に蒼珠もピユラもそちらを見やれば、木々の合間からするりと現れ、歩み寄る男の姿がそこにあった。背の丈はユリアと同じほどだろうか。あまり高くなく、その華奢とすらいえる身体の線の細さが、いかにも腕力を用いない魔法使いといった風情だった。頬にほのかに広がるそばかすと低い背が幼げに見せるが、少年というには大人の顔立ちだ。長く裾びく灰色の服を捌き、彼らを見定めながら近づいてくる青い瞳はひどく冷たい。だが、なにより透夜や蒼珠の目を引いたのは、ひとつに結ばれその背に揺れる、肩を越すほどの長さの金糸の髪だった。
「やっぱり、離れてると狙いがそれるな……」
肩をすくめ、青年はぼやく。
背に庇ったユリアへわずか視線だけで振り向き、透夜は尋ねた。
「使ったのは炎だが……あいつが、莠か?」
「ううん。違う。あの人じゃない」
掌を握り合わせ、確かにユリアは首を横に振った。同じなのは髪の色ぐらいだろう。あの夜、月明かりを纏わせていた髪は腰を越すほど長かった。それに、笑みを携え続けていた顔立ちも、見上げた背丈も、ことごとく記憶の姿と違う。なにより、いまも胸を圧す痺れるような緊迫感はあるが、あの時背筋を這った言い知れぬ恐怖は、眼前の青年には感じられなかった。
「僕はあのふたり組とは違うよ。一緒にしないでほしい」
莠の名に、青年はやや眉を吊り上げ不快そう言い捨てた。
「あのふたりは確かに力は強いが紛い物だ。僕は本物。そこが、違う」
鋭く素早く紡がれた呪文に呼応して、朱色の火花が散った瞬間、青年の腕の周りに炎が渦巻いた。そのまま振り上げた腕の動きに合わせ蛇のように分かたれ、勢いよくユリア目掛けて空を滑る。
剣を持ち変えると同時にユリアを抱き上げ、飛び退き避けた透夜の脇を紅蓮の軌跡が掠め飛ぶ。間髪入れず重なる呪文に、着地の体制を直す暇もない。透夜が舌打ちし、蒼珠がそれを止めようとナイフを構えた。
だが、すぐにも青年の周りに立ち昇った炎は、再び矢じりの形に燃え盛かったかと思うと、ユリアではなく蒼珠へ向かって飛び交い、そのまま彼の上へと降り注いだ。想定外の燃える矢の雨に、炎の紅を映して金色の目が見開かれる。
「別の部隊は知らないけど、僕の獲物は王女の護衛――あなたなんで。他はどうでもいい」
冷めた声音が遠く聞こえた。まずい、と思う。腕の中にはピユラがいる。自身が避けるより先に、彼女を庇った姿勢で蒼珠は地を蹴った。涙混じりのピユラの叫び声が蒼珠を呼んで響き、逃れきれなかった炎の矢が、ピユラを胸の内へと抱き込んだ彼の背中に叩きこまれる。その飛び来た威力のまま弾き飛ばされた蒼珠の身体は、地面を転がり、強かに近くの樹の幹へと打ちつけられた。
「蒼珠!」
抱きしめられた腕の中から身を起こし、顔を歪めてピユラは蒼珠へすがる。その守りきった小さな体を押し返して、蒼珠は呻いた。じりじりと走る痛みは、背を焼いた炎の熱によるものだけではない。
「離、れろ……。かなり、やべぇ……」
ピユラの表情が固まる。風もないのにふわりと蒼珠の髪が逆立って、額から伝う血に濡れた、重たげな瞼の向こう、かすか見える金の瞳が不穏に光った。
「透夜! 頼んだ……!」
ピユラが動きだすのを待つ間も惜しいとばかりに蒼珠は彼女の腕をわし掴むと、人とは思えぬ力で、その片腕だけで乱雑に透夜に向けて放り投げた。
かろうじて柔らかに弧を描いて落ちるピユラを、訳も分からぬまま透夜は急いで抱き止める。衝撃に短く呻いたピユラを、透夜の背の後ろからユリアが気づかわし気にのぞき込んで身を乗り出した。常の蒼珠からは考えも出来ない彼女への暴挙だ。驚愕を浮かべて透夜は蒼珠へと目をやった。その時――。
空気が震えた。
荒い呼吸とともに胸を押さえて踞る蒼珠の輪郭を光が包み込む。それは夕陽の色にも似た、朱に輝く金色の光。獣の咆哮がごとき呻き声が、悲鳴のように透夜たちの耳をつんざいた。光の影が揺らめき、ひと回り彼の体を大きく変えて砕け散る。その光の欠片が彼に混じる、紅の髪の上で輝き渦巻いた。溢れて流れた朱色の煌めきが、髪色すべてを真っ赤に染め変え、膝まで届くほどに長くたなびかせる。耳元で弾けた光の内から現れたのは、紅の毛並みに淡く金を散らした獣の耳。黄金の残照を残した爪先は鋭く伸びて湾曲し、頬に青く紋様が浮かび上がって刻まれる。伸びた前髪から除くその瞳は、あの優しげな色をなくし、細く縦に開いた金色の瞳孔が、荒んだ光を宿して鈍く揺らめいていた。
「なんだよ……これ……。まさか、魔獣……?」
魔法使いの青年が驚愕にたじろぎ、目を瞠る。人ならざる髪の色。獣がごとき瞳や耳。その姿は彼が伝え聞き知る、魔を宿す異種族の姿にあまりにも似通っていた。
ゆらりと蒼珠が立ち上がる。高い背を少し屈めた気だるげな立ち姿も、いつもの彼とは正反対だ。ピユラや透夜からゆったりと視線を青年へと移すと、彼は不穏を楽しげにのせて口角を上げた。
身を低くして走り、地を蹴る。真っ直ぐな長い髪が、青年の操る炎より鮮やかな赤でその視界に翻った。
とっさに青年が紡いだ呪文が炎の壁を築き上げるも、それを怖じもせずに突き抜けて、笑んだ獣の爪が彼の胸元目掛けて振り下ろされる。焦りながらも的確に、口早に走った言霊が壁の炎を一筋に纏め上げ、蒼珠を狙って紅蓮の尾を引き、放たれる。その一撃に彼の身体は再び弾き飛ばされたが、一歩及ばず、蒼珠の爪先はその前に青年の胸を掠め、同時に鮮血が宙を舞った。
叫び声をあげ、青年が胸を押さえてうずくまる。一方、蒼珠は空中でくるりと器用に身体を回転させたかと思うと、飛ばされた体勢から綺麗に地へと降りたった。その勢いのまま、また愉快げに青年の方へと身を躍らせる。
その様に、止めねば、と唇を噛み締め、透夜の腕からピユラが立ち上がった。
「あの男、よく持ちこたえておるが、あのままでは蒼珠に殺される!」
必死に呪文を口に上らせる青年とは対照的に、うねる炎の熱と戯れ舞うように、蒼珠は彼をなぶってじわじわと追いつめているようだった。金の瞳が歪んで笑い、真紅の髪が苛烈に踊る。
「蒼珠はその身に魔獣の血を宿しておる。じゃが、自身でその血と力の制御が出来ぬのじゃ。ひとたび魔力を身に受け魔獣に変じてしまえば、理性を失う……!」
ピユラは悔しげに拳を握りしめた。いつもの朗らかな彼からは想像もつかない表情を浮かべる好戦的な凶暴性は、抑止できぬ魔獣の血に身体を乗っ取られているようなものだ。
「蒼珠の意思で相手を殺めるというなら、その覚悟、その責、私は伴に背負おう。止めはせぬ。だが、いまはだめだ! あれは獣の所業ですらないただの殺戮。弱者をなぶるだけの誇りなき力じゃ。それをさせてしまえば、蒼珠はまた己を呪う。それはさせられぬ! じゃから、蒼珠のために、止めねばならぬ!」
毅然とした口調ながら、そこでしかし、ふらりとピユラの身体は揺らいだ。祥雲を呼び出した疲労に重ね、先の投げ出された負荷が響いたのだろう。
「無理に動くな。どう見てもお前の方が限界だ」
ぐらついた身体は、そのままそばにいた透夜に再び支えられた。じゃが、とその腕を振り払いかけて、ピユラは彼を仰いだ瞳を瞬かせる。彼女の深い紫に映り込む横顔からは、もう蒼珠の変容に浮かべていた驚愕は消え、落ち着いた鋭い視線が事の動静を見つめていた。
「魔獣云々はよくは分からないし、どう止める気かも知らないが、助けになれるなら力は貸す」
それは彼女の無茶を制するのではなく、助力の言葉。ピユラは堪らず、その支える腕を握りしめた。彼女へと差し出される手は、もう、ひとりだけではないのだ。
「……そなたの腕を見込んで、無謀を承知で頼みたい」
ピユラは強い眼差しで真っ直ぐに、透夜を見つめ上げた。
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