四 曇りの応接間 前編
金庫の確認に同席して欲しいと揺り起こされると、窓の外が夕焼けで金色に染まっていた。エテンは師匠の寝台から起き上がって、渡された水に大人しく口をつける。
「……今何時ですか」
「白の四時半だ。君が寝ている間に書斎の準備もできたから、今夜はそちらを使うといい」
「夜、眠れるかな……」
すっかり夕方まで眠りこけてしまったエテンは、自分が昨日の夜からずっと同じ寝巻きを着たままだったと思い出して、部屋から着替えを持ち出してもいいのかどうか思案した。というか、下着もまだ切り裂かれたまま、端を結んでずり落ちないようにしてあるだけだ。こんな状態でファロットや神殿の人と話していたのかと思うとうんざりする。
「師匠、着替えたいんですが、部屋から──」
「ああ、着替えならそこだ。新品を持ってきてもらった。情けないことに私を含めたみんな、君が服を裂かれていることに話を聞くまで気づかなくてね。早く着替えさせてやれとマシュに煩く言われたんだが、あまりに君がぐっすり眠っていたから」
見ると、枕元にゆったりとした淡い灰色のチュニックとズボン、下着と靴下、上に羽織るための灰色ローブが置いてあった。とりあえず、苺や兎の柄のものはなさそうだと安心する。
「でもこれ、ローブ以外部屋着じゃありませんか?」
「まだ体調も万全じゃないだろう、締めつけない服の方がいいと思って」
「はあ」
曖昧に反応してしまってから、今のは気遣いに礼を言うところだっただろうかと首を捻った。
「ああ、その……お気遣いありがとうございます。着ます」
「うん。着替えたら居間においで」
師匠はそう微笑んで立ち去り、エテンは起き上がって用意された服を着た。すっかり元気というほどでもないが、体が言うことをきかないような奇妙なだるさはなくなっている。術が完全に解けたのだろう。
居間に出ると、ふわりといい匂いがした。テーブルの上に湯気の立つ皿が乗っていて、師匠が「少し食べさせてから向かうと言ってあるから。朝も昼も食べてないだろう?」と言った。確かにと思って椅子にかけ、簡単に食前の祈りを済ませると、熱々のポタージュスープをひと匙口に入れた。
「どうだい」
「美味しいです」
そうは言ったものの、寝起きだからかあまり食欲はなかった。パンを一つ残していいですかと言うと師匠は「食べられるだけでいい」と頷いたが、ファロットが心配そうな顔になる。
「あー、大丈夫。起き抜けにそんなに入らないだけだから。変な時間に寝たせいだよ」
「本当に?」
「うん」
どうも中身は芋だけではなさそうな、しかし何が入っているのかまではわからないクリーム色のスープを完食すると、エテンは立ち上がって「行きましょうか」と言った。ファロットが「私もついて行く」と言う。師匠も頷いて席を立ち、「食器は後でいい。夕食の後で纏めて返すから」と言った。
「君の部屋はもう調査を終えてあるから、あとは金庫の中身がなくなっていないか確認したら、部屋の中のものは持ち出していいそうだ。相変わらず部屋は浄化されていて、犯人の髪の毛とか、そういうものは見つからなかったそうだよ」
「そうでしょうね」
浄化の魔法がかけられる様を目の前で見ていたエテンが頷く。
「金庫の中身は、盗られてないと思いますけど」
「でも一応……ほら、君の場合はご家族の遺石をしまってあるだろう?」
「あ」
そう言われると、急に不安になってきた。エテンの見ている限りでルヴァルフェンサが部屋を物色するような様子はなかったが、彼は催眠術の達人だ。エテンに命じて金庫を開けさせるのも、それをエテンの記憶から消し去るのも、いとも容易いことだろう。
「し、師匠、早く」
「うん」
食事なんてしている場合ではなかったと慌てて昇降機に飛び乗り、灰色の区画を早足で進んだ。青白い石造りの廊下はほんのり透き通ってキラキラして美しいが、いかんせん床がつるつるなので走り回るのには向かない。絨毯を敷けばいいのに。師匠とファロットが後ろを歩きながら「ふらついてはいないようだね」とかぼそぼそ話している。
「あった……」
そして自室に辿り着いたエテンは金庫をこじ開け、小箱の蓋を開けてそこに家族の石があることを確認して、思わず箱を胸に抱きしめて涙ぐんだ。
「他に紛失しているものはありませんか」
付き添いで部屋に入った灰色ローブの男性神官が言う。
「ない……と思います。貴重品の戸棚はそのままだし、事件の資料をまとめたものもなくなってない」
「事件の資料?」
「ええ。最初の事件の現場検証の資料とか、魔術師達に聞き込みしたものとか」
ほら、と封筒を開けて中身をぺらぺら捲って見せると、神官が食い入るようにそれを見つめた。
「それを少しの間、こちらでお預かりしても? 特に聞き込み資料を拝見したい。我々外部の人間と、同じ魔術師で……失礼、子供の貴方では同じ質問でも返答が違う可能性があります」
「もちろん」
自分の仕事が本職の人に認められて少し舞い上がったエテンが封筒ごと渡すと、男性神官は胸に手を当てて「ご協力、感謝いたします」と丁寧に礼をした。
「いえ、その、全然」
照れているエテンに、神官が生真面目な顔を崩して少しだけ微笑む。すると後ろから、腕を組んだ師匠が口を挟んだ。
「この後は、エテンに皆の顔と声の確認をさせたいんだったかな?」
「ええ。ご夕食までにもう二時間ほどあると伺っていますから」
「場所は?」
「百六十四階、『曇りの応接間』で。白と灰色の中間層だそうですが」
「そうだね。白の最下層でもいいけれど……猫の談話室は、外部の人間を一度に二人までしか入れないことになってる。立ち合いの神官は君とエシテだけじゃないだろう?」
「ええ、被疑者を集めるとなると護衛の火が必要ですから……やはり白の区画は警戒が厳しいのですね」
「いや、最下層までは『白』の客人も招かれるから言うほどでもないんだけれど、知らない人が大勢いると猫達が怖がるから」
「猫?」
「猫」
きょとんとしていた神官が、何度かぱちぱちと瞬きした後に小さな声で「どんな猫ですか……?」と尋ねている。白猫と黒猫が一匹ずつだと教えられて、彼は口元に手を当てると「へえ……」と呟いた。
「仕事がひと段落したら見に来るかい?」
「……よろしいのですか? いえ、しかし」
「いいよ。私の権限で招いてあげよう。君、名前は?」
「シリアネスです。リネスとお呼びください」
「リネス、後で使いをやるから」
「……はい」
恥じ入ったように俯きつつも嬉しそうな神官を連れて、エテン達は指示された曇りの応接間へと向かった。家族の遺石は、迷ったが部屋へ置いてきた。人の集まる場所へ持ち込むよりも、そのまま金庫に入れておいた方が安全だと思ったからだ。寝る前にもう一度部屋へ寄って、着替えと一緒に師匠の部屋へ移動させるつもりだ。
白の区画の一層下である百六十四階はエテンにとって、いつも昇降機を降りて本人確認を受けるだけで通り過ぎてしまう場所だ。そういえばこの層の奥にはほとんど来たことがなかったなあと思いながら、該当の応接間を探して廊下を進む。少し行ったところで人の声が聞こえてきて、扉が開けっ放しの部屋が見えたのですぐにわかった。
「……やっと来たか! 待ちくたびれたぞ。全く、わしの黄金の時間を七分半も無駄にしおって」
入り口から顔を出したラグじいさんが声を上げ、師匠が苦笑いして「すまないね」と言った。部屋には長老を含めた塔の白ローブ達が勢揃いしていて、エテンは圧巻の光景に一歩後ずさりたい気持ちを我慢した。長老の隣に座ったツシが、俯いて肩身が狭そうにしている。すると顔を上げた長老が立ち上がってにっこりし、エテンに向かって大きく両腕を広げた。
「エッタ! ほら、わしの隣へおいで。よくぞ無事でいてくれた、怖かったじゃろう」
「長老、あの」
おずおずと近寄ると手を取られてソファに座らされ、背中をポンポンと叩かれた。
「ええと」
背は高いが、声も話し方も全然違う──
エテンは無意識にそう思って、長老相手に何を失礼なことをと首を振った。けれどエテンがこの場に呼ばれたのは、要はそういうことなのだ。姿を見て声を聞き、何か思い出すことがないか確認する。協調性のない人間ばかりとはいえ、塔の仲間にそんな風な目を向けなければならないことに、今更だが気が重くなった。
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