【ブルペン】
ブルペンに目を向けた。
ホワイトベアーズのブルペンは、ダグアウトの横に併設されている。
だから、ピッチングコーチは試合中でも常に、リリーフピッチャーの仕上がり状態を直接確認する事ができる。
おれも暇さえあればブルペンで球を受けてきた。
今シーズン、おれがやった事と言えば、ブルペンでリリーバーの仕上がりを確認する事、後は代打のお呼びが掛かるまでダグアウトに陣取って選手に檄を飛ばす事くらいのものだった。
バッテリーコーチになっても、今シーズンとあまり仕事内容は変わらないかも知れないな・・・ とブルペンを見て自虐的になっている自分に再び気分が沈み込んだ。
ブルペン。
この広いグランドの片隅にある小さな空間。
あの狭い空間に漂う特別な空気。
今思うとあの空間が一番、居心地がよかったような気がする。
マウンドに向かうピッチャーの期待、緊張、気合、不安、自信、覚悟。
試合前、先発投手から漂う期待と緊張。
試合中盤、セットアッパーから溢れる気合と不安。
最終局面、クローザーから放たれる自信と覚悟。
おれはその時その時のすべてをミットで受け止めて来た。
この球場のブルペンにある二つのマウンドは、土の質、堅さ、傾斜そしてプレート、すべてをグランドのマウンドと同レベルで整備してある。
一塁側、そして三塁側もそうだった。
ピッチャーは敵も味方も万全な状態で登板して欲しい。
それが、ホワイトベアーズの・・・深町監督や佐久間コーチのこだわりだった。
15年前。
ルーキーのおれは開幕1軍を果たした。
しかしオールスター明けまでは、殆んど試合に出場しない控えのキャッチャーだった。
試合中ダグアウトの中のおれは、当時正捕手だった佐久間さんのプレーをひたすら見ていた。
小学生の頃から憧れていた佐久間さんのプレーを身近で見る事が出来るだけで満足だった。
佐久間さんに特別何かを教えてもらった事など一度もなかった。
その局面局面でどのように考え、どのように動くか。
どのタイミングでマウンドへ行き、どのタイミングでコーチに情報を伝えているか、どんな展開の時にどんなピッチャーに準備をさせるのかを夢中になって観察した。
佐久間さんもおれに伝えようとしていたのかも知れない。
時々「ここをよく見ておけ」というような無言のメッセージを感じる事はあった。
実際、あの時のメッセージが、その後のおれにとっては大きな財産となった。
開幕してひと月ほど経ったある日、佐久間さんは試合の途中におれをブルペンに連れていった。
「お前、ヒマだろ。ここであいつの球受けてやってくれんか」
あの時なぜそんな事を言ったのか、当時はまったくわからなかった。いや、実際今もわからないのかも知れない。
この時の佐久間さんの真意は言葉では説明できない。
ただ、あの時の不思議な感覚は、おれの中に鮮烈な〝何か〟を残した。
そのリリーバーが投げ込むボールに、わずかな違和感を感じた。
いつもとどこかが違う。
・・・具合が悪いのか。ケガ?・・・自信がないのか?
その時「目からウロコ」のような、新鮮なショックがおれをおそった。
それは至極、当たり前の事だった。
人間なんだから。
チームのピンチにマウンドに向かう直前、ブルペンで肩を仕上げるリリーバーの投げるボールは、練習の時に投げ込むボールとは明らかに違う、と思うことがよくある。
「今日は特にすごい」と驚く事もあれば「あれ?」と驚く事もあった。
それはピッチャーによって様々であり、またマウンドに上がるシチュエーションによって違うこともあった。
その時のピッチャーの心理状態、精神状態が手に取るようにミットの感触が教えてくれた。
それからのおれはブルペンに入り浸った。
リリーバーの球を受け、ベテランピッチャーの話を聞き、キャッチャーの心構えを考える日々を送った。
一球入魂。
ボールに魂を込める、という言葉はどんな球技でも使われているが、おれにはブルペンほどピッチャーの〝魂の構え〟が見える場所はないと思っている。
ブルペンに入り浸ったあの3ヶ月間。
そこで掴んだキャッチャーとしての『心の構え』
ピッチャーの力を最大限に引き出すリード。
それがキャッチャーに求められる、一番の仕事である事をおれは改めて肝に銘じた。
小学6年の時、テレビでノーヒットノーランの試合を見た。
おれの目にはキャッチャーの佐久間さんが、成し遂げた偉業のように映った。
佐久間さんは球速の衰えたベテランピッチャーを巧みにリードし、バッターを翻弄し、ゲームを一人で支配していた。
おれは佐久間さんのキャッチング、スローイング、インサイドワークにただただ見入っていた。
キャッチャーというポジションに、魅せられた瞬間だった。
おれのルーキーイヤーが、佐久間さんの現役最後の年だった。
おれは佐久間さんに後を託された。
後継者として必死になって佐久間さんが築いた投手王国を支えて来た。
この投手陣をリードして日本一になりたい。
これまでずっと思い描いてきた、ホワイトベアーズの日本シリーズ制覇。
南洋市民の念願、恩師の思い、そして
・・・ヒロの夢
しかし、もう選手としてそれは遂げられない。
これからはコーチとして投手陣を、そしてチームを支える。
頭の中をそう切り換えよう。
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