息してない才能

 すずりの体温が拓を温めると、ようやく震えが止まった。

 すずりが拓の涙をペロリと舐め、口付けをした。拓はすずりに覆いかぶさると、小さく柔らかい身体を抱きしめた。そのまま自身を暖かく湿った場所に埋め、ゆっくりと動いた。


「まったく、俺は何を見せられてるんだろうね」


 部屋の入り口に寄り掛かって、ベッドの上で佐田は拓とすずりが固く抱き合い、ゆっくりと動いているところを眺めた。かすかにすずりの抑えた声がする。


「叫んだり泣いたりヤッたり忙しいやつらだ」


 佐田は部屋から出て、二人きりにしてやった。喉が乾いたので、冷蔵庫を開けて中を覗いてみた。沢山の食材が整然と詰め込まれ、使われる順番を待っていた。キムコの匂いがする。扉側には牛乳パックと缶ビールが冷やされていた。サッポロ黒ラベルだ。佐田は少し迷って、牛乳パックを手に取った。流し台から綺麗に洗われ、ピカピカに磨かれた大振りなコップを持ってくると、何も置いていないテーブルの上に置き、牛乳を注いだ。嘘みたいに真っ白な液体がコップの中を満たした。これ程までの純白な存在が地球上に存在する事が奇跡のように思える。陽のあたるテーブルの上で注がれた牛乳は淡い影を落とし、まるで何かを示唆するオブジェのように見えた。


「なかなかいいね。今はちょっとおセンチな気分なんだ」


 佐田はここ数日間、酷使してじんじんと痛む自分自身を感じながら、椅子に座って牛乳を半分飲んだ。冷たくて美味い。牛乳を飲むなんていつぶりか、佐田には思い出せなかった。人生はおかしなものだ。すごく仲のいい友達が隣の部屋で女とセックスをしていて、俺はその素性の知らない女の家で、全裸で牛乳を飲んでいる。そろそろ潮時かもな、と佐田は思った。


 結構な金も稼いだ。

 ケチなコンビニのバイトを辞めて、親の白バンを勝手に拝借し、飯島から借りてダビングをしたアダルトビデオを元手に移動式DVD販売をやった。インターネットでの客とのやり取りは楽しかったし、それが金になるともっと楽しかった。親は困ってるかも知れない。内装の仕事をするのに白バンは必須だ。親父は怒ってるかもな。でも仕方がない。こういう不出来な息子を持った事が不幸というものだ。人を騙したり、殴ったりしないだけで充分に思ってほしい。


 そもそも、俺の人生とは。

 佐田は隣の部屋から聞こえるすずりの喘ぎ声を聞きながら考えた。25歳にもなって定職に就かず、内装屋の跡を継ぐ気にもならず、夢を追っている気にだけなって生活をしてきた。その結果が今だ。漫画が描きたかった。俺だけにしか描けない作品を生み出して、どこかの漫画雑誌で細々と連載させてもらい、いつか夢にまでみた単行本を出し、数は少ないが、俺の絵と話が好きなファンを大事にして生計を立てていきたかった。今となっては、大それた夢のように思える。


 何度か雑誌の賞に応募して、精励賞だとか、努力賞だとか、そういう小さなものは頂戴できた。二度、自分の絵と名前が小さく誌面の片隅に載ったところで、出版社の担当だって付いた。ネームを出し、ボツ。ネタを出し、ボツ。俺が良いと思うものには、だいたい全てにおいて駄目出しをする無能な奴だった。結局、電話とメールのやり取りだけで、それもいつの間にか立ち消えてしまった。顔さえ見た事がない。


 俺には才能がある。


 はずだった。


 やがて、家に金を入れる為に始めたコンビニのバイトがメインになってしまった。漫画を描く時間が圧倒的に減った。ああいうのは何はともあれ、机に噛り付いてでも描き続けなければ腕はどんどん鈍っていくし、それに反して構想はバンバン膨らんでいくから、鍛錬を怠り衰えていく技術と妄想の間に大きな乖離が生じてしまう。そうなるともう駄目だ。雑巾みたいに疲れた自分の身体を、廃棄の菓子パンで誤魔化し、気絶するように眠るしかない。そして次の日が、次の次の日がやってくる。シフトが入ってる日。漫画が描けない日。アダルトビデオでシコる日。廃棄が多かった日。雨の日。次の日。もうたくさんだった。


 帰って、また自分の生活を立て直そう。

 よく考えてみたら、妙なヤクザに絡まれて合法に合法を重ねたという健康漢方薬の販売にすら手を染めてしまった。しっかりモザイクが掛かっていない正真正銘、言い逃れのできない裏DVDも流通させてしまっている。いつか必ず、こういう生活には綻びが生じて、取り返しのつかないところまで人を追いやってしまうものなのだ。勉強の為に観た映画ではだいたいそうだった。麻薬を扱った主人公は、やがて上空のヘリコプターの音さえ自分を追跡する組織のものだと思い込み、脂汗を滲ませながら車で逃走するのだ。あの映画は迫力があった。美人も連れて、クスリも金もたっぷりと抱えているのに、あいつらは全然幸せそうに見えなかった。いつも刺激を求めて、結果何かに追われて、最後はどうなったんだったかな。車のキーを回したら爆発したんだっけ? それとも当局に捕まって、終身刑になったのかな? ──どっちの方がまだマシ、という悲しい選択でしかないのだけれど。


 そうだ、俺は幸せになろう、と佐田は思った。

 誰にも迷惑を掛けず、穏やかに毎日を暮らすのだ。

 どうして俺は今まで、幸せになろうと考えた事がなかったのだろう?


 今から俺は、幸せになる事を宣言する。

 そう思うと、佐田は居てもたってもいられなくなった。今すぐ、隣でのんびりと幸せそうなセックスをしている二人の隣に立って、


「拓! すずりさん! 俺、今から幸せになります!」


 と大声で宣誓したいくらいの昂りが生じた。


「あらそう、じゃあ咥えてあげんね」


 とか言って、すずりさんがパクッとおフェラでもしてくれるかも知れない。駄目だ駄目だ、そういう下衆な事を考えるから俺は幸せになれんのだ。


 俺は今から、すぐにでも幸せになる。その為には、新たな場所へ行かなければならない。そうしたら、明日から新しい日が訪れる。正真正銘の、手付かずの一日が。始まりの日が。











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