序章-3

 灰色の陰鬱な空。真昼なれど太陽の陽射しは霞み、翳る。帝国の短い夏は早々に終わりを迎え、秋の訪いを告げる凍えた雨が、しとしとと降り注いでいた。薄暗い廊下の窓をしきりに叩いては滑り落ちる雨は、貧しい北の土地では恵みにはならない。


 それを視界の端で一瞥し、青年がひとり、静寂に包まれた宮殿の石の廊を歩んでいた。すらりとした長身と、それに見合った無駄なく引き締まった身体の線に、裾の長い黒い軍服が映えている。刃のように研ぎ澄まされた目元は冷たく近寄りがたい印象で、深い夜を落としこんだ瞳の濃さがそれに輪をかけていた。瞳と同じ夜色の短い髪からのぞく左耳元にひとつだけ、白銀の簡素な耳飾りが揺れている。それの他は、腰に剣をさげる鎖以外に装身具はなく、装飾をほぼ削ぎ落した落ち着いた身なりが、静謐な雰囲気をたたえた青年によく似合っていた。


 長い廊下を渡り、辿り着いた先で、青年は目の前に現われた重厚な扉を、声もかけず、叩きもせずに、当たり前のように押し開けた。


 部屋の中の空気も、外と変わらずどこか底冷えしていた。秋口とはいえこうも寒い日は、暖炉に火のひとつもくべていいだろうに、部屋の主は無頓着でいるようだ。

 整っているというよりは極端に物の少ない部屋の中、青年が主の姿を探せば、奥の窓辺の長椅子で、掛けるものもなく惰眠をむさぼっていた。長椅子前の低い机の上ばかりは、やや雑然と散らかっていて、閉じられた銀の小箱の横には食べかけの菓子。冷えた茶が心もとなさそうにカップの中に取り残され、グラスにも中途半端に飲み切っていない水が注がれている。すべてそのまま、である。片付ける気はないらしい。


 部屋の主たる寝ている男に歩み寄り、黒衣の青年は溜息交じりに見下ろした。白く透明な肌に際立つ澄んだ輪郭は、この火のない部屋で見るには寒々しい。だが、当人は実に心地よさげだ。椅子の端に積み上げた本を枕に、暢気な寝息をたてている。


 年の頃は青年と同じほど。彼と同じ作りの、けれど色だけは真っ白な軍衣を纏い、行儀悪くも靴のまま足を投げ出して夢の中だ。酌量できる余地があるとすれば、足があまって直接椅子に靴がのってないところだろう。彼は青年と比べればやや細身ではあったが、しょせんはしっかりとした体つきの大の男。さすがに長椅子とはいえ、だらしなく手足を伸ばせば、収まりきらなかったらしい。立ち上がれば容易く腰を越えるだろう長い金糸の髪も、なんの配慮もなくそのまま椅子から流れ落ち、床にとぐろを巻いている。


 大事に伸ばしているはずのくせに、塵ひとつ気をつかわないのはいかなることなのかと頭を抱えつつ、黒衣の青年は、眠る彼が枕にしている本を一冊、無遠慮に引き抜いた。

「いてっ」

 急に抜けた一冊分、がくんと頭が滑り落ち、下の本の角に後頭部をぶつけたらしい。首の付け根からその上にかけてさすりつつ、金髪の青年は己を起こした犯人を見つめあげた。欠伸を噛み殺した弾みで滲んだ涙が、長い睫を彩っている。恨みがましげな切れ長のつり目は、鮮やかな淡い緑。春告げに芽吹く、若葉の色だ。


玄也くろやさぁ……声かけて起こしてよ」

 青年らしい低みのある響きに、甘く高音が絡む。高低の狭間で揺蕩う心地いい声音。寝起きだからか掠れてこぼれるそれは、不満げに黒衣の青年を咎めたてた。

「いや、ていうかさ、その前に入る時にノックしてくれたら、俺も起きましたよ?」

「こんなそばまで来てまだ寝こけてた奴が、ノックのひとつやふたつで起きるとは思えないがな」

「いやまあ、そうかもしんないけど、ここ俺の部屋だしね? ちょっとあまりにも普通にはいってき過ぎじゃない?」

はぐさ、お前、いまさら、という言葉を知っているか?」

「悪びれないね、君」


 しれっと言いきる、夜の囁きのように深く低い涼やかな声。それに莠は半ば呆れ気味に肩を落とした。また欠伸混じりに身体を伸ばして、首をならす。弾みで、莠の左耳元で、やはりひとつだけ飾られた白銀の簡素な耳環が儚く揺れた。


「ま、いいんだけどさ、別に。でもさぁ、一応、礼儀ありっていうじゃん?」

「お前に礼儀を説かれるか……」

「そこで不服げにされるの、なんでだよ」


 深いため息に、莠は軽く睨む素振りで玄也を見上げた。それにさして堪えた風もなく彼は枕代わりの本を一冊手に、莠の隣に腰を下ろす。

 枕の位置を奪われた莠は、しかし、座り直す気はなかったらしい。足は長椅子の上に投げ出したまま、枕の代わりに、背後の玄也へと身体をもたせかけた。ふわりと舞った金色が一房、黒い服へと鮮やかに流れかかる。


「で、用件は?」

「大方、察してるだろ。例の件、総軍事卿より、動くな、と」

「わぁお、やっぱり。めんどくさ……」

 本を開きながらの玄也の言葉に、気怠げに莠は肩を竦めた。手持ち無沙汰に長い髪を指先で遊びながら、関心もなくぼやく。


「どうせ上手くいかないだろうに」

「好きにさせておけばいいと言ったのはお前だろう」

「まあね。でも……あいつの勝手な感じ、気にはいらないんだよねぇ」

 淡い緑の瞳は楽しげもなく笑みだけ象った。頁の上に落とされていた玄也の怜悧な黒の双眸を、振り仰いでのぞき込む。

「ってことで、暇つぶしだ。玄也、賭けない?」

「なにをだ?」

「そりゃ、あいつがいつ弱音を上げるか」


 ふたりの力を必要ないとはね除けた上官は、しばらくすれば必ず縋ってくるだろう。今回の件はこと、魔法がらみだ。容易にそれは想像出来る。

「ひと月」

「じゃ、俺はそれにもう半月足しておこうかな」

「意外と評するな」

「んなわけないでしょ。違うよ。高慢で往生際が悪いから、引き際を理解しないんだろうなぁってだけ」


 軽く嘲笑で言い捨て、緩慢に猫のように伸びをした手が、振り向きもせず机へ向かう。だが狙いのものが指先に触れなかったらしい。面倒そうに落ちた吐息とともに、ちらりと翡翠の眼差しが横目に机を睨んだ。そこへ、本から顔も上げない片手が、飲みかけのカップを取って手渡す。


「冷えてるぞ」

「いいよ。飲み食いさえできりゃ、別に飲食物にさした拘りないし」

 そのまま受け取り、のんびりと寝ていて乾いた喉を潤しつつ、莠はもたれたまま背後に問いかけた。

「で、勝った方はどうする?」

「いつも通りでいいだろ」

「ま、新鮮味はないけどそれでいいか。じゃ、考えておくよ」

 空になったカップを机へといささか雑に放り起き、ようやく莠は身を起こした。金糸がくすぐるように弧を描いて玄也へと向き直り、薄い唇が楽しそうに引き上がる。

「今度も君に、どんな言うこと聞かせるか」

「今度は、出来るといいがな」

 ちらりと本から上がった視線は、不敵な笑みをとらえ、挑発を溶かしてかすか笑った。

 窓の外では、灰色の雨がいまもなお、止む気配なく降り続いている。


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