三 ファロットはかわいいね
「じゃあ、失礼します」
「うん。二人には私から言っておくから……部屋まで一人で帰れるかい?」
「大丈夫です」
酒瓶を抱えて顔を赤くしたイフィアル──鷲族の長がよろよろしながら部屋を出ていくと、ようやく部屋が静かになったという感じがした。別に彼が騒がしくしていたわけではないが、あまり親しくない大人がこんなに夜遅くまで部屋にいると、やはり落ち着かない。
「イフィアル伯父様……お酒弱いのね」
研究室の扉の隙間から居間を覗いていたファロットがぽつりと言う。彼は気晴らしに友人と飲みに来た風を装ってこの部屋を訪れたのだが、帰り際に小さなグラスで一杯飲んだ途端ああなってしまったのはちょっと面白かった。
「話したことを忘れないといいけどね」師匠が言った。
「ねえ……ファラフィル達、大丈夫なの? すごい音がしてたわ」
ファロットがおずおずと尋ねる。見張り中にココアを飲んで居眠りしたファラフィルと、「話が聞こえないところで」というのを鵜呑みにして耳栓をしていたラプフェルは、エテン達を送った帰り、入れ替わりでやってきたイフィアルから頭をごつんとやられて悲鳴を上げていたのだ。
「大人なんだ、あれくらい平気さ。君達に謝っておいてくれだって」師匠が笑う。
「ならいいけど……それで、私達に話すって何を?」とファロット。
「その前に、お茶を淹れようか」
師匠がそう言って準備を始めたので、エテン達は研究室から暖炉の前のソファに移動した。こういう時は弟子の自分が淹れるものだろうと思わなくもないのだが、師匠もファロットもそういうことは気にしない質らしく、三人の中では一番料理の才能がないエテンにはあまり活躍の機会がなかった。
師匠が紅茶を蒸らしながら保冷棚からミルクを取り出して、小さなポットに注ぐとちょんちょんと蓋を指先でつついた。小さな火の魔法陣が描かれて中身が温められる。
「少し
「いいの? 入れたい!」
ファロットが華やかな声を上げ、エテンもわくわくして頷いた。師匠が紅茶にお酒を入れさせてくれるなんて、余程研究が長引かない限り夜は自分の部屋に帰っているエテンにとって初めてのことだ。
「よく眠れるようにね。みんなには内緒だよ? 特に鷲族の人達には」
「わかってる!」
濃く淹れた紅茶にたっぷり温かいミルクを注ぎ、角砂糖を三つ放り込んで、琥珀色の液体をスプーンでほんの数滴垂らす。甘くてちょっと刺激的な独特の香りが立ち昇り、エテンはそれだけで大人になった気分になってちょっと背筋を伸ばした。
口に含んでも、いつものお茶と違う味はほとんどしない。香りも、入れる時のほんの一瞬でほとんどミルクの匂いに紛れてしまう。けれどよくよく味わうと、舌の表面が薄っすら熱くなるような気もした。うわぁ、お酒だ。ファロットは酔ったりするかな? そうしたら可愛いかな?
「──さっきの話だけどね」
しかし師匠がその時真面目な話を始めたので、エテンは両手で握っていたカップを置いた。
「何か、私達に言っておくことがあるんでしょう? さっきちょっとだけ聞こえたわ」
「うん。君達二人に、伝令役を頼みたいんだ」
「伝令?」
エテンが問い返すと、師匠は真剣な顔で頷いた。
「うん。ツシと長老の二人には、既に護衛と称して秘密裏に監視がついているけれど……特に長老の方は、監視をしたからといってどうにかなるような存在じゃない」
「強すぎるってこと?」とファロット。
「その通り。普段はああして優しいおじいちゃんの顔をしているけどね。あの方は間違いなく国一番の術者だよ。魔力量だけでも三本指に入るくらいだし、あの方ほど、多種多様な術を使いこなせる人は他にいない」
「お父さんでも敵わないの?」
「瞬殺とまではいかないかもしれないけれど、そのくらいだろうね。だから彼に対抗しようと思ったら、白ローブが一丸となって挑まなきゃならない。エテンとファロットには、その仲間集めをしてもらいたいんだ」
「なんで僕たちに、そんなすごい役を?」
エテンが興奮を押し殺して尋ねると、師匠は「目がキラキラしてるよ、エテン」と笑ってから、すぐに真面目な顔に戻って言った。
「二人が事件についてあれこれ調べて回っているのは皆が知っているし、それを塔の大人達が『子供の探偵ごっこ』だと思っていることも、犯人達は知っている。鷲族達が順番に部屋を訪ねれば何かが動き出したと思われかねないけれど、君達の場合はそうじゃない……でも、違うね?」
エテンとファロットが同時に頷くと、師匠は誇らしそうににっこりした。
「そう。エテンは叡智の祝福持ちで、ファロットは鷲の『頭』の血を引いている。その能力は大人に決して劣っていない。何より私の弟子と娘だ。危険な仕事だけれど、やれるかい?」
「もちろん!」
エテンが力強く頷くと、ファロットも「やれるわ」と言った。
「じゃあ頼むよ。今日はもう遅いからね、明日から……エテンは早く歯を磨いて寝なさい。お風呂は朝でいいから」
「え、なんで?」
「もう眠いんじゃないかい?」
「うん、ちょっとだけね……でもお風呂は入れるよ」
にっこりすると、師匠は「エテンの方にはファロットの半分しか入れてないんだけどなあ。これでも多いのか」と笑った。
「エテン……やっぱり伯父様よりずっと下戸ね。一、二滴でそんなになっちゃうって、妖精の呪いとかじゃない?」ファロットが言う。
「げこ? げこってなんだっけ……ファロットはかわいいね。僕が知ってる女の子の中で、一番かわいい」
「えっ……そんなことないわよ」
「はいはい、口説くのはそこまでだ。エテンはとりあえず、眠ってしまう前に着替えて歯を磨いておいで。お風呂は、もう少し酔いが覚めないと危ないから」
「はぁい」
ふわふわした幸せな気分で洗面所に向かい、丁寧に歯を磨いているうちに──段々と自分が何をやらかしたか理解してきたエテンは、わなわなと震え出して両手で顔を覆った。
やってしまった……というか、師匠達は僕のお酒の弱さを知っているような感じだったよな? まさか、前にも似たようなことをやらかしてるのか?
風呂には入れそうだと思ったので着替えずにそのまま戻ると、何やら酒瓶の背中のラベルをじっくり読んでいた師匠が「あ、元に戻ったね」と言った。
「ファロットが妖精の呪いって言ったろう? それでもしやと思ったんだけど、『妖精の暮らす森の酒蔵で作る、本当に特別な琥珀酒です』って書いてあるね。酒精というより、そちらの耐性が低いのかもしれない」
「どっちでもいいですよ……」
「いや、大事なことだよ? 何に気をつければいいのかわかっていないと、何度でも同じことを繰り返すからね。今度ルーフ様に何か楽しくなるような術をかけてくれるよう頼んでみるといい」
絶対に嫌だと思ったが、師匠の言うことももっともな気がしたので、渋い顔をするだけにとどめた。
「エテン、お水。お父さんが一応飲んでおきなさいって」
「ありがとう」
エテンは水を受け取って暖炉の前に陣取り、ソファの背もたれに寄りかかって揺れる炎を見つめた。ファロットが隣に腰掛けてこちらを見ているのを感じたが、敢えて気づかないふりをしてみる。あんまりすぐ振り返って、ずっと意識していたのがバレたら困るのだ。
「そういえば……長老様も魔法使いだったって、なんで思い出さなかったんだろうって、あの時思ったわ」
ファロットが小さな声で言うので、エテンも振り返った。
「魔術師じゃなくて?」
「魔法も使うのよ。魔術の功績が大きいから魔術師として知られてるけど、そもそも魔法も魔術も満遍なく使いこなすから長老に選ばれたって、魔法魔術大全で読んだわ」
「本当?」
エテンはさっと立ち上がって自室にしている書斎に駆け込み、紺色の表紙の分厚いそれを持ってソファへ駆け戻った。
「うわ、ほんとだ……よく覚えてたね」
長老のページを開きながらエテンが言うと、ファロットは「身近な人のことだから」と浮かない顔で言った。
「そういえば、長老の本名が……ほらここ、アイセナンっていうのを見た時に、ちょっと引っ掛かったんだよ。この名前、ルア語のエテニアが由来なんだ。今までエテニア記の登場人物の中で誰が一番罪が重いだろうとか、そういう風に考えていたけど……アイセナン、つまり『エテニア』に襲われたから『エテニア記』を意味する雷の魔法陣を残した。死の間際に残す伝言ってそれくらいシンプルなものなんじゃないかな」
「それに長老様、応接間で犯人をお父さんに誘導するような発言をしたわ。ほら、魔力変換式のこと」
ファロットが頷き、エテンも頷き返す。
「それに僕がツシを庇った時、彼だけが頷いて同意した。ツシを信じるって言った時も、『エッタは良い子だ』って言ったんだ。それがもし『彼にとって都合のいい子』って意味だったと考えたら……」
「……ツシも、彼も水の魔法使いだわ。エテンは仲がいいから知ってるわよね? 庭の魔術の管理を任されているからみんな魔術師だと思っているけど、本当は魔法が使えるって」
「まあ、魔術師でもあるし魔法使いでもあるって言った方が正確かな。彼が散水の魔導具や何かの管理をしているのも本当だし、魔法を使って樹医をやってるのも本当だから」
「もう、そういうことを言ってるんじゃないのよ」
「わかってるよ!」
思わず大きな声を出してしまったエテンは、ファロットがビクッとなったのに気づいてすぐに「ごめん」と謝った。
「……ううん、今のは私が悪かったわ。だってエテンはツシのこと、本当に大事にしてるのに」
「いや──」
とその時、風呂場の扉が開いて半裸の師匠が「喧嘩かい?」と顔を覗かせた。髪からぽたぽた水と泡が滴っている。ファロットが「ちょっとお父さん、そんな格好で出てこないでよ! 泡だらけだし、信じらんない!」と後ろを向いた。
「ごめんごめん。で、エテン?」
「喧嘩じゃありません。僕がちょっと感情的になってしまっただけです……ツシのことで」
「女の子に八つ当たりはだめだよ?」
「はい、すみません」
「お父さん! 早く戻ってよ!」
「わかったわかった」
師匠が笑いながら風呂に戻り、冷えたのか小さなくしゃみの音が聞こえてきた。ファロットが「信じらんない!」と繰り返し言っているのに少し笑ってから、エテンは先程の続きを口にした。
「……ツシがどれだけ大事な友達でも、見て見ぬふりはしちゃいけないと思うんだ。ちゃんと真実を突き止めて、そして……それがもし本当のことだったら、ちゃんと罪を償ってもらう。そこに私情を挟んだら、たぶん僕らの友情はいずれ腐っていくから」
前を向いて生きてさえいれば、きっといつか、失った以上の幸福を得る時が来るよ──
家族を亡くしたエテンにそう言ってくれたツシの笑顔を思い出す。彼自身も何か傷を抱えているのか、寂しそうに、自分にも言い聞かせるようにそっと話すツシは、あの時何を思っていたのだろう。
「……本当はずっと、僕に死んで欲しかったのかな」
ぽろりと弱音をこぼしてしまって、エテンは慌てて気にしていない風を装おうとした。けれどその前に、ソファの座面に投げ出された手が、細くてあたたかい手に握られる。
「……私がいるわ」
ファロットが言った。
「代わりにはなれないけど……それでも、私はここにいるから。家族だもの」
「家族かぁ……」
ああ、やっぱり家族……いや待てよ、恋人同士だって結婚したら家族になるじゃないか。じゃあ問題ないのかな?
そんなことを考えていると涙が滲んできて、エテンは必死に唇を引き締めると暖炉の火を凝視した。
ファロットはそんなエテンに気づいていたが、見ないふりをしてくれたようだった。
◇
風呂から上がってくると、ソファで眠ってしまったらしいファロットを師匠が抱き上げているところだった。ぐっすり眠っているらしく、持ち上げられても小さく微笑むだけで目を覚まさない。
「部屋に寝かせてくるよ。エテン、暖炉の火を消しておいてくれるかい?」
「はい」
「おやすみ、ゆっくり寝るんだよ」
「おやすみなさい」
暖炉の薪を均すと扉を閉めて通気口を閉じ、部屋が冷える前に書斎へ入った。書架から神典を取って寝台に持ち込み、枕元に燭台を置く。まだ少し酒が残っているのか毛布を被ると眠気が襲ってきたが、頭に魔力を巡らせて振り払った。
「……もし、もし本当にツシが共犯だったとしても、実行犯は長老の方だ。彼はそんなに戦える人じゃないし、背の高さが、今思うとツシはちょっと足りない気がする」
聖典のページをエテニア記のところまで捲りながら、エテンは思考を整理するように呟いた。
「でももしかしたら、長老が彼に罪を着せようとするかもしれない。そうなった時に彼を守れるのは僕だけだ。証拠を掴まなきゃ……犯人の手口を解明して、実行犯が長老だったと証明する。そのためには、全てをもう一度見直さないと。今の僕の推理はまだ、憶測にしかなってない」
小さく息だけで言いながら、エテンは魔導写本の筆致が美しい『エテニア記』の文字を指先でなぞり、温室でのファロットの言葉を思い出した。たとえルセラがそうと思って残したものでなくとも……エテンが拾い上げればそれはエテンに向けた伝言になる。ルセラは、僕に何を伝えようとしたのだろう?
視線で端から丁寧に文字をなぞってゆき──それをとある箇所でぴたりと止め、眉を寄せた時のことだった。居間の方から聞こえた幽かな物音に、エテンは息を呑むと全身をこわばらせて振り返った。
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