飛んで海に入る夏の虫

二酸化ナトリウム

飛んで海に入る夏の虫


飛んで火に入る夏の虫、という言葉が地上にはあるように、海の世界にも飛んで海に入る夏の虫という言葉があってもおかしくないと思う。深淵を覗きたがるアホがうっかり潮の流れに巻かれるとか、度胸試しで沖に出て溺れるとか。とにかく夏の深海は波にもまれた水死体がよくやってくるのだ。他の季節でも所謂土左衛門とやらがやってくることはあるけれど、自ら死ににやってくる絶望しきった水死体とは違う、恐らく自分が死ぬとか考えたこともないような頭空っぽな死体。そんな命のなれのはてが、海の底へと舞い落ちる。今日もまた愚かな死体が泡粒と共に暗い海へとやってきた。

「あーあ、夏になって何人目なんだか……海の怖さを知らないからこうなんだよ、ったく」

光も入らぬその世界に舞い降りる人間。まだ死んでから日が浅いのか、そんなに損傷は見られない。色を抜いた茶髪に派手な色のアロハ、シルバーのネックレスにこれまた派手な色の水着。見た目からして黄色人種、そしてまだ若いその男の表情は水中で息ができないことによって苦悶の色に染まっている。目の前に落ちてきたそいつを見ているだけというのもなんだか癪で、前ヒレを使って受け止める。羽目を外さなければ未来があったであろう若者は、なんとなく哀れに見えた。

「……もうちょっと思慮深さがあれば違っただろうに。サイ!ちょっとこっち来て!」

死体を抱えたままこの海でただ一人あたしのそばにいる同類を呼ぶ。岩陰で寝ていた一つ目の白いサメ……の人魚、サイは欠伸をしながらゆらゆらと尾ビレを動かしてこちらへと寄ってきて、あたしが抱える人間を見るや否やぱあっと笑顔になった。

「おともだ、ち?」

「とっくに死んでるけどね。夏だからって頭が湧いてたんだろーね、かわいそ」

「かわいそ……」

サイの思考回路は稚魚程度しかないから死んでるだなんて言ったって理解は出来ないだろう。あたしの言葉を真似するように呟いた言葉の意味も多分全く理解してない。それでも何か思うところがあるようで、その死体を大きな青い瞳で見つめるとそっと不自然な茶髪を撫でた。

「いーこ、いーこ……」

「……死んでんだから意味ないよ。しかもこいつ、海を舐めてるから死んだのに」

人間は海の怖さを知らない。うねる波の動き、急激な潮の流れ、自分の足の下に広がる人智を超えた存在を敬わないから海の神が怒ったんだ。自然に生き物は敵わない、だからこそあたしたちは自然を敬うし大切にする。それをせずに自分の力を見誤り自然の逆鱗に触れたものは淘汰される運命にある、この若造はそれを知らなかったから死んだんだ。

「おともだち、かわいそ」

「………そーね、こんな飛んで火に入る夏の虫にも待ってるやつがいるんだろうし。サイ、行くよ。こいつのこと地上に返してやろう」

「あい!」

わかってるんだかわかってないんだか、サイは元気よく返事をしてあたしの代わりに男の亡骸を抱いて地上へと泳ぎ出し、あたしもその後を追いかけ泳ぎ始める。途中いい餌を抱えているからと群がる小魚どもを追い払いながら明るい場所へと向かう。軽率に禁忌を犯す人間に同情なんてできないけれど、陸の生き物は陸で死ぬべきだ。こんなに苦しそうな顔をして死んでいくなんて、それこそアホじゃないか。海に投げ出された死体は小魚どもの餌になり朽ちていく、それが自然の摂理だとしてもやはり人間に海は似合わない。暫く泳いでいると海の浅いところ、陸に近い場所へたどり着くことができた。

「はー……死ぬかと思った。こんなとこまで泳ぐとか久々すぎて……サイ、ちゃんと連れてきた?」

「ぅ!」

サイがしっかりと抱いていたおかげで男の死体は崩れることも魚に食われることもなく拾ったそのままの状態だ。そっと砂浜に横たえ、髪だけ整えてやれば私たちにできることは終わりだろう。久しぶりに浴びた太陽光は容赦なくサイと私の肌を焼く。夏の終わり、太陽が鼬の最後っ屁みたいにぎらぎらと輝く真昼間は私たち深海魚には似合わない。最後にこの可哀想な男のために前ビレで十字を切り、サイを連れて再び海へと戻る。そう、確かに戻ろうとした時、地上からこんな声が聞こえた。

「さっきまで人影があったのに、どこに行ったのかしら…」

「一瞬でいなくなってしまったな…ぁ、おい!お前見ろ!」

「……! あぁ、間違いなくあの子だわ。帰ってきたのね……」

「ほとんど無傷だ……海の神様が最期に情けをかけてくれたのかもしれないな」

人間特有の都合のいい解釈に辟易する。この生き物はいつもそうだ。やれ神だとか悪魔だとか運命だとかなんだとか、自分の身に起こったことを何かと見えないもののせいにしては一喜一憂し、そういったありもしない存在に縋らないと生きていけない。ああ、バカバカしい。あの男が陸に戻ってこられたのはサイと私が運んできたからだというのに。やってられない、そう思い尾びれの動きを強めた瞬間、また声が聞こえた。

「さっき見えていたのは海の神様だろうねぇ…」

「神様、ありがとうございます。この子を陸へ返してくださって…」

ああ、本当に人間は救えない。勝手な勘違いで神様なんかにしやがって、それにこいつを連れてきたのはただの気まぐれだというのに。それでも私は、何か心が動かされるものがあるのがわかっていた。

「……ねぇサイ、人でも魚でもない生き物はどっちの神様を信じたらいいんだろうね」

「うぇ?」

「………あんたにわかるわけないか」

サイの知能はあたしと比べたら随分低い。だから難しいことはてんでわからない、それでもあたしはこの子に語りかける。

「まあ、神なんていやしないけど。それでもさ…神を信じる可哀想な奴らをあたしらは少しは救えたのかなって」

何かに縋らないと生きていけない、そんな弱い生き物である人間。そんな弱い奴らのことなんて好きになれるわけないけれど、どんな生き物でも最期だけは報われるべきじゃないか。この一件であたしの中で何かが変わりつつあった。そう、どうしようもない生き物だって救いは必要なんだ。

「サイ、また人間が海に来たらあたしらで陸へ送ろう」

「ん!」

意味なんかわかってないのにサイは頷く。とりあえず同意は取れたということにして暗くて冷たい海の底へと帰っていく。飛んで海に入る夏の虫どもが、これから何人やってくるかはわからない。その度にあたしたちは海の神様もどきになってやろう、じゃれつく小魚達を後目に私たちは住処へ戻るのであった。

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