三度目
「もしもし、拓?」
2コール目で姉・優子が受話器を取った。少し声が堅い。家族からしたら、拓は今日旅行を終えて帰宅する予定だったのだ。それがいつまで経っても帰ってこないのだから、気が立つのは当然だった。もっとも拓としては、二泊三日で帰るつもりは毛頭無かった。もっと佐田とDVDを売り歩いて、お金を儲けて帰りたいと思っていた。そうすれば、9年間もの間引き篭もっていた自分の空白を埋める事が出来るのではないか。
「うん」
拓が頷いた。
「今日帰ってくる約束だったわよね」
「うん」
沈黙。
「もう夜の11時よ。みんな待ってる」
「ごめん」
沈黙。
「お姉ちゃん……あたしは、拓に『約束は守りなさい』って言ったわよね。そうしないと、みんな迷惑するって」
「ごめん」
「迷惑って言うんじゃないのよ、そうじゃないの」
優子が取り繕った。
「迷惑は掛けていい。迷惑だなんて思ってない。でも、でもね、約束は守らないと駄目なのよ」
「 ──拓? 拓?」
母が電話を交代した。
「うん」
「元気なの? 事故にあった訳じゃないのね?」
「元気。事故には合ってない」
「良かった。もう、本当に心配したわよ」
「ごめん」
「今日は帰って来ないのね?」
「うん。ちょっと色々とあって」
拓は殴られた傷を自分の指で撫でた。
「いつ帰ってくるの?」
明日、と言い掛けて、拓は言い直した。
「しばらく帰らない」
「どうして?」
しばらく絶句した後、母が聞いた。
「どうしてそういう事を言うの?」
「拓、拓」
今度は父親だった。
「お前、どうしたんだよ急に。旅行へ行くって言って、帰ってこない。母さんも優子も心配してるぞ。そろそろ帰ってこい、家出を許した覚えは父さん、ないぞ」
気軽さを装ったいつもの父親の言い方だった。
「しばらく帰らない」
「どうしたんだ急に。一緒に行ったあれ、佐田君が拓を捕まえてるのか、あいつがお前に帰るなって言ってるのか」
「違う、そうじゃない」
拓は声を荒らげた。拓としては珍しい事だった。
「じゃあ一体、どうしたって言うんだよ。父さんにだけ、そっと教えてくれよ」
「何かやり残してるような気がする」
拓が少し考えて言った。
「今、すごく楽しい。いろんな事があって、変な目にあって、時々怖いけど、何だかちゃんと生きてるような気がする。上手く言えない、上手く言えないんだけど」
再び沈黙が訪れた。拓は何枚か小銭を電話機に投入した。受話器の向こうで鼻を啜る音がする。母だろうか、多分母だ。
「分かった。じゃあ、ちゃんとやる事やって帰ってこい」
ちょっと! あなた!、と言うような声が外野の声が聞こえた。受話器を奪おうとするガチャガチャという音もする。
「父さんはな、父さんはな。拓がずっと引き篭もった時、父さん達の呼びかけに応えなくなった時、お前の事を可哀想だって思ってたんだ。何度も何度も、お前に何も起こらなくて、元気で楽しく生活してる様子を思い浮かべたよ。それを奪った事件をすごく恨んだし、何もしてやれない父さんも情けなくて、何度も泣いたんだ。もしちゃんとお前が九年間、父さん達と生活をしていたら、もっと沢山の事を教えてやれたし、一緒に怒ったり、笑ったりしてただろう。でもそれは出来なかった。それはもう、取り返しがつかない事なんだ。取り返しがつかない事だからと言って、また泣いたり後悔をしていたら、いつまでも何も変わりはしない。だから父さんはお前の事を、もう、可哀想だなんて思わない。ちゃんと生きてるんだお前は。だから偉い。何かやり残してるんだったら、ちゃんとやって帰ってこい」
「うん」
「ダメになった時も帰ってこい。お金が無くなったら言え。毎日家には電話をしてこい。変なお風呂屋さんに行くな。ちゃんと飯を食え、それと」
「拓、拓」
姉が受話器を奪ったようだった。
「父さんはああ言ってるけど、姉さんは怒ってるからね! 心配掛けて! ちゃんと毎日電話しなさいよ! あと佐田出しなさい、佐田! あの野郎!」
「佐田さんはちょっと取り込み中」
「取り込み中? あんたらボンクラ連中に『取り込み中』なんて言葉が使えるなんて衝撃だわよ! いいから佐田に一言言わせろ」
「また明日、電話する。父さんに、心配しないでって言って」
「拓! 待ちなさ」
拓はガチャン、と受話器を置いた。小銭がかしゃかしゃ音を立てて数枚戻ってきた。隣では腕を組んだすずりが何とも言えない顔をして立っていた。
「他人の家庭事情なんて聞くもんじゃないね。何だか同情しちゃったわよ」
「同情?」
拓はすずりの顔を不思議そうに見た。
「そ。あんたと、あんたの家族にね。本当、碌でもない事ばっかりこの先起こるだろうから、覚悟しておいた方がいいよ」
拓は静かに頷いた。
「じゃ、戻ろっか」
何とかしないとな、とすずりは思った。
それから、何であたしが、と思い直して、少し笑った。
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