ほころび


「少年、働いておるのか」


 拓がせっせとルーチンワークにせいを出していると、背後から声を掛けられた。佐田俊之25歳、拓とコンビニでアルバイトする際、ほぼ毎回タッグを組むフリーターだ。


 拓は佐田の出身も、いかなる遍歴をもってこの東京都のはずれにあるファミリーマートでアルバイトをしているかを知らない。バックヤードで雑談のノリで本人から大学を中退した、という事は聞いた事があるが、大学を中退するといった事柄がどのような数と種類の決断が求められるのか、拓には想像ができなかった。そしてすぐにその事を忘れてしまった。


 佐田は拓がよく引き起こす客とのトラブルを収めてくれたり、何も知らない拓に対して物事を「こうだ」と明確にしてくれた。例えばいつも手渡すレシートをひったくるようにして去る中年男性を接客した後、何となく嫌な気分になった拓に対して


「威張る人間がコンビニで働くやつしかおらんから、ああやって自分の存在感をアピールしたがるんだ。気にすんな」


 と肩を叩いてくれたりした。

 はたまた、キャバクラで働いているという常連M嬢が拓の体を触りながらあれこれと詮索してきた時には、他人からの接触に戸惑いあうあうとしか言葉が出てこない拓に代わって


「はっはっは、こいつは海外から帰ってきたばっかりで日本語があんまり話せないんですよ。僕とも話す時はカタログ語30フランス語20日本語50くらいのアレで話してるんで。それより●さんとディズニー行ったらしいじゃないですかあいつ車とパチンコ以外何の話をするんですか?」


 などと話題を逸らしてくれた。

 ある時は、返品するグラビア雑誌を拓と一緒に観賞し、どの子が好みか、というような、中学・高校生あたりがするような男子がしがちな話をした。


「どう思う」


 指し示したグラビア写真は健康的に日焼けをした女性が海辺で両膝をつき、長い黒髪に手を当ててこちらを向いて微笑んでいた。胸は大きく、水着は極小に極小の黒いビキニだった。


「すごく綺麗です」


 チッチッ、と佐田が舌を鳴らした。


「それは違うな小野寺くん。こういう女性は『かわいい』というのが正解なんだ。みろ、こっちの女に比べると顔が丸くて目が大きいだろ。それでいてこの我儘バディはどうよ。綺麗というのは『かわいい』を含んだ表現ではあるが、もっと表現を細やかにしなければならん。自分の内にある好みというものを注意深く知らなければならんのだ。こと女に関してはな!」


 クワッと佐田が注意した。ビニール袋や収入印紙の数え忘れをした時と同じくらいの、結構な圧だ。しかしやや冗談ぽくしているから、やはり雑談なのだろう。


 ふうむ、と拓はグラビアを見比べた。どちらも綺麗ではあるが、たしかに一方はややふくよかで、はち切れんばかりの肉体を披露しており、もう片方はややスレンダーで、憂いを帯びたような笑顔をこちらに向けていた。


「小野寺くんはどっちが好きなんだ」


 拓は二人を見比べて「うーん」と唸った。どちらも綺麗に見えて、とっさにこっちが好き、という感情を持つことが出来なかった。一切の現実感を伴わない架空上の国を指し示され、「どっちに住みたい?」と聞かれているようなものだった。知らん、どっちでも良い。しかし、雰囲気的にどちらかを選ばないといけないような気が拓はした。


「こっちです」


 拓は以前見たAVの女優が胸が大きかった事を思い出し、「かわいい」という感情を持つ方が正解と指摘された方のグラビアを指さした。チクリと胸のどこかが痛んだ。


「おーおーおー、ふむふむ。9年引き篭もった童貞ちゃんとしては好みが意外とまっとうだな」


 満足気に佐田が腕を組んで頷いた。見ろよこのでけえおっぱい、からの腰。よく逮捕されねえよな、司法はどうなってんだマジで。


「好みって人によって違うんですか」


 拓は話を逸らそうと聞いてみた。


「違うな」


 佐田が即答した。


「百人男がいたら百通りの好みとツボってのがある」


 何故か偉そうに、やや重々しく佐田が言った。


「何故ですか?」


「何故ってお前……」


 佐田は笑いながら少し考えた。


「みんな同じ女が好きになったら取り合いで大変だからだろう」


「取り合い」


「そう。男は好みの女を自分のものにしようとする本能があんだ。それに従ってだな、どうにか生きて日々コンビニでバイトをしたり、家でしこしこしたりする訳だよ。勉強したり出世するのも大体『おっぱいがデカい女とファックする為』みたいなもんだ。偉そうな政治家も、そこら辺で寝てる住所地球のおじさんもその点においては何ら変わらん。つまり、おっぱいは凄いちゅうこったな」


「なるほど」


 改めてグラビアを眺めてみると、確かに世界中の男たちがコンビニの店員に嫌な態度をとったり、店のトイレをわざと流さなかったり、エロ本のコーナーでいつまでも立ち読みをする理由が少し分かるような気がした。


「なるほど……」


「そんな深刻な顔をするんじゃないよ。たかが女だしかもグラビアで全てを悟ろうとするんじゃない」


 ガハハと佐田が笑った。


 その佐田には、レジから金銭を抜いているという噂があった。佐田は店長から事情を聞かれ、力一杯無実を主張してきた後だった──時間を少し元に戻す。


「少年、働いておるのか」


 拓がせっせとルーチンワークにせいを出していると、背後から声を掛けられた。佐田はシフトの定刻から十分ほど遅れて出勤してきたのだった。それは珍しい事だった。


「今日も労働してます。佐田さん遅いですよ」


「すまんすまん」


 佐田はノロノロと作業に取り掛かったが、その日は一日中妙な具合だった。


 例えば窓を拭いている時に。

「少年、そんなに根を詰めて働いて、どうするんだ」


 例えば飲み物を補充している時に。

「使われっぱなしの人生。我々が働いて得た利益の99%が、我々以外の上の人間の給料になっているという事実について、少年はどう思う」


 例えば、バックヤードで休憩している時に。

「生きるっていう事はつまりだよ、少年。自分の意志を実現させる事なんだよ。動かなければ人生は変わらない。逆に言えば、動けば人生っていうのは必ず変わるんだ。作用すれば結果がある。反作用だ。壁を押すとどうなる? 壁は動かない。だた自分に力が押し返ってくる。学校で習っただろう? あ、学校行ってないか」


「ねぇ佐田さん」


 拓がさすがに物申した。


「一体どうしたっていうんですか。今日変ですよ」


「一緒に俺と来い、少年」


 佐田が拓の目を真っ直ぐに見ながら言った。


「男はいつか、旅に出なければならない。今までにない景色をその目に映させてやる」
















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