語らい

 車が再び順調にエンジン音を上げて出発した。既に夜になっていた。


「発作だったのか、大丈夫か?」


 佐田が心配そうに聞いた。出発した時のテンションは既に失われていた。拓は頷いた。一月に一度か二度、発作のようにパニックを起こし、その場から一歩も動けない時があった。それはアルバイト中にも一度だけやってきて、一人バックヤードで耐えた事があった。その時も佐田が側にいて、じっとしてろと言ってくれたのだった。


 拓は手元の桜あんぱんが入っていたと思われる紙袋をじっと見た。


「女の人が助けてくれた」


「美人だったか? 可愛かったか?」


「分からない」


「もしかして、黒いニット着てなかった? ジーンズとシルバーのパンプス。背が小さくて可愛い子とすれ違ったんだよお前を見つける前に。なんか柄の悪そうな男と一緒に歩いてた。声がアニメっぽいあの子かな」


「声は変わってた」


「じゃあその子で確定だな! ちきしょう、羨ましいぜあんな可愛い子に介抱されてよう。たくさんあんぱん抱えてたし確定だな。今度お会いした時には必ずや御礼を申し上げなければならんな」


 佐田のテンションは上がり、拓は興味なさそうに車窓から景色を眺めた。暗い車内と、均一に聞こえる道路の繋ぎ目の音は親密に拓と寄り添った。ラジオは消えている。


「てゆうかさ、そのパニックみたいなやつ? 治療とか出来ないのかね」


 真剣な声で佐田が言った。


「色々不便だろ、そういう『突然』みたいなやつは。数日前に予約されてりゃ話は別だけどよ」


「直前になったら分かる。耳がキーンってする」


「直前じゃしょうがないべ」


「しょうがない」


 拓が同意した。


「俺はそういうのなった事ないから分からんのだけど、どんな気分なん?」


「冷や汗が出て吐きそうになる。息も苦しい」


「貧血みたいなもんかな」


「分からない、貧血にはなった事がない」


「いや、そのパニック症状が既に貧血を含んでる感がすごいんだがね」


 佐田が少し笑いながら言った。


「なんか法則ないの? パニック発動の法則」


「法則……」


 拓が考えた。


「何かの匂いを嗅いだら、とかさ、ミニスカートの女が近寄ってきたら、とかさ、そういう発動条件みたいなやつだよ。あったらカッコイイじゃん」


「人混み?」


 そういえばここ数回の発作は人が大勢いる場所で起こっているような気がした。アルバイト中も、珍しく客が混んでいた時だった。人が歩く音がやけに耳につき、それがどんどんと拡大していって、やがてアレが始まるのだ。


「ほーん」


 鼻をほじりながら佐田が聞いた。ありきたり過ぎてつまらなかったのだろう。


「人混みに何かトラウマでもあんのかね」


「トラウマ……?」


「トラウマ。何かこう、昔、嫌な目にあった事のキッカケみたいなもんだ。女の子に振られた喫茶店には嫌な思い出が染み付くだろ? そういうのを『あの店はトラウマがあるから入れない』とかなんとか、そういう風に言うんだ」


「なるほど」


 拓は真剣に人混みについて考えた。


「とは言え、人混みが苦手なやつなんかゴマンといる。人混みが好きな奴なんて、スリか痴漢ぐらいなもんだろうよ。あんま気にする事はねえよ。ある意味普通なんだから。っていうかさ、何で9年も引き篭もってたの?」


 佐田はずっと気になってた事をどさくさに紛れて聞いてみた。


「分からない、あんまり覚えてない」


 すっかりしょげた声で拓が答えた。


「まあま、いいさ。俺かて拓が引き篭もってた理由を知ったからと言って、どうと変わる訳じゃない。突然お前に敬語を使うでもないし、優しくしたりするでもない。どっちでもいいんさ、そんな事。でもよ、どうも俺の直感によると、お前の発作はその『覚えてない』きっかけが原因なんじゃないかって思うんだよな。映画やドラマでも良くあるやつ」


「映画やドラマは分からない」


「だろうな」


 佐田がギアを上げて前方の車を追い越すと、また走行車線に戻った。


「まあ何にせよさ、自分が自分に興味を持たねえと、誰もお前に興味を持たねえよって事が言いたいのさ。自分の心の動き、考え方の癖、好きな体位、そういうのは生まれ育った環境と習慣によって規定される。どいつもこいつも自分自身に無頓着だ。自分の事は自分が一番分かってると思ってやがる。全然違う。その齟齬がトラブルを引き起こすんだ。正確に、自分で自分を知り尽くす事を怠らないようにする事が、他人と上手くやるコツだ。分かるか?」


「よく分からない」


「お前はバカだからな」

 ダハハと佐田が笑った。


「佐田さんのトラウマはなんですか?」

 拓が話題を変えた。


「カマドウマ」


 佐田が即答した。


「知ってるか? カマドウマ」


「昆虫」


「そう。とびきり気持ちが悪い奴だ。風呂掃除しようとしてさ、風呂掃除用のサンダルに足を突っ込んだんだ。そうしたら奴が中でお休みしていた」


「え」


「ブチュウっつって、丸々と太ったカマドウマをうわああーーーー!!!」

 佐田が突然大声で叫び出した。


「ぬわぁああああー!!!!」

 全身全霊の叫びだった。


「拓、お前も叫べ。トラウマを克服するのは大声で叫ぶしかない。俺と一緒にやってくれ」


「うわあああーーーーー!!!!!」

「うあああーーーーーーー!!!!!!」


 拓も叫んだ。


「いいぞ拓! もっと、もっとだうわあああーーーー!!!!」

「ああああーーーーー!!!!!!」


 しばらくして、二人はハアハアと息を切らして落ち着いた。


「昆虫如きでこれだからよ、拓、お前のトラウマと対峙する時はよっぽど注意しておいた方がいいぜ」


「警察に電話した方がいいですか?」


「警察はやめておけ」


 佐田がアドバイスした。


「ろくな事にならん」


「叫ぶの、ちょっと楽しかったです」


「そいつは何より」


 佐田は車のドアの脇にあるポケットから冊子を引っ張り出して、拓に投げ渡した。ずっしりと重い。「福島」と書いてあるのが辛うじて読めた。


「そろそろ目的地に到着だ。ナビを頼むよ、拓隊長」


 車は高速から降りる線にウィンカーを点灯させた。



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