どこへ
佐田に旅へ出ようと誘われた時、拓の心は揺さぶられた。
旅はした事がなかったが、専門の雑誌を棚に並べる際に見たことがあった。それは行った事がない場所を訪れる、という体験であるようだったし、結果的に見たことがない景色を目に映すという事になりそうだった。
拓は既にコンビニの夜勤も週に数回入る程のコンビニ戦士ぶりを発揮していて、佐田とコンビを組む事も多かった。その間にずいぶんと「人生」について佐田から学んだような気がしたし、何しろ佐田と一緒にいると飽きなかったから、拓は佐田が好きだった。
一方で、周囲の佐田に対する評価は辛辣で、曰く「面白いけど、うざったい」「裏で人の悪口ばかり言っている」「レジの金を抜いてるんじゃないか」というようなものだった。拓は自分が好意を持つ人間が悪く言われる事に慣れていなかったから、そのような話を聞くたびに悲しい気持ちになったが、「違う、佐田さんはそんな人じゃない」「佐田さんはそんな事はしない」というような反論をする事はなかった。黙って、最近ずいぶんと身についた自然な笑顔でレジをしたり、スナック類を調理したりするだけである。
「どこへ行くんですか?」
「全国。だが、まずは福島」
佐田はニヤリと悪い笑みを見せた。
「少年、俺には夢がある。金を稼ぐ事だ。そしてこの糞みたいな社会と糞みたいな人をとことん利用して、面白おかしく生きていく事だ。誰にも俺を利用させない。誰にも俺自身に触れさせない。俺が、社会と人を利用してやるんだ。その為には金がいる。そして一人では限界がある」
拓は虚ろな顔をして佐田をみた。
「拓は良い奴だ。この糞みたいな世界で、お前だけは見所がある。ピュアなんだよ、心根が。他の誰よりも。地球上のどこの水よりも。だから心配なんだ、お前のことが。お前みたいな奴は、とことん良いように使い古されて、結局壊されっちまうんだ。俺には分かる。いや、俺にしか分からないんだ。だから俺と一緒に来い。絶対、悪いようにはしないから」
来客の音がして、朝の眩しい光が微かに動いた。夜勤明けの目に沁みる。
「旅に出るんだよ、少年。そして強い男になって帰ってくるんだ」
◆
拓はボケーっとした顔で夕食を食べた。
◆
父と母は、あの「リビングルームでAV流す事件」の後、真剣に話合った。拓がアダルトビデオを外界から家庭に持ち込んだ事は、家族が何かしら未知のウィルスに感染したかのような錯覚を覚えさせた。復活した美しい家族の円の淵を断ち切る不吉な凶器。特に母・小野寺由紀の拒否反応が著しかった。
「拓はあんなものに触れるべきじゃない」
と、父・小野寺
「どうしてこんな事になってしまったの」
母の声は湿っていた。
父・紀夫は電気を消した暗い虚空を睨みながら言った。
「とは言え、社会に出るとそういうのは避けられない」
「そうなの?」
母は短大を出てすぐに父と結婚したので、全く理解が及ばなかった。
「そうだよ。君は分からないだろうけど、働く女性はみんな通勤電車で痴漢に悩まされているし、セクハラに晒されてうんざりしてるんだ。世の男はさ、なんて言うかこう、イライラしてるんだよ。思い通りにいかないのが、何というか、そういう事だから」
「良く分からないわ。普通に生活すればいいじゃない。何でそういう事をするの」
母・小野寺由紀が小さく呟いた。妻には分からないだろうな、と思った。
ある種の人間にとっては、学校を出て就職をし、女とセックスをして結婚をし、子をもうけ、歳をとっていくという普通の生活を送る事が困難であり、時には、そういう生活を難なくこなしている人間の事を激しく憎むことさえあるという事を。
妻は分からなくていい事だ、と紀夫は思った。そういう汚れのない、ある種健全な精神に惹かれたのだった。健全に過ぎなければ良いのだが、と少し祈った。
「拓を信じよう」
父・紀夫は言った。
「あいつの事を見守るんだ。あれをしちゃいけない、これをしちゃいけない、で縛るには、俺たちはもう歳を取りすぎたと思わないか?」
由紀は黙り込んでいた。
「俺たちも歳をとったけど、拓だってもう19歳だ。本人が一番、いろんな事にびっくりしてるだろうよ。でも俺は信じてる。余程の事がない限り、あいつは悪いことはしないだろうって。だって、俺たちの間の子供だから」
紀夫はすごく良いことを言ったと、自分自身に感動さえしてしまいそうになったが、やがて聞こえてきたのは由紀の寝息だった。
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