第17話 ありがとう

 俺はあの日に起きたことを、生涯忘れないだろうと思う。


 筋肉ダルマのような背の高い男が、一本槍に首を貫通させて、リンドウルフを肩に背負って歩いていた。長く一緒に居たからか、同じように沢山の冒険者が背負って歩いている中、俺はひと目で誰が誰なのか、分かってしまった。


 先頭を歩いている冒険者が背負う、一際大きなリンドウルフが、ジンであることも。


『今日は飲もうぜ、俺が奢ってやるよ!!』


『っしゃー!! ゴチになります、旦那!!』


『あっはっはっ!!』


 何の気無しに俺の隣を通り過ぎ、そして冒険者依頼所へと歩いていく。


 それを見た瞬間、俺はまるで足が地面に取り付けられているかのようにその場を動けなくなった。全身から冷や汗が吹き出し、暑いのか寒いのかさえも判別が付かない。目を剥いたまま、振り返る事さえできない。


 涙も出なかった。頭が真っ白になって、何も考えられなかった。


 それはあまりにも、衝撃すぎて。


『……あ……』


 ごく自然に、膝が地面についた。力が入らなくなってしまったのだ。


『だが、ラッツ。お前が人間の里に行ったら、どうか私達のことは話さないでくれ』


『別に、悪いことは言わないよ。普通だって言うだけだ』


『それでも。……頼む』




 俺のせい……?




 だって、北の森はここからかなり離れている。人里からできる限り離れることで、自分達の身を護っていた。実際、一緒に居た時はただの一度も冒険者に出会わなかった。


 居場所を特定されないように、一年の中で何回かは拠点を移動したりもした。


 襲われるはずがない。たまたま襲われるにしたって、セントラル・シティから人が行くはずがない。彼らは人を襲う事件を起こさない。


 誰かが、居場所を口にしなければ。


 そう思った時、ようやく体が動いた。


 ……ミント先生? あの人が、冒険者を動かしたのか?


 どうしてあれから、一度も学校に来なかった。もしかして……裏切られた?


 いいや、そんなはずはない。あの人がこんな事をするはずがない。


 もしかして、教師から命令されて、俺に近付いていたのか? 優しいふりをして、その裏側では俺のことを探っていた?


 そんなわけ無いだろ!! しっかりしろ、俺。ずっと勉強を教えてくれていたじゃないか……!!


 からからに乾いた喉からひゅうひゅうと、音が漏れる。崩れそうになりながら、俺は走った。


 ミント先生。


 ……ミント先生。


 玄関の扉は、開きっぱなしになっていた。


 俺は、その先にあるものを見て――……。




『…………ひっ……!!』




 立ち止まった。


 肩で息をしながら俺は、部屋の中を見回した。


 ……あれは、誰だ?


 変わり果てた姿。綺麗だと思っていた金髪は散り散りになって、油と埃にまみれていた。いつからそうしているのか、机の下で足を抱えて、うずくまっていた。


 俺の顔を見るや、その人は悲鳴を上げて、ガタガタと周りのものを蹴飛ばした。


『た、助けてください!! も、もう何もかかわらないから!! かかわらないからぁ!!』


 あれは、誰だろう。


 俺の知っている人と、違う。


 俺が一歩進むたび、ぼろぼろと涙をこぼしながら、声にならない声を出していた。


 俺に殺されると思っているのか?


 なぜ?


『……ミント、先生?』


『あっ……あうっ……』


『わかるか? ……俺だよ。……ラッツだ』


 ミント先生は、首をぶんぶんと横に振りながら、震えていた。


 その時、異臭に気付いた。


 近くでよく見ると、肌が焦げたような痕がある。それは全身に広がっていた。


 誰かに、焼かれた? 暗いからよく見えなかったけど、別人に見えているのは焼けているから……。


『もう痛いのは、いや……いやだ……』


 俺は、目を見開いた。


『……絶対に、他の人に言っちゃだめだよ。ただでさえラッツ君は、教科書が読めないって先生に怪しまれて――……』




 俺のせいだ。




『誰に何をされたんだ!? おいっ!! 先生!! ミント先生!!』


『ひいぃっ……!!』


 その時俺は、知った。


 言葉なんか使えたって、誰も仲間ではない。


『目が……見えないのか……?』


『……なにか、喋っているの? よく聞こえない……』


『なんで……なんで……? こんなこと……なんの関係もない人に……』


 悔しさに、涙があふれた。


 同じ人間でいたって、誰も協力しようとはしないし、大切にも思っていない。


 リンドウルフと人間は、違うのだと。


『なんでだ……』


 そうして俺は、意味も分からないまま、たった一つとも言える大切な家族を失った。


 どうにもできなかった。ただひとつ俺が分かることは、俺の知らない場所でミント先生が拷問を受けたらしいことと、そこで俺がリンドウルフに育てられた事がアカデミー側に伝わったという事だった。


 おそらく、アカデミーの仕業だと思う。でも、誰がやったのかは実のところ、わからない。


 アカデミーでは、生徒は護られる立場だ。生徒に関して事件が起これば、騒ぎになる。


 だから教師を狙ったのではないだろうか。


 その後も何度かミント先生の家に行ったが、廃人同然の彼女に俺がしてやれることは、パンを置いていく程度の事だった。


 もう、あの静かな笑顔を向けてはくれなかった。


 本当の意味で一人になっても、俺の知らない所で時は経つ。


 それでも俺はセントラル・シティに居続け、事件は謎のままに、アカデミーのもとで授業を受け続けた。


 唯一の理解者を失った俺に残されていたのは、『冒険者になる』という目的だけだった。


 だって、そうだろう。


 それも達成できなかったら、俺は一体どうしてこれだけの犠牲を出して冒険者なんかになろうとしているのか、理解できなかった。


 後ろを振り返ったら駄目だ。


 死にたくなる。


 それだけの事があっても、俺は教科書が読めなかった。


 当たり前だ。それまで必死で努力して駄目だったのだから、何が起こったってすぐに読めるようにはならない。


 駄目だ。どうにかして、卒業のラインだけでも越えないと。


 ギルドに入らないと。


 本屋に行っても、殆どの本は部分的にしか読めない。


『短所……長所……言い換える……コーヒー? ……えっ? コーヒー?』


 もし読み間違えをしていたとしても、俺には分からない。教えてくれる人もいない。


 まるで、暗号を解読しているような気分だった。


『あああああ!! 読めねえ!! くそぉっ……!!』


 そして――――…………。




『もう二度と、うちに関わって欲しくないと考えている』




 学長室に呼び出され、俺は面と向かって、そう告げられた。


 何名かの教師が学長の近くにいた。そこに、ミント先生の姿はなかった。


 ギルドの採用試験に落ち続けた俺は、死刑宣告を受けるかのような気持ちで、その言葉を聞いていた。


『まさかとは思ったが、どこにも採用されないとはな。そもそも、やる気がまるで感じられない』


 学長は、俺が文字を読めない事を知っていた筈だった。教師も、誰も教えてはくれなかった。


 どうやら、このアカデミーにとって文字が読めることは、『当たり前のようにできること』らしい。


『聞いたよ。君は、魔物に育てられたのだそうだね』


 その言葉は、もう前に聞いた。


 あんたが、ミント先生を使って聞き出したんじゃないのか。


 ……わからない。真実は、もはや闇の中だ。


『正直、冒険者も諦めて欲しいと思っていた。本来はギルドに採用されなかった場合、留年となるが――……我々もこれ以上、君の面倒を見るのは酷だ』


 俺は俯いたまま、どこか焦点の定まらない瞳で、地面を見つめていた。


『卒業させてあげよう。アカデミーの卒業証書をあげよう。ギルドに入れないのなら、ソロで始めてみるといい』


 このアカデミーに入学する時、アカデミーを出て冒険者を目指す利点のひとつとして、この学長は『ギルドには必ず入れる。ギルドに入る事で、魔物と戦うというリスクから自分を護ることができる』と言っていた。


 つまりは、そういう事らしい。


『今日で卒業だ、ラッツ・リ・チャード。おめでとう。君は今日から立派な冒険者だ』


 俯いたまま、俺は笑みを浮かべた。


『こんなに厄介な荷物になるとは、思わなかったよ』




 俺は、無力だ。






 ◆




「……ラッツさん!! ラッツさん、しっかりしてください!!」


 目を覚ました。すぐ耳元で、声が聞こえたからだ。


 何が起こったんだ? 辺りを見回すと、既に日は暮れていた。僅かに明かりが……焚き火をしているのか。


 うげえ。口から鉄の味がする。背中に、じんわりとした暖かさを感じた。見ると、フィーナが俺に回復魔法をかけてくれているようだった。


 俺を揺さぶっているのは……フルリュだ。


「良かった、主よ。生きていたか」


 メノアはフルリュの隣に立って安堵の笑みを浮かべたが、フィーナは何を考えているのか分からない表情だった。


 身体を起こすと、フィーナも微笑んで、魔法を止めた。


「サンキューな、フィーナ。もう大丈夫だ」


「お代は後でまとめて頂きますわね」


「金取るのかよ……」


「ふふ、冗談です。今回はサービスしてあげますわ」


 ぼんやりとした明かりの中、確認できる人影は俺以外に三つ。メノアと、フィーナと、それからフルリュ。


 俺が目を覚ましたのを確認すると、フルリュは目尻に涙を滲ませた。


「良かったです……ラッツさん」


 フルリュは俺の肩を掴むと、安堵している様子を見せた。


 両腕は羽だけなのかと思っていたが、こうしてよく見ると鳥の足のような手がある。


 俺は、気を失う前に起きた出来事を頭の中で反芻していた。


『良い人間!! 悪い人間!! 同じだろ!? 良い魔物!! 悪い魔物!! 全部、同じじゃねえか!!』


 ……そうか。俺は、また失敗したのだ。


 すぐ近くに、まだ小屋はある。だが、そこにもうフルリュの妹は居ないのだろう。ダンド・フォードギアの仲間も――……当たり前だ。


 せっかく生きている事が確認できたのに。また、それさえも分からなくなってしまった。


 なんとか立ち上がろうとしたが、まだ体が痛くて動かなかった。


「……悪い。ちょっと気を失ってたみたいだ。連中はどこに行った? すぐに向かおう」


「ラッツさん」


「フルリュ。急がないと、手遅れに――」


 フルリュが苦笑して、俺を見た。首を横に振って、俺の手を握った。


 その顔を見て、俺は気付いた。


「もう、いいんです。後は私が、なんとかしますから」


 俺は暫くの間、何も考えられず、フルリュを見ていた。


 かすかに肩が震えていた。……きっともう、妹は死んでいる。あれだけ痛め付けられていたのだ。仮に死んでいなかったとしても、きっともう長い時間は残されていない。


「な、何言ってんだよ。急ごう、時間がない」


「そんなにぼろぼろになってまで、見ず知らずの私達を助ける必要なんてないんですよ」


「駄目だ。フルリュひとりじゃ、余計にうまくいかないだろ」


「うまくいかなくても、迷惑をかけるよりいいです」


「駄目に決まってるだろうが!!」


 俺は、きりきり痛む胸を押さえて立ち上がり、叫ぶように言った。


「俺がやらなきゃ駄目なんだ……!!」


 フルリュは一人で乗り込むつもりなのだろう。俺とダンドが戦っている様を見て、あれに一人で対抗するのかと、そう思っているんだろう。


 このままでは、俺が潰れて終わるだけだと思っている。


 そして……それは多分、真実だ。


「人を襲う魔物ばかりじゃないってことを知ってる、俺が助けなきゃ駄目なんだ!! 仮にフルリュが戦っても、今度は戦争になるかもしれないだろ!! 人間の俺じゃなきゃ……俺……」


 大言壮語。思い上がり。言葉に実力がついて来ない。




 どうして俺は、こうなんだ。




 俺の変化に、フルリュが気付いた。


「ラ、ラッツさん……?」


 声が震えた。悔しくて、涙が出た。一度出始めてしまうと、涙は止まらなかった。


「……俺じゃ、だめだ……」


 悔しい。どうにもならない自分の無力さが。救えるはずのものが救えない、自分の愚かさが。




「弱くて、ごめん……」




 アカデミーを卒業するまで、卒業してからも、必死で頑張ってきた。片時も止まらずに、ただひたすらに、努力を続けてきた。


 前を向かなければ、やっていられなかった。


 だって、そうだろ? もし俺が冒険者になりたいなんて言い出さなければ、誰も死なずに済んだかもしれない。波風を立てずに済んだかもしれない。ミント先生を廃人にせずに済んだかもしれない。


 ほんの少しでもそう思ってしまったら、もう二度と立ち上がれなくなってしまいそうで。それで俺は、かき消すように明るく振る舞って、努力を続けてきた。一度も、後ろを振り返らないように。


 それが、このざまだ。


「ラッツさん、謝らないでください!! 本当に私、ラッツさんの言葉に救われて……!!」




 俺が、森を出るなんて言い出さなければ。




 ふわりと、背中から覆い被さるものがあった。視界に、紅い髪の毛が映った。


 柔らかい。その重みと暖かさは、心地良かった。


「……メノア?」


「主、フルリュ殿。まだ、諦めるのは早いぞ」


「ふえっ?」


 不意に、メノアが指さした。俺とフルリュは、揃って木の陰を見た。


 なんだ。相手がダンドだと分かってから、もう俺の所には来ないだろうと思っていたのに。


「……レオ」


 視線を送ると、どうもレオの方も、随分と気まずい様子だった。


「その……悪かった」


 何故か、レオに真正面から頭を下げられてしまった。


「な、なんだよ気持ち悪い。何を謝ってんだよ」


「フィーナにさっき、うやむやにするなって怒られてさ。アカデミーで俺、突然お前のこと避けたりして、悪かった」


 くすりと、フィーナが微笑んだ。


 そんな事を言われても、正直困る。あの時の俺は、明らかに近付いて良い存在じゃなかった。別にレオの事を恨もうとも思っていない。


 誰にも、どうにもできる状況じゃなかった。助けようとすれば逆に、俺と同じ目に遭っていただろう。


「俺、怖がってたんだ。今回だって、ダンドさんが相手だって分かって、一度は逃げ出したくなった、けど」


「……けど?」


「俺、お前に協力しようと思う」


 なんだ? レオが何かを持ってる……本、だ。この暗い中では、何の本なのかもよく分からない。まあ、明るかった所で分かる保証は全く無いんだけど。


 呆然としていると、今度は木の陰からチークが現れた。


「ハーピィをさらったのは、いにしえの魔物を呼び出すためだったのよ」


 ……何?


 チークの方は、何やらメモ書き? のようなものを持っている。


「マッシュルーム・マウンテンの山頂に、『ビッグ・ルーウォー』っていう大型の魔物が封印されているの。その封印を解くために、あいつらは企んでいたんだわ」


 チークは俺に、手にしていた紙切れを見せた。随分と古い形式の魔法陣だ。何が書いてあるのかは難しくてよく分からんけど……まさかこれを書いたのが、ダンド?


「まったく、呼び止めてるんだから立ち止まりなさいよ!! レオから事情も聞いたわよ。変な遠慮なんかして、もうしょーもないわね」


「しょーもないとか言うなよ」


「しょーもないわよ!! 私、そういうのが嫌いでアカデミー辞めたんだからね!!」


 むっ。……そうだったのか。そのあたりは、よく分からなかった。


 チークはハンマーを片手に、軽く肩を叩いた。


「これが本当なら、一大事じゃない? 元より、あんた一人でなんとかなる状況じゃないわよ」


 チークは、笑った。


「頼って?」


 ……何だか、冒険者になった事で、なのか。それは俺が知っている状況とは、随分と違って。


 なんとも言えない気分になった。


「では準備をして、明日の朝一番で集まりましょう。今日は早く宿に戻って休むべきですわ」


 フィーナが手を叩いて、軽快にそう言った。レオが怪訝な顔をして、フィーナを見た。


「……結局、フィーナも行くんだな?」


「もちろん。ラッツさんに雇って頂いている身ですから、お勤めはきちんと果たしますわ。わたくし、手は抜かない主義ですの」


 いにしえの魔物。なんだか、想像もつかないが……それが本当なら、ダンドの目的というのは本当に何なんだろう。……まあ、考えても仕方がないが。


 とにかく、このままじゃフルリュの妹は生贄にされるんだ。それを助けるなら、手は一つしかない。


「すまん。……みんな、ありがとう」

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