第16話 魔物は怖いわ。楽観視してはだめよ

『なんでそんなに頭悪いの?』


 アカデミーに入学してしばらくしてから、同じクラスの奴に言われた台詞がそれだった。


 入学するまでは、学校に押しかけて交渉して、どうにかいけた。名前を書く所までは教わっていた……が、致命的な問題があった。


 教科書が読めない。


 森でウルフ達と暮らしていた時は、本なんてものに触れる機会は殆ど無かった。ごく稀に、こういう情報伝達技術があるものだと教えられた事はあったが、そもそもウルフ達は字を書かない。文字なんてほとんど分からなかった。


 どうやらセントラル・シティで授業を受ける連中は、ある程度の学業レベルを持っているようだった。金も親が出しているみたいだったし――……俺は、入学金こそ物心ついた時から一度も使う事のなかった実の父親の残した資金でどうにかなったものの、その先は肉体労働暮らしだった。


 当然、文字を読む訓練なんてしている時間はない。


 そうこうしているうちに、時間はどんどん先へと進んでいく。


『ラッツ、お前遅れてるから実技テストな!!』


 そう言ったのは、教師ではなかった。


『……何言ってんだ?』


『よし、受けてみろよ!!』


 飛び掛かってくる俺と同じくらいの小さな子供が扱う木刀。そもそも、丸腰の俺を相手にして実技テストも何もないだろうと思う。


 俺だけがあまりにも遅れている。だからか、段々とそういう目にも遭うようになった。


 少しずつ教科書の単語が読めるようになってきたと思う頃には、もうアカデミーの生徒でいる期間は半分を過ぎていた。


 勉強は進まない。


 笑いものにされる。


 殴られる。


 でも、勉強は進まない。


 また、笑いものにされる。


 また、殴られる。


 魔法の実験台になった事も一度や二度ではなかった。


『おーい、ラッツー!! 【ブルーカーテン】!!』


 火は危険だ。だから毎回、俺はずぶ濡れになった。


『ラッツ、大丈夫か?』


 その時はまだ、レオ・ホーンドルフは友達だった。たまに俺の所に来て、様子を心配したり、仕掛け人に抗議してくれる。


『ありがとう、大丈夫だよ』


『ったく……ひでえ事すんのな。教わった魔法をこんな風に使うなんてよ』


『はは、ありがとな。でもまあ、俺のせいでもあるみたいだからさ』


『そんな事ねえよ!!』


 チーク・ノロップスターは、その頃にアカデミーを去った。


『学校って、つまんない』


 やがて俺は、考えるようになった。


 ……どうしてこんなにも、スタートラインが違うんだろうか?


 彼らは本当の父親と母親がいて、本当の父親と母親がいる家に帰り、温かい飯を食べ、柔らかいベッドで眠り、良い教えを沢山受けている。


 俺は本当の父親と母親はどこに行ったのか分からなくて、ごく一部の生徒が使う小さな寮に入り、飯は食べられない事も多くて、硬い床で寝て、肉体労働のバイトで一日が過ぎていく。


 この差は、一体なんだろうか?


 この差は、どこでついたものだ?


 そもそも、何か前提の努力みたいなものが足りなかったとか?


 誰も教えてくれない。


 そもそも、ほとんどの人間が俺と会話をしようとしていないのだ。


 同じ言葉は使えるのに。


 ……いや。多分まだ、俺の努力が足りていないんだろう。授業に追い付く事ができれば、何か変われそうな気がする。


 冒険者になって、本当の父親を探しに行くのだ。そのために俺は、この場所で冒険者になりに来たのだ。


 小麦粉か片栗粉か、何の粉だかよく分からないものがまぶされた自席を掃除しながら、俺はそう思っていた。


 冒険者にならなければ、ジンが俺にかけてくれた言葉に、示しがつかない。




『大丈夫?』




 ふとある日、俺に声を掛けてくる大人がいた。


 眼鏡をかけた女性で、金髪を肩までですっきりまとめていた。服装は――……確かその時は、魔法使い系だったと思う。よく覚えていない。


 ずっと俺達のクラスを総合的に担当していて、その日まで何も言って来なかった。見て見ぬフリをしていたと言ってもいい。


 そんな教師が、ふと俺に声をかけてきたのだ。


『掃除、手伝うわ』


『……別に、いいよ』


『どうして、こんな事をされているの?』


『さあ。俺が聞きたいくらいだ』


『……ごめんなさい。ずっと、気付いていたのだけれど』


 そう言われた時、俺は思った。


 この人も、何かを考えていたんだろうか。


 この状況はやっぱり、普通ではないのだろうか。俺には判別がつかないが……どうして今頃、話しかけようと思ったんだろう。


 だって、そうだろう。その時まで無風だったのだ。知らなかったなら分かる。でも毎日この部屋に来て、毎日クラスの連中と顔を合わせていたのだ。


『今更じゃないか?』


『そうね。ごめんなさい』


『いや、謝ってほしい訳じゃなくて。どうして、今なんだ?』


 俺が問いかけると、その女性は頼りない笑顔で、こう言った。


『私、新任だったから、初めてのクラスで。……怖くて、手が出せなかったの。でも、それじゃいけないと思って』


 その言葉を聞いて、俺は優しい人なんだろうな、と思った。


 彼女は学校内でも目立たなかった。授業は別の先生が担当する事もあった。


 それでも、勇気を出して俺に声をかけようとした。それは、どんな心境だったのだろう。


 ただひとつ言えることは、そんな彼女の勇気を見て、俺は少し警戒を解いたということだった。


 その女性は優しかったが、どうにも頼りなかった。名をミントと名乗った。結婚する予定だからとファミリーネームは教えてくれず、生徒からも愛称で呼ばれていて、まったく威厳はなかった。


 その日から、毎度残って掃除や勉強をする俺に、ミント先生が関わるようになった。


『ラッツ君は、どの街から来たの?』


『……俺は、街とかじゃなくて。森に住んでた』


『森? お父さんとお母さんは?』


『……』


 それは、ジンと言わない約束をした。


 ミント先生は俺が口をつぐむといつも、困ったように微笑んだ。


『言いたくないことは、言わなくてもいいんだよ』


 授業の後に教えてくれるようにはなったが、相変わらず授業中に俺が何をされていても、ミント先生は困った様子でおどおどするばかりだった。


 とにかく彼女は平和主義で、教師が怒っているのを見る時でさえも怯えていた。


 繊細な人だった。


『せめて授業のお手伝いだけでも、やらせてください』


『……別に、俺は生徒なんだし、そこまで腰を低くしなくても』


 そのせいか、俺もいつしか、彼女を信頼するようになった。


 ある日のことだ。その日もミント先生の講義を受け、俺は魔物の生息地について聞いていた。


『北の方には、狼の魔物が住んでいる生息地があるわ。彼らは群れで行動していて人を襲うから、注意してね』


『……』


 それはきっと、ジンのことだろう。


 明らかに間違った授業を教えていた。その気持ちの悪さに、どうしても耐えられなかった。


『特に、火の魔法に強いとされていて――……』


『なんでこのアカデミーでは、全部の魔物が危険だって教えてるんだ?』


 ミント先生の手が止まった。


 この日までずっと、この授業では魔物の生息地と危険な性質について教えていた。どの魔物もすべて、人間にとっては凶悪で、凶暴なものだと教えていた。


 でも、違うのに。


『実際に会ったことないんだろ? それで、そんな事を言ってるんだ』


 他に人がいれば、思い留まっていたかもしれない。


 でも、ここにはミント先生と俺の二人しかいない。ミント先生なら、俺の事を分かってくれるのかもしれない。


 俺は心のどこかで、そう思っていた。


『会ったことって、言われても……ラッツ君だって、無いでしょう? 私もないけど、ちゃんと教科書にはこう書いてあって……』


『……いや……それは……』


 ミント先生は、苦笑して言った。


『冒険者として生きるなら、魔物は怖いわ。楽観視しては、だめよ』


 そういう意味じゃない。そうじゃないのに。


 もどかしい気持ちが、全身を駆け巡った。


 ここに来て、よく分かった。人間は、他の生き物の事を誤解している。まるですべてが敵のような考え方をしているけど、他の生き物だって、普通に生活しているだけなんだ。


 ジン達リンドウルフは、明らかに人里を避けて通っていた。出て行けば殺されると分かっているから、姿を見せなかった。


 でも、それでいいんだろうか。


 これから先、未来永劫、人間以外の魔物は人間の前に出られない日々が続くんだろうか。


『だが、ラッツ。お前が人間の里に行ったら、どうか私達のことは話さないでくれ』


 その時、俺は――――…………。




『会ったこと、ある』




 突然、俺がそんな事を言ったからだろう。ミント先生は、明らかに戸惑っていた。


『……うん、分かったわ。それなら、危険じゃない個体も居るのかもしれないわね』


『個体じゃない。一緒に暮らしてたんだ』


『……何の話?』


『俺は、北の森から出てきたんだ。リンドウルフの群れと暮らしていたんだ』


 ひゅう、とミント先生の喉から音が鳴った。明らかに、青ざめた顔をしていた。


 一方で、そこまで言ったら俺は止まれなかった。


『俺は森で、リンドウルフの群れと暮らしてた。冒険者になるために、山を降りてきたんだ。全然悪い奴らじゃないんだ。だって俺はずっと、そこで生活していたんだから』


 ミント先生は呆気にとられた様子で、俺を見ていた。


『北の方だよ、会えば分かるさ!! だから、嘘を教えるのはやめよう!!』


 しばらく、ミント先生は俺の方を見ていた。


 やがてその視線は、自身の手元に落ちた。しばらくの間、目線は右に左に泳いでいた。


 そして俺の方に歩いて来て、座っている俺と、目線の高さを会わせた。


『それ、本当?』


 きっと、分かってくれるはずだと思っていた。


 ミント先生の手は震えていた。


『……絶対に、他の人に言っちゃだめだよ。ただでさえラッツ君は、教科書が読めないって先生に怪しまれて――……』


 言いよどんだ。それは言ってはいけない事だったのだろうか。


 明らかに何かを隠しながら、ミント先生は言った。


『とにかく、絶対に言わないようにして』


 後になって考えるとその日の出来事は、思い留まるべきだったと思う。


 でもそれは、結果が起こった後だから言えるんだ。もし同じ出来事がもう一度起こったとして、俺は結果を知らなかったら、きっと同じように行動していた。


 その日からだ。ミント先生の顔を、あまり見なくなった。


 ある日、色んな子供の親が来ていて、学長だかなんだか、偉い人達がこぞって授業に参加していた。魔法の実技練習で、男性教師が生徒に説明をしていた。


『はーい、じゃあペアになって、一人が魔法を撃って、一人がそれをガードする練習をしようなー』


 クラスの連中が、俺をからかった。


『おいラッツ、お前親もいねえのかよ』


『……いねえけど、それがどうしたよ』


『だから頭悪いんじゃねえの?』


 いつまでも、やられたままじゃない。俺だって、教科書が読めないハンデはあっても成長している。


 相変わらず、ギリギリ教師に注意されない範囲で、たまに石なんかが飛んでくる。


 ……俺も、攻撃してやろうか。


 そう思った時、唐突に男性教師が、悪びれもせずに言った。




『ラッツは魔物に育てられたから、親はいないそうだぞ』




 瞬間、俺の時間は止まった。


 思わず、ミント先生を探した――……近くに居る様子はない。


 辺りは騒ぎに包まれた。その場にいたレオでさえ驚いて、俺から後退る位だった。


 俺は絶句して、その場に固まった。男性教師は、言うべき事を言ったという感じで、俺と目も合わせずに淡々としていた。


 明らかに、誰かに言わされたようなセリフだった。まるで、予定調和のような。


『ラッツ、お前、魔物の子供なのか?』


 つい先程まで俺をいじっていた男が、少し焦りまで見せて、そう言った。


 なんで?


 だって俺は、ミント先生にしか、そのことを話していないのに。


 その日から、クラスの連中の態度が変わった。


 からかいから、敵意へ。俺に対する拒絶反応は、その日を境にエスカレートした。魔法による攻撃をあまり受けなくなった代わりに、椅子を窓から捨てられたり、ゴーグルを隠されたりと、陰湿なやり方に変わっていった。


 机の上にゴミ箱が逆さまに立っていた事もあった。


『おい、さすがにやりすぎ……』


『レオも魔物なのか?』


『……』


 レオ・ホーンドルフは、その日から俺と話すことをやめた。


『……なんだよ』


『いいえ』


 フィーナ・コフールは、たまに遠くから俺のことを見ていたと思う。


 どうしてだろう。俺がここにいると、どんどん状況が悪化していく。俺に好意的にかかわろうとした人から、順番に居なくなっていく。


 その日からミント先生は、学校の教員リストから正式に除名された。


 代理の教師が俺達の担当になった。


 ミント先生が個別で教えてくれなくなって、俺の冒険者としてのスキルはさらに遅れていった。


 教科書はまだ、ろくに読めない。そもそも字が読めないのに、辞書なんか引いたって何も分からない。誰も教えてはくれなかった。


 教師でさえ、まともに俺に授業を受けさせる気はないようだった。


 ミント先生。


 一体、何があったのか。どうしてリンドウルフの事を、他の誰かに話したのか。


 ……俺のせいか?


『私、新任だったから、初めてのクラスで。……怖くて、手が出せなかったの。でも、それじゃいけないと思って』


 教員室に忍び込んで、ミント先生の所在を探した。教師の緊急連絡先に、ミント先生の住所が残っているのを発見した。


 俺はもう、居ても立ってもいられなかった。すぐに、会いに行かないと。


 まずは、事情を聞かないといけない。


 ……そうして、肉体労働をして金を稼ぎ、その足でミント先生の自宅へと向かおうとした夕暮れ時、俺はすれ違った。




『ははは!! リンドウルフを二十頭狩っただけで、一千万セルだとはな!!』




 思わず、立ち止まった。


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