第一章 遭遇ー12

「そんなに暴れていると落っことしちゃうよ?」

 どれぐらい走った頃だろうか。肩の上で暴れ続け、必死に抵抗するユリアに楽しそうな声がかかった。とたんに、唐突に彼女を抱え、押さえ込んでいた腕が離される。

 振り回していた手足の勢いそのままに、支えを失ったユリアの身体は地面に転がり落ちた。


「ほらね?」

 いたた、と腰をさするユリアに悪びれもせず、綺麗な微笑みが肩をすくめた。見上げたユリアの視線の先、冷たい月明かりが戯れるように長い金糸の上でさざめいている。


 彼らの背の向こう、少し離れた所に夜に沈む森の影が見えるが、ユリアの周囲はまばらに低木があるばかりだ。街道からも村からも離れた、開かれた草原。逃げるにも隠れるにも不向きな場所だった。


「どうしようというの……?」

 なぜ離したのかは分からないが、ユリアを見下ろす彼らに逃がす気はなさそうだった。立ち上がれば、また捕らえられてしまうかもしれない。睨みつけながら、ゆっくりと膝でいざり、距離を取る。


 それは彼らにとっては子猫が爪を立てるのにも及ばない、ささやかな抵抗なのだろう。さして彼女の動きを気に止めた風もなく、色ばかりは笑みをのせて、薄く整った唇が首を傾ぐ。ふわりと金糸が舞い動き、のぞいた左耳元で、白銀の耳環が冷えた輝きをみせた。

「いやね? 俺たち、わざわざ雲龍帝国から君を探してここまで来たんだけどさ。君のその力にいたく興味を持ってる方がいて。で、連れ帰ったら、すぐにもその力をご覧になりたいと仰せでね」


 雲龍帝国の名に、ユリアは目を瞠った。それはピユラの故国を滅ぼした相手。透夜も蒼珠も危険視する北方の大国だ。

 危ない国だと思っていろ、と透夜はいっていた。そうだとするならば、なんとしても逃げなければならない。

(でも……どうやって――?)


 不安に圧されて戸惑うユリアに、ふいに温度の消えた声が降った。

「まあ、そんなわけで――君には連れ帰る前に、少~し頑張ってもらうよ」

 しゃがみ込むユリアのすぐ脇の地面から、鋭い氷の柱が一瞬でそそりたった。その研ぎ澄まされたきっさきが、広がる彼女の服の裾を貫いて、頬すれすれをかすめていく。


「え……?」

 なにが起こったか分からず、呆然と突如生まれた氷柱を見つめる彼女へ、ふわりと冷淡に、薄緑の瞳が柔らかな弧を描いた。

「こういう経験初めて? じゃあ、いい刺激になるね。怪我で済むうちに、君が幻獣を操る力とやらに目覚めるといいけど」

 軽く莠が腕を薙ぐ。それだけで、宙にいくつもの氷の礫が形を成し、月明りに煌めいた。

「加減はするよ」

 優しい音色に背筋が凍り、ユリアは弾かれたように立ち上がり、駆けだした。逃げるその背に、無慈悲に氷の礫が降り注ぎ、腕や足をかすめて地面を穿つ。


「いい月夜の晩だけど、少しばかり彼女には暗いみたいだ。ねぇ? 玄也」

「なるほど。ならば、こうするか」

 低い声が応じた瞬間、空気が震えたのをユリアは感じた。ユリアの行く手を阻み、紅蓮の炎が壁となって燃え上がる。月明かりを飲み込んで、真紅の熱が夜空をなめた。


 火の手は彼女と彼らをぐるりと囲んで燃え盛る。逃げ道を奪われ、狼狽するユリアに容赦なくまた、甘い声が低くいう。

「防げないなら上手に避けてね」


 炎の熱を纏って臙脂に照り映えながら、溶けることない氷塊がユリア目掛けて空を滑った。それがユリアに躱しきれるはずもなく、逃げ惑った彼女はそのまま足をもつれさせ、地面に倒れこんだ。まだ氷塊は頬や手足をかすめただけだが、その傷ですら鋭い痛みを伴い、赤く血が滲んで流れていく。


「う~ん……このままだと、君の〈意思持つ魔力〉とやらは、見れないままに終わるかな?」

「……意思持つ魔力?」

 大仰にため息を混ぜ呟く莠を、荒い息の元、伏したままユリアは見つめ上げた。初めて耳にする言葉だ。


「幻獣ではないの?」

「ああ、まあ、同じことだよ。俺も聞いただけだけどね。幻獣っていうのは、要は君の持つ魔力が具現化して、なんらかの形を得たものを指す呼び名らしい。で、君の魔力はただの魔力じゃないんだってさ。この世でただひとつの〈意志もつ魔力〉。そういう話だったよ。ね、玄也」

「そうだな。人から人へと渡り歩くように受け継がれ、己の意思で様々に形を変えて、術者たる持ち主に応えてそれを守る。それが幻獣使いの持つ魔力、ということだ」

「まあ、いまの君は、守ってもらえてないみたいだけど。これならとっとと〈継承〉しちゃって、次の持ち主に使ってもらった方が早く幻獣を拝めるかもね。相手はあのスティルの脱走兵くんあたりかな」

「なんで、透夜が……」

 つまらなさそうにこぼす莠から突然出された透夜の名に、ユリアは顔を顰めた。透夜は確かにユリアを助けてくれた。しかし、彼らが求める幻獣の力とは無関係なはずだ。


「あれ? 知らなかった?」

 身を起こし睨むユリアに、少しばかり彼女に興を戻されたのか、莠の声音がわずか踊る。

「(意思持つ魔力)を持った者が死んだ時、その力はその者の一番大切な相手に受け継がれるそうだよ? 〈継承〉っていって。この魔力の伝わり方は、血の繋がりとはまったく関係ないらしくってね。ま、意図的に継承者を選べる儀式があるとかないとかって戯言も耳にしたことはあるけど、真偽は知らないし、興味もないな」

 それより――と、鮮やかに莠の口角が引き上がった。翡翠の瞳が月光を溶かして蠱惑的に細められる。

「どうする? 〈継承〉、してみちゃう?」

 彼の周りの空気が凛と痺れた。氷の花が咲き乱れるように、無数の薄い凍てつく刃が虚空を埋め尽くす。


(あっ……)

  動けない。動いても無意味だと頭より先に身体が理解してしまった。ユリアの水色の瞳が、大きく震える。

(待って。まだ、いやだよ……)

 逃げなければいけない。なのに、逃げられない。恐怖なのか、諦観なのか、すべてがすくんで動かない。


 火明かりに照らされて、氷の花が星のように瞬き、夜空を走った。降り注ぐ冷えた刃が、止まっているかのように緩やかに、眩くユリアの視界に映り込む。意識を飲むその光景に、涙が一筋、頬を伝った。凍り付いたかのような最後の一瞬、脳裏を影がよぎる。来いと彼女の手を引く、紫がかった黒髪の――

(透夜……!)

 襲いくる痛みを思って目を閉じた。その暗いはずの視界の中に、銀色の光が揺らめく。


『私、ここに、いる――』


 遠く夢の声がした気がした。瞬間、ユリアを包んで白銀に輝く光の奔流が渦巻いて立ち昇り、炎の壁を打ち壊し、氷の花が一掃されて砕け散る。

 風が逆巻き、吹き荒れた。溢れる光が夜空を貫く。


「――玄也! 俺の後ろへ!」

 顔色を変えて莠が叫び、渦巻く光に包まれたユリアと玄也の間に割っていった。幾筋もの光の帯が空へと伸びて束となり、彼ら目掛けて輝く波となってなだれ込む。

「君は自分の身を守ることだけ考えろ!」

 先ほどまでの余裕のかけらもなく、切羽詰まった彼の声は響き渡る轟音に飲み込まれた。突風が周囲を揺らし、目を射る銀色の閃光がすべてを覆いつくした。


 ――静寂が戻る。訳も分からないままユリア目は開け、息を飲んだ。

 周囲は、見る影もなく変わり果てていた。風に薙いでいた草ひとつ残さず、帯のごとく地面は遠くまで深く抉り尽くされ、無残な傷跡を晒している。ただ、その中に辛うじてそびえたつ氷の壁の向こう、莠が笑ったのが感じられた。

「目覚めの一撃にしても、ちょっと強烈すぎんじゃない?」


 分厚い氷が、ひび割れ砕ける。防ぎきれなかった衝撃の余波だろうか。それとも壁が砕けたためだろうか。彼の額からは血が流れ、掲げられた手の指先からも、白い服を染めて赤い雫が滴り落ちていた。肩でひとつ大きく息をついて、膝を折る。しかし、口の端を伝う血を拭って、彼はそれでもなお笑みを引いた。


「これは多少想定外だよ。まあ、いまはだいぶ落ち着いてくれたみたいだけど」

 言われて、ユリアは彼の視線の先を追いかけた。銀色の光の塊が、ふわりと彼女の頭上に浮いている。それは静かにユリアの側に舞い降りると、一瞬眩い光を放って白銀の毛並みの狼に姿を変えた。その背に乗れるほど大きな美しい獣は、ユリアの前へと脚を進め、莠たちに向けて低く唸る。光の渦が狼の唸り声に応えるように、その周りにとぐろを巻きだした。


「嫌われたねぇ」

 悠長にぼやく莠を、渦が光の矢となって襲う。だが、それを紅蓮の炎が飲み込んだ。ぶつかり合った光と炎がもろともに掻き消える。黒い軍服が翻り、先とは逆に彼を庇って、玄也が獣と莠の間に立っていた。彼には莠と違い、かすり傷ひとつない。あの光の奔流と伴う威力は、莠が己のところですべて防ぎ切ったようだ。


「莠」

「ああ、分かってる。彼女に助けも来そうだし、こちらとしても目的の半分は達した。ここは――一時撤退だ」

 地面を割って無数の氷の柱がふたりを隠すように突きあがる。それが砕けてきらきらと月明かりに散った時には、もう、その姿はなかった。


 呆然と座りこんだまま、残された穿たれた地面を見つめるユリアに、銀の狼が優しく身を寄せる。

「あ、大丈夫……」

 とっさに狼の首筋をなでてやると、狼は心地良さそうに目を細めた。けれど――いま眼前に広がる無惨な痕を草原に刻んだのは、紛れもなくこの力なのだ。

「幻獣……」

莠たちがこぼした話だけでは、まだあまりに分からないことが多すぎる。ひとまずいま、この目の前で頭を擦り寄せる獣がユリアを守ろうとしてくれたことだけは分かるが、残した凄惨な爪痕が、ユリアに薄ら寒い恐怖を抱かせた。

 体が震えるのは、吹き寄せる夜風のせいだけではない。


「ユリア!」

 どれほどそこにそうして座っていたのだろう。やがて馬の蹄の音がして、透夜が夜の帳の向こうから姿を現した。彼女の姿を認めると同時に飛び込んできた銀の狼と背後の光景に、眦を裂く。

「おい、なんだ……これ」

 驚愕に声を上擦らせる彼を狼が姿勢を低くし、威嚇した。青褪めてユリアは慌てて立ち上がり、獣を制して透夜の前に手を広げて立ち塞がる。

「駄目……! 大丈夫。この人は、大丈夫だから!」 


 赤く血に濡れた莠の姿が蘇る。彼は魔法を操っていた。だから恐らく、まだ動ける程度の怪我で済んだのだ。だが、透夜は魔法は使えない。あのような力を受けては、無事ではいられまい。


 狼の金色の瞳がきょとんと瞬いた。その純朴な色に、思いが伝わったらしいとユリアは胸をなでおろす。狼は太い尾をゆるりと振り、甘えたように喉を鳴らしてユリアの服の裾をそっと咥えて引くと、そのままふわりとかき消えた。


「ユリア、無事か? なんだ、いまのは?」

 馬を降り、透夜が訝しみながらも駆け寄る。久しぶりにその声を聞き、姿を見たような心地がする。ユリアはそこでようやく、心から安堵した。

「良かった……」

 答えるではなく呟いて、ユリアは泣きそうに顔を歪めて微笑んだ。急速に体から力が抜けていく。透夜が名を呼ぶ声を耳に残して、ユリアは意識を失った。

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