序章-2

 水の落ちる音に、ユリアは目を開いた。暗く狭い石造りの部屋。目の前には鉄の格子――。その向こうにはやはり石で作られた通路があり、壁ぞいに小さな松明が等間隔に灯っている。弱々しい明かりの中、格子の向こうに人影がちらりと見えた。


 見覚えのない風景――さっと襲った衝動的な恐怖に立ち上がれば、床についた手が、鎖の鳴る音に引かれて止まった。落とした視界に、手首を縛める黒い鉄の枷が飛び込んでくる。続く鎖は、冷たい石の壁へと繋がっていた。

(え……?)

 再度、ユリアはあたりを見渡した。重苦しい湿った空気。風のない陰鬱な石の空間。行く手を遮る格子と、手の鎖――。

(……もしかしなくても、ここ、牢屋……?)


 目にしたことはない。だがどう見ても牢獄だと考えて間違いなさそうだった。澱んだ空気の臭いが満ちている。

(――寒い……)


 ユリアは身体を抱いて座り込んだ。まだ秋の入り口のはずだが、地下の空間は凍えるようだ。牢にあるがゆえに呆然としかけた意識を、その寒さに引き留められるとは、不本意な話ではある。だが同時に、夢ではないのだとも、骨身に染み渡っていく。床にそのまま横になっていたからか、身体の芯まで冷えきっていた。ユリアは申し訳のようにかけられていた薄汚れた布を引き寄せると、それにくるまった。


 窓もなければ、光が漏れる隙間もない。地下なのだろう。空が見えないので時間を知る術はなかったが、牢で目覚める前の記憶は昼間で終わっている。己の体調や体力を鑑みるに、それからさして時間はたっていない気がした。おそらくは、ここに繋がれてまだ半日が経ったか経たないか――長くて次の日に差しかかったぐらいだろう。


(どうしよう……)

 ユリアは柳眉を寄せた。状況の割には急速に落ち着きが取り戻せている。牢に閉じ込められるような苦難に見舞われたことは今までなかったが、治安の芳しくはない貧民街で育った彼女は、日々の中で、危機に瀕した時こそ冷静さを保つことが肝要だと、身をもって味わっていた。


(それにしても、なんで?)

 牢に繋がれるいわれが、ユリアには思い当たれない。ただ分かるのは、ここに押し込められた経緯だけだ。


 突然ユリアの日常に現れた、ひとりのスティル王国宮廷護衛兵。ユリアと同じ年の頃だろう。少年の時を過ぎかけた、だが青年というにはまだ幼さの残る齢に見えた。貧民街では見慣れない上質な軍服は、彼が貴族出自の護衛兵であることを示しており、この国では珍しい少し浅黒い肌と、右目元の泣きぼくろが印象的だった。中性的な整った顔立ちがひどく人目を引いて、ユリアたち少女の間はおろか、男たちの間でも噂になっていたほどだ。


 彼の他にも護衛兵が、近ごろはよく貧民街に姿を見せるようになったとは思っていた。けれど初めて彼を見かけた時も、その後いく度か姿を目にした時も、彼がなにをしていたのかは知らなかった。ただ――

(あの時は、助けてくれたんだよね……)


 ユリアは薬草を育て、煎じ、ささやかな薬にして生計を立てていた。だが、元の資金がない彼女に調達できる範囲で作れる薬には、気休め程度の効用しかないものがほとんどだった。だからそれについて因縁をつけ、何か別のことをせびろうとする悪い客――客を装った男というのが、そこそこ現れる。ちょうどその日も、そうしたしつこい男に絡まれていた。貧民街では見慣れた光景、よくある揉め事のひとつで気に留める者はいない。そうした事態になった時は、自力で逃げ切るしかないのが常だった。


 それが、その日は違ったのだ。そこに怒鳴り込むように割っていってくれ、助けてくれる人物がいた。それが、彼だったのだ。紫がかった黒髪と瞳の厳しげでいながら、凛と高潔な空気の少年――。

 それからだ。彼がいい薬はいくらでも手に入るはずなのに、彼女の元まで足を運び、たいしたこともない薬草を買って、二、三会話を交わして帰っていくようになったのは。そんな彼を、不可解だと思いつつも受け入れていたのは。


(本当に、ただ買いに来てるだけだとは思ってなかったけど……)

 一日、二日と積もっていった日々は、そろそろ欠けた月が満ちるほどになっていた。その間に、最初の時と同じように柄の悪い買い物客を追い払ってくれたこともあったし、いらないからとたまに手土産を渡されたこともあった。

(うん。お菓子とか、特に嬉しかったなぁ)

 なにをどうしてか、彼が持ってくるのは、そのやや険のある雰囲気に似合わぬ、女性の好みそうな菓子や花が多かったのだ。


 交わす会話は最初の頃と変わらず少ないままだったが、それでもユリアは、彼と会うのが楽しみになっていた。

 そんな矢先のことだ。彼が訪れ、いつも通りのわずかな会話を交わしていた時、常と違い他の兵が彼の背後に現れ、唐突に彼らに手を捕まれた。彼がなにごとか怒鳴っていたような気もしたが、それはしかとは覚えていない。その前にユリアは意識が消えたのだ。頭部がかすか痛むことを思い合わせるに、そこになんらかの打撃を加えられたのだろう。


(参ったなぁ……)

 吐いた息が、冷たい指先をほんのりと温める。

 考えてみれば、約束事のように互いに名乗り合わないままで、名前すら知らない。ユリアがいま地下牢にいるのは、彼のせいなのだろうか。

(でも、そういう風にも見えなかったしなぁ……)

 思い返しても、彼に嫌な思いをさせられたことは一度もなかった。口調は少し強く、委縮させるところがある人物だったが、端々に気遣いを感じた。それに――

(あんまり、合わせてはくれなかったけど……)

 鋭く強い目元だったが、その奥は優しい色をしていた。ユリアはもう一度溜息をついた。とにかく、彼とまた会って話がしたかった。


 その時だ。通路をこちらにやってくる足音がした。外に目をやると、先にちらりと見えた見張りが威儀を正してやってきた者を迎えている。かなり階級が上の者なのだろう。緊張した空気が伝わってきた。


 だが、お疲れ様ですと彼が紡いだ言葉は、最後まで流れることなく呻き声と殴られたらしい鈍い音とに掻き消された。繋がれたユリアの視界では、誰が来たのか分からない。だが、親兄弟のいない彼女を救いに来る者など、いるはずもない。それに、見張りに挨拶を受けるほど悠々と牢に近づいてこられる者を、彼女は彼以外に知らなかった。


 来訪者は気絶した見張りを通路に転がすと、彼から鍵の束を盗み取った。同時に薄明かりに、常に纏っていた護衛兵の衣服とは違う、深い藍色が翻る。

 思い描いていた通りの相手が、少し違う出で立ちで牢の前に姿を現した。肩口にかかるのを無造作に後ろでひとつに結び詰めた紫黒色の髪と、一見怒っているように見える同じ色の鋭利な双眸。それがユリアを映し、わずか苦く歪んだ。重い錠前が開らかれる。


 口をきくことを許されないようで、ユリアは黙って彼を見つめていた。それに、もう一度会えればと思いはしていたが、まだなにをどう聞けばいいのか整理がついていない。

「悪かったな……」

 戸惑うユリアの上に、小さく彼の声が落ちた。だがその音色を聞き返す前に、彼女の手枷の鍵も解くと、彼はユリアの手を引き、低い声で短く命じた。

「来い」


 どこへ、とは尋ねられなかった。強引に引きずられるままに、ユリアは彼について走り出した。石の通路に、駆けるふたりの靴音だけが甲高く響き渡る。余計に追い立てられるようで気持ちは焦るのに、ユリアは彼の速度についていくのがやっとだった。早くも上がってきた息を必死で飲み込みながら、腕を引かれるままにひた走る。


 所々に押し込められた、騒ぐ罪人や虚ろに目をやる囚われ人には目もくれず、彼は広い地下牢を迷いなく縫っていった。おそらく彼にやられたのだろう、倒れた見張りの脇を幾度か過ぎ、蜘蛛の巣くう長い通路をようやく抜けると、螺旋に上る石の階段が待ち受けていた。この牢と地上を繋ぐ唯一の道のようだ。しかしただ地上に出るにしては、階段は随分と高い。地上に繋がるのではなく、この牢がある建物の上階に出るのだろう。牢を抜け出し、この階段を上りきったとしても、まだ逃げ切れたとは言えないわけだ。


 急な勾配を彼は息ひとつ乱さずに駆け上がる。だが、ユリアは彼とは違い訓練を積んだ兵士ではない。ただの貧民街の薬草売りだ。間隔すらまばらな石段に、ついによろめいた足は滑り、彼女は支えを失って危うく転げ落ちかけた。

「おい! 平気か?」

 腕を引き、彼が転びかけた彼女を慌てて抱きかかえる。その様子に、本当にユリアの状態に気付いていなかったと分かり、彼女は息を整え整え苦笑した。

「ごめんなさい。でも、もう少し、ゆっくり、だと、嬉しいな」

「――悪い」

 ユリアの訴えに、彼はばつが悪そうに眉を寄せた。そして次の瞬間、息の上がりきっているユリアをそのまま肩に抱え上げた。驚愕するユリアをものともせずに、同じ速さで階段を駆け上っていく。


「あの! これ、あなた大丈夫?」

 肩越しにユリアは声を張り上げた。それは自身を担ぎ上げている負担へでもあり、明らかに上官に命ぜられて連れに来た様子ではない、この逃走への手助けへの心配でもあった。ユリアをここに捕らえたのは、間違いなく彼と同じこの国に仕える兵だ。つまり、彼女の投獄は国の意思だ。それにも関わらず、護衛兵たる彼が、ユリアを逃がそうとする理由が分からない。

「問題ない! いいから黙っていろ! 舌を噛むぞ!」

 噛みつくように命じる口調に、ユリアは言葉を飲む。聞きたいことが山ほどある。しかし、いまはそれを問う時ではないのだろう。


 暗い石段は彼が走るままにはるか眼下へとどんどんと伸びていき、いつの間にか最上部へと達した。小さな踊り場に身体を下ろされる。その先には、古びた鉄の扉が堅固に行く手を遮っていた。


「あの……ありがとう」

 ここまで人ひとりを担ぎ上げて昇るのは、相当な負担であったはずだ。しかし彼は少し乱れた息を悟られまいとするように、顔をそらして言い捨てた。

「別に、問題ない。それより行くぞ。この先は二階の渡り廊下だ。飛び降りれば城の裏手門に通じる道が近い。そこまで走れば、外に馬を置いてある。ついて来い」

「どうして、逃がしてくれるの?」 

 問いかけるユリアの戸惑いの混じる響きに、彼は顔を曇らせた。わずか言いづらそうに、彼女を見ぬまま口を開く。

「このままだと――お前は殺される」

「え……?」

 淡く青い瞳をユリアは瞠った。そこでようやく、無意識にその心配はしていなかった自分に気がついた。投獄されたが、ユリアにはその理由も罪科も思い当るところはなかった。だからどこかで、厄介だとは思いこそすれ、命の危険までは感じていなかったのだ。けれど、彼の言葉は嘘偽りではなさそうだった。


(なんで……?)

 動揺を隠せないユリアに、だから言いたくなかったんだ、と舌打ち混じりに小さくごちて、彼はその鋭い眼差しでユリアを見定めた。

「〈幻獣〉を従える能力がお前にはあるんだろう? この国の王はその力を欲している。そのためにはある儀式の元、お前を殺す必要があると俺は聞いた」

「私、そんな力、知らない……」

「そうだとしても、なんと言おうが無駄な言い訳だ」

 呆然と首を振るユリアを、彼は無下にも一蹴した。

「事実がどうであれ、お前にはその力があると思われている。なら、どのみちここにいれば王に殺される。それだけの話だ。――だから」

 ユリアの目の前に手が差し出された。見上げる。頭ひとつ分上から、彼女を強く真っ直ぐに、紫黒の瞳が見つめていた。

「死にたくないなら、俺についてこい」

 彼の凛とした顔に浮かぶそれは、強いるようにも願うようにも見える不思議な表情だった。


(〈幻獣〉なんて、聞いたこともないけど……)

 いまや廃れつつある魔法や、それに纏わるものに関わりのあることなのだろうか。それがなぜ、魔法の魔の字も知らないユリアにあることになってしまったのかは分からない。だがここにいれば、ほぼ間違いなく囚われ、殺される末路が待っているだけだということは、理解できた。

それになにより――彼の手をとりたいと、ユリアは思った。乞うように、拐うように――そして、とても真摯に彼女に伸べられていたから。

「――分かった」

 ユリアは頷いた。紫の沈む鋭い黒の双眸が、その光を絶やさぬまま満足げに細まる。

「そう来ないとな。行くぞ」

 腕を引くと同時に、彼は歩みを進めた。慌てて追いすがって、口早にユリアは尋ねる。


「ねぇ、あなた名前は?」

「名前?」

「聞いてないもの。これから御世話になるんだし、それぐらいは知っておきたいから。私はユリア」

「ああ……その、透夜とうや

「なるほど、透夜くん」

「待て! くんはやめろ!」

 苦々しげに叫ぶその顔は、薄暗さに見間違ったのでなければ、確かにかすか赤くなっていた。どうやら呼び方を恥じらったらしい。それが状況に不相応ながらも、ユリアの心の端をくすぐった。あどけない、とはいわないが、それに近い感想を彼女にもたらすものだった。

朱の差した顔を隠すように透夜は前髪をかきやり、あえて無愛想に告げた。

「呼び捨てでいい。というか、呼び捨てろ」

「分かった。透夜、ね」


 くすりとユリアが零すと、舌打ちされた。だが、不服げに眉間に皺を寄せながらも、耳は赤く色づいている。その照れくささを隠しきれないといった様子は、やはり先と同じ想いをユリアに抱かせた。もちろんユリアはそれを口にはしなかったが、態度には出てしまったのだろう。透夜の眉間の皺がさらにきつく寄せられた。

「もういいな? 行くぞ!」

 ぶっきらぼうに叫ぶくせに、ユリアの手を優しくしっかりと握ると、彼は渡り廊下へと繋がる扉を押し開いた。


 瞬間、吹きすさぶ強風がふたりの頬をなぶり、ユリアの長い栗色の髪を掻き乱した。横殴りに降り注ぐ冷たい豪雨が、激しく彼らの身体を打ち付ける。羽織っていろと、小脇に抱えていた厚手のローブを押しつけて、透夜はユリアを引き寄せた。

「掴まれ。飛び降りるぞ!」

「ここから?」

 二階だと聞いていたのでさして高さはないと思っていたが、実際目にしてみれば、石造りの塀の上からのぞき込める地上は遙か下で、暗い闇に飲まれて何があるかも覚束ない。思わずユリアは躊躇した。


「平気だ! 夜目が利かないだけだ。たいした高さはない! 信じろ!」

 近くへ抱き寄せられてなお、透夜の声が風に紛れる。ぐずぐずしていても足手まといになるばかりだろう。意を決し、ユリアは促されるままに彼の首に腕を回した。その細い身体を抱き上げようと透夜が屈み込む。

 だが、その時。


「透夜!」

 若い男の声が、豪雨と暴風の中、毅然と轟いた。

「兄さん……」

 声に縫い止められたかのように――振り切れず、透夜が舌打ちして相手へと向き直る。


(お兄さん…?)

 見れば、透夜よりも背の高い、落ち着きある威厳を纏った青年がそこにいた。赤みの差した茶色の髪は透夜より短く、白い首筋の元で切り整えられ、髪と同じ色の瞳でひたと弟を見据えている。その双眸は身構えてしまう威圧感を放っていたが、奥底に深く穏やかな優しさを湛えていた。


「なんで護衛兵団長殿がここにいる?」

 冷えた眼差しを向け、透夜が問う。その手はすでに腰に下げられた剣の束へと伸びていた。

「お前が夜中に兵舎を出て行ったと聞いたら、兵団長としては様子を見に来ない訳にはいかないだろう。お前の方こそなぜこんな所にいる?」

 低い声は朗々と響く。鋭さのある透夜の声とは違う。その深みのある声も、姿形も、肌の色も、すべてが兄弟にしてはあまりに似ておらず、ユリアは彼の背後で首を傾げた。


「……分かってるんだろう?」

「まぁな。彼女を連れてこの国から逃げるつもりか……」

 静かに、彼は視線をユリアへ投げた。思わず身を強ばらせ、ユリアは後ずさる。恐ろしさはなかったが、それなのに、咎められたような心地に逃げ出したくなった。

「それがどういうことを意味するか、理解しているんだろうな?」

「兄さんにそれほど愚鈍に見られているとは思わなかったな」

 再び彼を捉える兄に、濡れた髪が張り付く頬を不敵に釣り上げ、透夜は笑った。束を握る手に、緩やかに力が籠もる。

「囚人への幇助、許可無き出国、理由無き脱隊――どれも重罪だが、彼女を連れて逃げる場合は……反逆罪だ」

「構わないな。元より、この国の王だけは気に食わなかった」

 豪雨の音にも混じらぬほどはっきりと、透夜はそう吐き捨てた。驚きとともにユリアは透夜を見やる。当代の王について、ユリアは悪評以外耳にしたことがなかったが、これは最下層民たちが日々呟く、不平不満ではない。王の側近くを守る、恵まれた護衛兵の一言だ。口にしてはならぬ一言だ。


 眉を顰めた赤茶の瞳が、ぐっと険濃く塗り変わった。雨水の壁越しでなければ、その鋭さだけで射抜かれたことだろう。

「お前がその覚悟なら、俺は兵団長としてお前を止めるより他ない」

 言うが早いか彼の腕も腰の剣へと伸び、同時に透夜が石の廊下を蹴って駆けた。水飛沫が撥ね散り、いつの間に抜き放たれたのか、刀身が闇夜になお鈍く光る。


 駆け寄りざま足元から振り上げられた透夜の刃を、抜きかけの白刃が受け止めた。顎を狙って蹴り上げられた兄の足先を飛びすさって避け、一瞬にして持ち手を変えて、肩口へと透夜は刃を振り落とす。それを抜き放しきった剣で流して避けて、かすか距離をとった切っ先が、透夜を狙って突き出された。唸る切っ先から舌打ちと共に身を逸らし、透夜は舞うように次の一振りを斬り上げた。一歩及ばなかったその刃先は、兄の軍服の裾を雨ごと斬り裂き、吹きすさぶ風がそれを木の葉のごとく空へと舞い上げる。

 間合いを取るために退いた兄へと追いすがり、透夜は開いた距離を詰めて駆けた。

 だが、それが誘いだった。間合いに飛び込んだ透夜の刃を片手に持った剣で跳ね上げ、それと同じくして、懐から滑りだした短刀が雨夜に閃いた。


 濃緋が散る。蜘蛛手に走り落ちる水の流れに、赤く濁りが広がった。

「……――お前に負けるとは、腕が落ちたものだな……」

「あえて隙を残しておいて、なにを言う……」

 微笑んだ兄を忌々しげに睨み下ろし、低く透夜は唸った。


 短刀を振った兄の足元に、狙えというばかりの隙があった。そこを見逃さず、透夜はとっさに身をかがめて短刀を避け、兄の足を薙ぎ払い、倒れながらも追撃をと動きかけた兄を制すため、その右肩を剣先で床へと刺し貫いた。流れるように身体が動くのを感じながら、いつかの鍛錬での手合わせで、ちょうど兄と自分の立場が逆で悔しい思いをしたことを思い出した時には、もう刃を受けた兄の笑みが透夜を見上げていた。


「隙を見せたわけじゃない……。ちょっと、弟だからと油断してしまったんだ」

「言ってろ」

 言葉よりはずっと弱く呟きをぶつけて、透夜は一瞬顔を顰めると、直後、兄の肩から剣を引き抜いた。刃に押さえ込まれていた血が、短く飲んだ苦痛の声と共に一気に溢れ出る。だが、さらに赤く広がる肩口からの染みに駆け寄りかけたユリアを、当の怪我した本人が制した。

「脱走者なら、追手の負傷は喜んでしかるべきだ」

 そう笑いかけた彼の表情は、先程まで弟と斬り結んでいたとは思えないほど穏やかだった。暗に逃げろとの意味に、溜息混じりに透夜は刀を腰へと収める。

「返り討ちとは、とんだ失態だな。兵団長殿」

「まったくだ……。この怪我ではお前たちがどちらに逃げるかも見届けられない」

 柔らかな兄の声に、ふんと肩をそびやかして透夜は背を向けた。気に入らないといったその面持ちは、兄の真意を理解してのことだろう。

「……無能な兄で助かった。せいぜい咎を負わないよう、父上と得意の根回しをしておけ」

 向き合いもせずに透夜は告げると、行くぞとユリアに鋭く命じた。


 ありがとう――と、ここで礼を言ってはいけないのだろう。それを察して、ユリアは会釈もなにもせず、ただ彼へ向けて小さく微笑むと、急かす透夜の手を取り、彼の腕に抱かれて地上へと飛び降りた。


 残されたのは、兄たる無能な護衛兵団長ただ一人――。彼の上に、傷をさらになぶって雨が激しく降り注ぐ。やがてゆるりと立ち上がり、肩を気遣いながら彼が下方を見遣れば、自身で告げた言の葉通り、弟の姿も少女の姿もどこにもなく、どちらに逃げたとも知れなかった。

 これなら無事逃げ切れるだろう。彼はわずか、力無く笑みを刻んだ。


(――やれやれ……とんだ巡り合わせだな、透夜……)

 王が幻獣使いなる者が国内にいると知り、膝元を守る彼らにも探索を命じたのが少し前。その過程で、たまたま彼女に最初に接触した弟が、その後なにかと彼女の元に通っているのは知っていた。その時はまだ彼女が当の探し人とは知れず、彼も兄として、それを微笑ましく見守っていたものだ。

 だから、自分たちが彼女を害する立場に立とうとは、どんな運命の皮肉だったのだろう。

(――陛下の真意は、分かりかねるが……)

 空はまだ泣きやみそうにない。そこに、ふわりと肩へ軽い重みが加わった。


伽月かつき。もう中に入れば?」

 振り向けば、明るく笑う花の笑顔。綺麗な黒髪が濡れることも厭わず、彼の背に毛織物をかけたのはひとりの少女だった。白い絹の高価な寝間着も、明るい笑みに漂う気品も、こんな真夜中に城内をうろついていいとは思えない育ちのよさをうかがわせる。彼の肩に掛かった毛織物も、おそらく先までは彼女の体を温めていたのだろう。作りの細やかな高級品のようだ。

「セーラ……なぜここに?」

 瞬く彼に、セーラと呼ばれた少女は笑う。

「今日はお母様が王妃様の夜の茶話会に呼ばれてね。私も屋敷からお城の方に来て、泊まらせてもらってたの。それで、せっかく久しぶりに伽月に会えそうだったから、」

「また部屋まで来たのか?」

 目を瞠る伽月に、屈託無く、うんとセーラは頷く。

「だって伽月から来てくれないじゃないの。そしたら、伽月がこっそり怖い顔して出て行くから、何事かなっと思って、あとをつけてきちゃったんだよね」


 伽月は頭を抱えた。透夜のことに気を取られていたとはいえ、仮にも兵団長の彼のあとを容易くつけられるというのは、一種の才能だろう。これが一度や二度ではないから困ったものだ。それにおそらくは、すぐそばに潜んでいたことに、自分はおろかあの気配に聡い弟すら気づいていなかった。互いに取り込んではいたが、本当に先の弟の言葉そのまま、とんだ失態である。

「セーラ……危いからこういうことはしないようにって言っているだろう?」

 見やれば、ごめんね、と悪びれもなく笑って謝ってくる。敵意も邪気もない。この底抜けの明るさが、彼女の武器なのかもしれない。さらに困ったことに、伽月はこれに人一倍弱いのだ。


「宰相殿には、また様々な意味でお叱りを受けそうだな……」

「そしたら私がお父様を叱るから、安心して」

 そう目配せするお転婆なご令嬢に、伽月は甘く苦笑した。彼女を溺愛している父親も、こういったところにやられてしまうのだろう。苦言を呈すことは諦めて、濡れるね、と伽月は羽織らせてくれた毛織物を広げ、彼女を頭から包み込んだ。抱き寄せられたその近い距離に満足そうに笑んで、しかしすぐに、セーラはきゅっと細い眉を釣り上げた。

「そんなことより、早く中に入って手当てしないと!」


 伽月の怪我は端から見ていても深そうであった。暢気に会話している場合ではないと、一転慌てて、セーラは伽月の無事な左腕を引く。導かれるままに伽月は頬を緩め、彼女に従った。医療班の誰かをおこす必要があるだろうか、自分で対処出来るだろうか、そう思案しつつ肩の方に目をやる。

 すると、なにを勘違いしたのだろう。大丈夫、と唐突にセーラが声を上げた。

「私がお父様に頼んで、国王様にも言って頂くわ。伽月を処罰させたりなんかしないから。あ! いざとなったら、勝手についてきた私がお馬鹿なことに透夜くんに人質にされちゃって、手も足も出なかったって言えばいいんだから!」

 いいことを思いついたとばかりに意気込む彼女に、伽月はかすか面食らい――そのままくすりと笑い声を零した。一生懸命な彼女の背中を抱きしめる。

「じゃあ、その時は力を貸してもらうよ。セーラ」


 こんな解決の仕方をはかったら、彼女の父親のお冠は逃れられそうもないが、セーラの精一杯の好意は今まで役にたたなかったことがない。なにより断る気になれない嬉しい心寄せを、伽月は素直に受け止めさせてもらうことにした。

(俺の方はうまくいきそうだよ、透夜……)

 もういまは遠く離れただろう弟へ、届かぬ声で思いを馳せる。

 ふたりが渡り廊下から急ぎ立ち去ったあとも、雨脚はますます強くなり、空は黒く風を唸らせていた。

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