第二章 焼かれた伝言

一 火災



 ゴーンゴーンと、聞いたことのない低い鐘の音が突然鳴り響いて、エテンは跳ね起きた。寝起きの頭で混乱しながら燭台に火をつけようと手を伸ばし、煙の臭いがすることに気づいて身を低くした。


「えっ……火事?」


 大慌てで部屋の金庫から小箱を掴み出して懐に入れ、ローブを羽織って部屋の戸を開けると、真っ白が煙が一気に襲いかかってきた。どうしよう、本当に火事だ。


「──中央の吹き抜けに飛び込んでください! 白の方の風の術がかかっています!」


 誰かが叫ぶ声がして、次いで煙に咽せる音に変わった。魔術師達が次々に廊下へ出てきて、口に袖を押し当てながら昇降機のある吹き抜けの方へ歩き始める。


「火元はどこだ?」

「わからん。一つ上の層らしい」


 小さく会話する声が聞こえてくる。寝巻きのローブの胸元に入れた二つの小箱をぎゅっと握って、エテンも煙を吸わないように気をつけながら避難を始めた。すると十歩も歩かないうちに、後ろから来た人物が彼の背中に手を回す。

「エテン、良かった。これを使って」

 そう言って濡らしたハンカチを渡してくれたのはツシだった。彼は水持ちの魔術師で、エテンと同じ階層の、角の向こうの部屋に住んでいる。


「ツシ」

「話は後だ。できるだけ息をひそめて、煙を吸わないように」

「──水持ちは火元へ! 百五十五階層、トナの居室!」

「ごめん、行ってくる。エテン、気をつけて」

 鷲族の誰かが叫ぶ声を聞いて、ツシがひらりと上へ向かう階段の方へ駆けていった。


「……トナの部屋だって?」

 一人取り残されたエテンは、今しがた得た情報を緊張で回らない頭の中に巡らせ、そして顔を青褪めさせるとツシの後を追って階段を駆け上がった。トナ……トナの部屋が燃えてる? 雷でなにかやらかしたのか? それとも──


「ツシ、水持ちです!」

 前を走るツシが、煙でほとんど何も見えない廊下の奥に駆け込みながら言った。煙は次第に真っ黒になって、エテンは目を開けていられなくなった。煙が沁みて刺すように痛い。熱気がすごい。酸素が薄い。息ができない。


「いらん! 避難してろ! おい、誰かルーフを呼ぶんだ! 人間じゃ手に負えない」


 誰かの怒鳴り声。


「白の方々は最優先で避難させられてるはずだ! 下から呼び戻すのは時間が」

「それでもいいから、とにかく呼べ!」


 真っ赤な、大きな炎が見える方向にエテンがなんとか進むと、突然息が楽になった。気の分界──つまり空気を操作して作られた半球状の部屋のようなものがあって、そこに入り込んだのだ。


「エルフが動かなければ白炎でもいい! とにかく誰か白持ちを」

 布で口を覆った鷲族の人間が、姿勢を低く保ったまま風のように廊下の向こうへ走っていった。エテンはそれをちらりと見てから、ごうごうと燃える部屋の方に向き直る。


「あの火の盾はどなたが?」

「誰も出してない! 最初からああなってたんだ。下手に放水して破れれば、却って危ない──おい、なんで子供がこんなとこにいる? とっとと逃げろ!」


 質問に答えた魔術師がギョッとした顔でエテンをつまみ出そうとしたが、ツシが「待って! もう煙が充満してる。ここに匿っていた方が安全だ!」と言うと、厳しい顔で首根っこを掴んでいた手を離す。


 しかしエテンはそんなやりとりをほとんど聞かず、じっと燃え盛る炎を見つめていた。木の扉は燃え尽き、まるで鉄を溶かす炉の中のように、赤を超えて黄色くなった炎が部屋の中を埋め尽くしている。けれど、炎はそこからこちらへは襲いかかってこなかった。扉の代わりに部屋の入り口を塞いでいる、真っ赤な光で描かれた蔓草紋様──神殿の火の神官が扱う盾の術が発現していたのだ。炎は通さないが空気は通す、火事場では中途半端な術だ。


「ツシ、発現をお願い」


 その時、エテンが場違いなくらい静かに言った。隣のツシは訝しげな顔をして「何を? それよりエテン、なぜ逃げなかったの」と彼を責めたが、エテンはそれを無視して指先に魔力を通し、空中に大きく円を描いた。


「おいこら! 勝手なこと──お前もしかして、白の弟子の坊主か!」

 名前も知らない魔術師の男が叫び、ツシがため息をついて「……僕の魔力で、威力は足りるの?」と言った。


「足りる。多すぎるくらいだ。細かい調整ができない代わりに、馬鹿みたいに加速するから」


 エテンの魔力は大気の神の祝福を受けている。つまり目の前の大きく緻密な魔法陣は赤や青に光るのでなく、眩しいくらいに燃え上がる炎を背景に、暗く影の色で描かれていた。そして黒い線が、ツシが手を当てたところから青い色に塗り変わってゆく。あの水の神官ファーリアスよりは彩度が低いが、十分に美しい水の色。


「権限が移った」ツシが言う。

「発現させて!」エテンが叫ぶ。


 カッと魔法陣が目の眩むような光を放ち、そして大きな光の玉がぐるぐると陣の中を回転し始めた。エテンが研究し、発明した加速増幅回路。少ない魔力で大きな術を打ち出す反則級の魔法陣だ。


「シルラ=ファリミステール!」


 エルート語の呪文をツシが怒鳴るように唱えた。瞬間、ドォンと地響きのような音を立てて魔法陣から吹雪のように冷気の塊が飛び出し、魔術師達の髪やマントをバタバタと揺らす。青く光る術はエテン達を守る風の分界を吹き飛ばし、炎を閉じ込めている盾の術を消し飛ばし、溶鉱炉のような炎をあっという間に消しとめて部屋中を薄い氷で覆い尽くした。


「すっげぇ……なんだこれ」


 そう呟く声が聞こえた。皆がポカンとして、白く霜に覆われた部屋を見つめている。いち早く正気に戻った鷲族の何人かがさっと部屋に駆け込んで、部屋の一点を見下ろすと「……だめだ」と落胆した声で言った。


「ツシの、というか人間の魔力量でこんな術、打てるはずねえ。坊主、お前……とんでもねえ魔術師だったんだな。なんでまだ灰色なんだ?」いかつい顔をした男魔術師がエテンの肩を叩いた。


「これは威力の調整ができないんです。戦争に利用されると危険だからって、今は長老に発表を止められてる。でも、僕は凄い『魔術師』じゃありません。自分では発現できないから」

「ああ、そっか。確か原因不明の障害で魔法も魔術も使えないとか……おっと、すまん」

「いえ」


 エテンは首を振ると、パリパリと氷を踏んでトナの部屋の中へ入った。骨だけになった遺体を見下ろし、右の拳を胸に当て、それを左手で丁寧に包む。

「……天の国で、神々があなたを慰めるように」

 ファーリアスが口にしていた祈りを思い出しながら捧げると、皆が彼に続いて黙祷した。エテンはじっと凍りついた骨と灰を見下ろし、そして小さく「……何か持ってる」と呟いた。


「誰か、火持ちの方」

 近くにいた鷲族の男が声をかけると、さっきのいかつい魔術師が手を挙げた。彼が進み出てトナの握りしめた右手の氷を溶かすと、カタンと手の中から透明なものがこぼれ出す。


「……魔石だね」

 鷲族の男が言った。エテンが頷く。

「ええ。この大きさならきっと魔獣の」


 エテンは指紋をつけないように袖を伸ばして石を取り上げ、そして誰かが灯した魔法の明かりに透かした。

「……丸が描かれてる」

 魔石の中央、どうやったのか表面ではなく中に埋まるように、傷をつけたような白い線で円が描かれていた。


「……あの雷の魔法陣は、犯人を示してたんじゃなかったんだ」


 エテンがそっと言うと、皆が彼をじっと見た。

「それって、ルセラの手に刻まれてたとかいう?」

「そう。あれは犯人が、次の被害者を指し示したものだったんだ」


「確かに、雷の術やその使い手に、トナが負けるはずないわ」

 魔術師の中の一人が言った。彼女と親しかったのか、声が涙で掠れている。


「いや、あいつがいつも通り寝台か何かを丸焼きにして、それでってことも」

「それで逃げもせず、誰にも知らせず、わざわざ神殿式の顕現術なんて使って炎を閉じ込めて自殺したってわけ? 意味深な印を刻んだ石を握って?」

 女性魔術師が激昂寸前のような声で言い返すと、発言者は「いや、そうだな。すまない」と言って黙り込んだ。緑の目をした鷲族の男が先を促すようにエテンを見たので、頷いて続きの推測を口に出す。


「それか、犯人から次の被害者について話を聞いたルセラが、その人を……つまりトナを守ろうと残したものだったのかもしれない。だから、つまりこれは」


 エテンは周囲をぐるりと見渡し、炎に焼かれてなお美しい輝きを放っている魔石を皆に見えるよう持ち上げた。


「次の被害者が、風持ちだってことを示してる。円環は、気の神エルフトの象徴だ──そう考えるのが、自然だと思う」





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