四 ラグじいさん



 エテンが師匠の部屋で暮らしている間に、月の塔は本格的に遺石蒐集家ルヴァルフェンサ対策に乗り出したようだ。灰と茶、つまり住み込みで研究をしている灰色ローブのほとんどと、通いの茶色ローブの全員が自宅なり実家なりに返され、塔の中は最上位の白ローブ達と、身寄りのない十数人の灰色だけになっていた。


「塔の宝たる『白』だけ残すのは下策じゃないのかな。却って狙いが絞られて危ない気がするけど」


 自室の片付けを手伝ってもらいながらエテンが言うと、ファロットは首を横に振った。

「危ないとか関係なく、残らなきゃならないのよ。大切にされてるだけじゃなくて、白には白の使命があるんだから」

 白を父親に持つ娘が諭すように言う。


「それはわかってるよ。だからこそ、おとりになるような灰や茶が大勢いた方がいいんじゃないかってこと」

「囮なんて……エテン、そんなこと言っちゃダメよ」


 僕は君のためなら囮になってもいいけどね──と言ったら彼女はどんな顔をするだろうか? エテンを格好いいと思うか、それとも気障きざったらしくて鬱陶しいと思うか……うん、とりあえずやめておこう。


「ごめん、軽率だった」

「わかったならいいけど──あ、これ」

 ファロットが中身を入れ替えた水差しを棚に置こうとして、そこに転がっていた拳より少し小さいくらいの玉を拾い上げた。

「……仕舞っておきなさいよ、エテン」


「そうだね」

 電離気球を受け取って、引き出しに入れる。魔術仕掛けのこのおもちゃを、エテンは自力で光らせることができなかった。またあの紫色の変な光を見ようと思ったら、誰かに頼まないといけない。トナ以外の、誰かに。


「……僕、泣けなかった」


 ぽつりと言ったエテンを、ファロットが黙ったまま見る。

「骨になった彼女を見ても、全然泣けなかった。ちょっと胸が痛んだけど、それだけだ。悲しいとか、寂しいとか、怖いとか……何もなかった。僕はやっぱり、酷い人間なんだろうか」


 そんな自分の心の有り様を、勇敢さだと思ったこともあった。けれど……好きな小説について語り合って、研究の相談に乗ってもらう約束をして、贈り物までもらって、楽しくていい人だなと思ったトナがあんな風になっても、ほんの少しお気の毒にと思うくらいの、そんな自分が勇気に溢れているとはとても思えない。


「私には、エテンが誰より傷ついてるみたいに見えるわ。傷つきやすい心を守るために、そうなってるように見える。エテンが塔に来た時から、ずっと」

「……それはそれで嫌だな。かっこ悪い」

 少し無理をして笑ってみせると、ファロットも微笑み返して「別に格好悪くたっていいじゃない、心が綺麗なことの方がずっと大事だわ」と優しい声で言った。やっぱり格好悪いと思ってたんだ……とこっそり肩を落とす。


「……聞き込みに行ってくる」

「えっ、私も行くわ」

「ちょっと、一人にしてほしい……」

「だめよ」


 この落胆に整理をつけようと外へ向かったが、幼馴染は容赦なく後ろをついてきた。廊下の端に立っている鷲族に手を挙げて合図すると、頷いた人影が吹き抜けに向かって何か言う。するとすぐに階段を駆け降りてくる軽い足音がして、あの青い目をした『目』の青年が現れた。


「よろしくお願いします。あ、ええと」

「ファラフィルだよ、エテン」

「あ、はい。ファラフィル……すみません」

「ううん。どこへ行くの?」

「白の区画へ、聞き込みに」

「おっと……じゃあ僕じゃダメだな。上でファロルと交代しないと」


 目の一族の長の名を出したファラフィルに、エテンとファロットは顔を見合わせた。そういえばここに降りてくる時も、ついてきたのは「耳」の長の側近だった。確かに白ローブの護衛は鷲族の中でも特別手練れでないとできないが、区画に入る灰色や薄青──「白」の家族として上層に住んでいるファロット達が纏う色だ──にまでそんな護衛、もしくは見張りが付くなんて、警備がかなり強化されているようだ。


 昇降機に乗り込んで、百六十四階で姿を偽っていないか「瞳孔」直々の審査を受ける。とはいえ「目」の頂点に立つ彼は鷲族らしく朗らかな人間で、にこにこしながらファロットの頭を撫でていたので、ものものしい感じは全然しなかった。


「それで、どこに行くの?」

 火事の時の凛々しさは幻だったのかというようやキラキラした笑みで、とても楽しそうにファロルが尋ねた。足取りも弾むようで、こうしていると全然強そうに見えない。しかしよくよく観察すれば布で隠されていない緑の目が、角を曲がる度に油断なくその向こうを透かし見ていた。しかもそうして周囲を見ながら、灰色であるエテンの動きも監視されているようだ。ああ、こうして一人で廊下を歩くことすらできない日は、一体いつまで続くのだろう。エテンは考えて少し憂鬱になった。最初は非日常感があってちょっと面白かったが、三日も続くといい加減嫌気がさしてくる。


「白炎のところへ。あの火事について意見を聞こうかと」

「なるほどね。じゃあこっちか」

「──わしのところへ来い」


 ファロルとの会話を遮って、しわがれた声がした。げっと思いながら振り返ると、ナナカマドの杖をついた小柄な老人が、睨むようにこちらを見ている。


「ラグ様……こんにちは」

 ファロットが目をパチパチしながら挨拶すると、ラグ爺さんは「ふん」と感じの悪い鼻息でそれに応えた。


「その……来いって、僕に対して言ってました?」

はようせい。全く、お主が呆けた顔をするのに費やしておるこの一分一秒が本来どれだけ貴重か、わかっとらんのか。一瞬の思考に黄金の価値があるのが魔術師というもの──おい、早うせいと言っとるだろう」

「あ、はい」


 エテン達は苦笑いになって顔を見合わせてから、さっさと背を向けて歩き出したラグじいさんの後に続いた。何の用だか知らないが、この偏屈な老人はある程度ご機嫌をとっておかないと面倒な御仁なので、ひとまず話を聞いてやった方がいいだろう。


「ほれ、見解を聞かせい」

「はい?」

「察しの悪い奴め。『ルヴァルフェンサ』についてじゃ」

「あ、いえ……まだ、全然」

 エテンが首を振ると、ラグ爺さんはまた鼻を鳴らした。

「聞いておったか? わしは『見解』を聞かせろと言った。結論じゃあない。お主の考えを端から全部話せと言っとるんじゃ」


 めんどくせえ……と思ったが、エテンはどうにか顔をしかめるのを我慢して口を開いた。

「まず、犯人は複数なのかどうか、そこから考えなければならないと思っています。二つの事件で使われたのは、それぞれ気、水、火の魔力を持っていなければ使えないような強力な術でした。気はさておいて、相性の悪い水と火の術の両方をそんな威力で使えるなんてあり得ないことですが、けれど、そんな色持ちの希少な術者が複数結託しているとも考えにくい」

「それで」

「光持ちか風持ちか、どちらかが魔力変換式を使っているという可能性も考えました。あれを使えば、火持ちや水持ちと同じくらいの魔術が使えます。けど、『目』の人達は魔法陣を見なかったという。魔術師じゃなく魔法使いだと考えるなら、魔力変換式は使えない。あれは魔法陣だから。じゃあやっぱり複数なのかなって思って……でもそれだと、白の人達がみんな共犯にでもならない限り……」


「わしも容疑者だと?」

 老人の目が意地悪く光る。

「いや、だからそれは非現実的だって言ってるんです」

「エルフは」

「彼らは違うと思います。あれは人間の仕業だ」

「なぜそう思う」

「いや……直感ですけど」

「ふん!」

 ここで特別大きな鼻息を出されたので、エテンは嫌な気持ちになってラグ翁を見下ろした。馬鹿にするために尋ねるなんて、やなやつだな。


「悪くない」

「え?」

「悪くないと言っとる。その歳でもう耳が遠いのか? 思考に筋が通っとるし、まああまり整理はされとらんが、疑問点も把握しておる。勘もそこそこ冴えとる。お主に足りんのは知識じゃ。迷路を抜ける鍵となる、黄金の知識」

「えっ」

 まさか褒められるとは思っていなかったエテンは、ちょっと嬉しくなって口元をむずむずさせた。なんだ、案外いい人じゃないか。


「与えてやろう」

「え?」

「知識じゃ。その程度の予測もつかんとは、やはり他の薄ら馬鹿どもと同じか? わしの見込み違いだったかの」

「いや、偏屈なあなたからそんな言葉が出るなんて予想外だっただけで、質問の意味がわからなかったんじゃありませんよ」


 エテンの不躾な物言いにファロルとファロットがハラハラした顔をしたが、ラグ爺さんは「ふん」と言って珍しく上機嫌に、不敵な笑みを浮かべた。

「なら早う来い。お主、聖典を隅から隅まで読んだことは?」

「ありません。読もうとしたことはあるんですが、あんまり退屈なのでやめました」

「ふん、未熟者め。黄金の真実というものは、一見冗長な退屈の中にこそ隠されておる。その程度の生ぬるい試練すら越えられずに、世の理は解き明かせんぞ」

「へえ」


 このじいさん、態度は悪いけど言ってることは結構面白いぞ。エテンはそう思って笑みを浮かべた。その顔を見たラグ翁が焦茶の瞳を僅かに細めて、白く塗られた扉の一つを開ける。天井までぎっしり本が詰め込まれた部屋が顔を覗かせた。師匠の部屋もかなりの蔵書があるが、ここまでじゃない。壁を覆い尽くして尚溢れかえる書物が床に山脈を築き、あちこちで雪崩を起こし、足の踏み場もほとんどないような状態になっている。


「もう一部屋もらって、きちんとした書庫にしたらどうです? 下の方の本が読めないじゃないですか」

 エテンが瞳を輝かせながら軽口を叩く。この人はどうやらきちんと挨拶ができるとか、敬語が使えるとか、そういうことをちっとも気にしない人らしいとわかり始めていた。


「整理しろだと? 時間がもったいないわい」

「この山から一番下の資料を引っ張り出す方がよほど手間だと思いますけどね」

「そんなはずあるか。一発蹴り崩すだけのこと。転がっとるのはみんな複製本じゃ」


 師匠と同じで本は複製だろうが原書だろうが丁寧に大切に扱うファロットが嫌な顔をした。エテンも資料は全てきちんと手を洗ってから触り、平積みせずに本棚に立てて収めるタイプだが、こんな風に書物を単なる知識としてしか見ていない感じも、なぜか悪くないと思う。


「それで、何を教えてくださるんです?」

「『エテニア記』」

 山脈の一番上に乗せられていた分厚い一冊を広げながら、ラグじいさんが言った。





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