第一章 遭遇-18

 ぼんやりと瞼を持ち上げれば、近くからはピユラの寝息が規則正しく聞こえ、薄闇に蒼珠の寝姿が見えた。まだ夜は明けていないようだが、いくらか時が過ぎ、見張りが交代となったようだ。

 このまま眠気に誘われてまた目を閉じれば、次に目覚めた時には朝が来ているだろう。だがユリアは、ピユラと蒼珠を起こさぬようそっと立ち上がると、そのまま洞窟の外へと向かった。


 入口から一歩出れば、冷えた風が刺すように頬をなでる。細い月はとうに地平の向こうへと落ち、星ばかりが凍てついた夜空に煌いていた。

その天蓋の元、黒い森に明るい橙色を投げかける炎を見つめ、洞窟のそば近くに、透夜が背を向け座り込んでいた。


「どうした?」

 振り返る前にそう静かに背中が問う。ユリアは、彼の隣に歩み寄った。

「ちょっといい?」

「――……少しだけな」

 ユリアを見上げ、なにかを悟って諦めたらしく、彼は少しずれて座り直し、火の前にユリアの場所を空けた。そこに腰を下ろした彼女へ自身の纏っていた外套を羽織らせる。


「私、織物持ってきてるよ」

「中より冷えるだろ。俺はしばらくいて慣れてるから、それも羽織っとけ」

「じゃ、せめて一緒にしよ」

「は? 一緒に、って」

 透夜が言い切る前に、ユリアは持って出た織物も透夜の外套もまとめてふわりと広げると、有無を言わせず彼の隣にぴたりと寄り添い座り、並んだ自分たちの背をそれで包みこんだ。

「……ちょっと狭いね」

「当たり前だ!」

 頬の触れ合いそうな距離で見上げてくる彼女に、顔を朱色に染めて透夜が叫ぶ。しぃ、とユリアは人差し指を自身の口元にあてがった。

「ピユラちゃんたち起こしちゃう」

「悪い……。いや、そうじゃなくてだな」

「くっついてた方が暖かいし、だめ?」

「だめ、じゃ、ない、が……」

 ユリアを直視せずに視線を泳がし、歯切れの悪い透夜に、彼女はえへへと微笑んだ。


 そのふわりと柔和な弧を描く薄い青の瞳をしばし面映ゆそうに見つめ、ぼそぼそと透夜は呟く。

「常々いおうと思っていたんが、お前、たいてい距離が近いだろ。――誰にでもこの距離なのは、いささか問題があると思うんだが……」

「ううん、こういうの、透夜だけ」

 なんのてらいもなく素直に首を振るユリアに、言葉にならない声を漏らして透夜は頭を抱えた。聞かなければよかった。どう考えてもいま、意味もなく己の心臓がうるさい。大丈夫、と尋ねられたが、どちらかというと大丈夫ではない。しかし、平気だ……と力なく返して、彼はなんとか顔を上げた。


「で? なんの用だ? それが終わったなら、ちゃんと寝ろ」

 つとめて平静に、彼女がわざわざ起き出してきた理由に話を戻す。次の交代までこのままでいられたら、蒼珠がどんな顔をするか――この短い付き合いでも想像ができた。

「うんっと……用があるというか、なんというか――」

 珍しくもごもごと言い淀んで、ユリアは眼差しを伏せた。なにか明確に用向きがあったわけではなかったのだ。ただ、なんとなく、けれど、どうしようもなく、足がここへと向いていた。

(えっと……そうだな、たぶん――)

 ちらりと透夜を見上げる。訝しげに眉を寄せる、切れ長の淡く紫を帯びた黒い双眸。間近で見ると改めて、吸い込まれそうだとユリアは思った。

「……――ちょっと、そばにいたくて」

 気づけば、そう零れ落ちていた。透夜の目が見開かれ、さすがに少し気恥ずかしくなって、ユリアはへにゃりと誤魔化すように微笑んだ。

「あのね、その――一緒にいてくれて、ありがとう」

 どうかこの先もそこにいてください――それは言葉にこそ出来なかったが、祈りを込めてユリアは伝えた。決して彼を縛ることがないように、けれどどうか、届くように――。


 そのとろけるような彼女の空気にしばし固まって、急速に頬に上る熱を振り払うように、透夜はユリアから顔を逸らした。

「別に! 礼をいわれることじゃない! 俺がそうしたいからしてるだけだ」

「でも、透夜、その身分も捨てて、あの日からずっと隣にいてくれるから。いつかちゃんといわなきゃなって、思ってたの」

 朱色に色づいた耳に届いた柔らかな声は、普段より沈んで響いたようで、透夜はそば近くの横顔に視線を引き戻した。笑んではいるがどこか漂う陰りに、ああそうか、と気が付く。巻き込んだと、彼女が胸を痛めているのだとするならば、それは違うのだ。


「感謝は受け取るが……本当に、お前に恩を着せるためにしたわけじゃない。――いいきっかけだったんだ。もともとあの王に仕えているのは、本意じゃなかったしな」

「嫌だったの? どうして?」

 静かにかかった声に水色の瞳を瞬かせて、ユリアが首を傾ぐ。

「……ちょっと、あまりいい気分になるような話じゃないが、いいか?」

 逡巡して、ぽつりと透夜は尋ねた。弱まらないよう、ふたりを照らす焚き火へ、手近に集めていた枝をいくつか軽く放り投げる。

「うん」


「――俺は、内務卿の実子ではない。養子だな。それで、ほとんど覚えてもいないし、しっかりと誰かに確認したわけでもないんだが、たぶん実の家族は、殺されていて、もういない」

 炎に染められてなお冷たい空気に、かすか透夜の吐息が白くけぶった。言葉を失くして見つめ上げた彼の輪郭の向こう、瞬く星が霞んで映った気がして、ユリアは彼と共に包まった織物の端を握りしめた。

「そうしたのが、おそらくスティルの王だという、まあ、それだけなんだがな。正直、記憶はほとんどないから、薄情なのかもしれないが、復讐というほど怒りを燃やすことはできないんだ。だが、あの王に仕えるのは、ちょっと癪に触ってた」


 まだ年端もいかない子どもだった頃の記憶は、怖ろしいことに、その時どれ程深く傷跡を刻んだのだとしても、時と共に薄らいでぼやけていった。ただ、あの血の海は覚えている。場所すらも定かではない、どこか、薄暗い部屋。真っ赤に染まるあの光景は、父母の犠牲だけで染めきれる色ではない。おそらく血族すべて、その場で無残な姿をさらしたということだろう。どのような親類縁者がいたのかも、もはや彼には分からないが――。


(俺は――なんで生き残れたんだろうな……)

 ユリアには告げなかったが、彼の胸元には幼いころの傷が残っている。呼吸も出来ないほどの痛みを得たことは、記憶以上に、その傷跡が忘れさせてくれない。だが誰によってその傷が癒され、なぜスティルの内務卿の元で養子となることになったのかは、判然としないのだ。


 遠のいた記憶を手繰り寄せると、いつも鮮やかなのは、赤い海と、胸の傷にうずくまる自身と――闇に浮かぶ四つ葉に似た花の紋だった。その紋がなにに刻まれていたのかはおぼろげなのに、形だけは鮮明に焼き付いていた。その印がスティルの王を示すものだと知ったのは、養父母の元で育つ中でだ。


(どうせなら、こんな中途半端に覚えていなれば良かったのかもな……)

 愛しいという記憶がないことが、たまに胸を刺す。それは彼には苦い痛みだったが、せめてもの餞に、それぐらいは抱いていたいとも思う。きっとその痛みを痛みと知れたのに、わずかなりとも養父母と義兄の影響があったのは確かだろう。


「あの王が気に入らなかったところに、お前の件だ。愛想をつかして出ていくには充分だろ。……世話になった者たちや、なにより家には悪かったが……まあ、どうせあの父親と兄なら、うまく立ち回れる。だから、本当にいい機会だったんだよ」

 星が冷たく瞬いて、焚き火が夜風に揺れる。ユリアを見て、透夜は困ったように眉を顰めた。

「お前が泣きそうな顔するな」

「透夜……これ、話させて良かった?」

 応える代わりに戸惑い問う静かな声に、逆に透夜は尋ね返す。

「むしろ、聞いて嫌じゃなかったか?」

「ううん」

「なら、いい」

 彼女が首を振れば、彼は少し安堵したように零した。


「本当に――助けたのも、いまこうしているのも、大それた理由じゃない。悪いな……。だが、投げ出す気はない。だから、そこは信じてほしい」

「信じるもなにも……そんなのとうに、頼りにしきっちゃってたのに?」

 空気を塗り替えるように、くすくすと傍らで小さな音色が笑う。それに、ふと頬が緩んだ。彼女の明るい声は心地いい。

「なぁ、ユリア」

 穏やかに、彼は彼女の名を紡いだ。伸ばした手が届かずに、彼女を連れ攫われた夜から、彼にも彼女へきちんと言葉にしたいことがあった。

「……あの日はちゃんと守れなかったが、次は必ず、守るから」

「――うん」


 息が通いそうなほど近い距離に気づきもせぬまま、紫黒の眼差しは、真摯に優しくユリアをのぞき込んで囁いた。ほうっと一瞬、それに飲まれて呆けた水面の瞳が、頷いて笑みに弧を描く。

 その微笑みに、ああそうだ、と、初めて出会った日の思い出が、透夜を過った。その澄んだ淡い青の瞳が細まるのが、とてつもなく綺麗に見えたのだ。それだけで――それだけで、十分だったのだ。

(もっと見たいという、それだけで――.……)

 なんでもやろうという気になれた。守りたいなんて、そんな単純な願いの理由なんて、そんな分かりやすいものでいいのだろう。

 それでも、日に日に深まるのは、間違いないのだから。

 星が遠く煌いて、寒空にユリアが小さくくしゃみをした。苦笑して、戻れよ、と促すその優しい声音は、彼自身すら無自覚で、きっと聞いてはにかむ彼女にしか気づけなかっただろう。

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