拓のいないところで
「弟、いたんだ」
優子が伊藤祐介と定期的に肉体関係をもつようになって、もう一年程になる。優子はシティホテルのベッドの中で、年上の上司であるその男と裸でいた。何故、こんな男を好きになってしまったのだろう。優子はいつも事が終わった後に後悔する事になる。会社でこの男にパワハラ同然に厳しく指導され、精神が壊れる寸前に優しくされると、もうイチコロだった。打って変わって落ち着きと余裕のある振る舞い、手際の良い仕事ぶり、静かな低い声と丁寧なセックス。
「そう。19歳の弟」
優子は話題に出した事を後悔した。セックスが終わり、後ろから抱きしめられたまま微睡む時、ふと居間で再生されたアダルトビデオのことが思い浮かんだのだ。あんな嬌声を発するセックスなどあるのだろうか。実は、隣で気怠げにしている祐介も、そうしたものを望んでいるのだろうか。あの時、あの夜、何か大切な事を拓に言うべきだったような気がしたが、不倫をしている自分にはその資格など無いのだと、どこか心の底で思っていたような気がする。
「君は一人っ子だと思ってた」
「ここのラウンジで飲める紅茶はすごくすごく美味しいらしいのよ。ルームサービスでとってくれる?」
優子が話題を変えようとした。
「弟さんのことについて教えてくれたらね」
祐介は優子の細い肩に口を付けて穏やかに言った。
「じゃあ要らない」
優子は布団の中に潜り込んだ。
「何だよそれ」
二人は布団の中でじゃれ合った。祐介が優子の耳を甘噛みすると、特にくすぐったがった。ついでに乳房にも手を伸ばす。さっき終わったばかりなのに、祐介は既にまた固くなってしまっている。優子は試しにいつもより大きな声で反応してみる。もっと激しく求められる。
「こういうのはね、みんなそれぞれが隠れて見たり、その、する事なのよ」
どこかで冷静な声がする。自分の声だ。自分の言葉だ。しばらくして、優子はいつもより大きく達する。本当の声は言葉にならず、か細く消えていく。
◆
「弟は、引き篭もりだったの」
「たまにテレビで見るけど、最近多いらしいな。きっと詰め込み教育の弊害だろう。遊びにも行かせず、塾だ習い事だ、じゃ大人だって頭が変になっちまう」
じゃあ、あなたの子供たちにはどういう教育してるのさ、と言う疑問を優子は黙って飲み込んだ。祐介もいちいち自分の子供の話などはしない。
「社会に出てきて良かったじゃん。若いんだから、何とでもなるだろう。今19だろ? 全然余裕だよ。何年くらい引き篭もってたの?」
「9年」
祐介がしばらく優子の髪を撫でながら沈黙した。
「ちょっと想像が出来ない。9年間も部屋から出てこなかったの?」
◆
拓が右手の親指をしゃぶり、母と手を繋いで帰ってきた日の事を今でも優子は覚えている。優子は弟の事が大好きだったのだ。「おかえり!」と廊下に出て二人を迎えた時、玄関からは白い光が二人を影のように包んでいたし、手を繋いでいた二人は完璧な家族に見えた。警察から引き取られてきた弟は、明るく活発だったいつもの弟ではなくなっていた。目つきがトロンとし、ずっと空中に浮遊する何かを眺めているかのように一点を凝視していた。おしゃぶりなど、数年前に終わったはずだった。
「ばっちいから、親指をしゃぶるのやめなさい」
優子は拓に対してお姉さんぶるのが好きだった。しかし拓はいつものようにふざけもせず、えへへと誤魔化しもせず、そのまますれ違って、母に連れられてリビングに連れていかれてしまった。優子は玄関のドアが閉まり、暗く冷たくなった廊下で二人の背中を見送った。
拓はそれからずっと部屋で眠り続けた。
食事やトイレに行く時以外、拓が起きる事はなかった。食事は一階のリビングでとり、食べ終わるとまた部屋に戻って眠った。両親からの問いかけに対する反応や、テレビに興味を示すことは一切なかった。一点を凝視しながら黙々と口と手を動かすだけで、その食事の様は異様だった。両親は食べるだけの拓を前にして、受けたショックが何かしらの作用を拓に及ぼしたのだろうと考えた。
優子が学校から帰ると、大きな体をした大人が二階から降りてきて、深刻な顔をして母と小さな声で話をするところを見るようになった。優子はその時中学生になりたてだったから、大体の事は分かっていたが、母がその大人を玄関で見送り、一人で声をあげずに泣いている姿を見て、もう少し自分は子供のままでいる振りをし続けていた方がいいのではないかと思った。あたしは何もわからないし、何も知らないままでいるのだ。
「お母さん、元気だして」
◆
「9年間、引き篭もってたのか!」
コンビニのバックヤードで、佐田が素っ頓狂な声をあげた。
「へぇ、その間何してたんだ」
「何もしてなかった」
「ふうん、大体俺と同じじゃないか」
「佐田さんはちゃんと生きていたでしょう?」
「バカ言ってんじゃないよ死んでたも同然だよ。適当に生きてるフリをしてただけだっつの。大体な、どいつもこいつも実は死んでるも同然なんだ。そこに意識はあっても意志というものが無い。拓みたいにさ、いっそ9年間引き篭もってる方がまだ人としての深みが出るんじゃねーか」
拓は佐田という人物をより好ましく思った。
「意識はあっても意志というものが無い……これ、カッコいいな」
佐田が一人で笑いながら言った。
「今度オーナーに言ってやろうかな」
二人は作業に戻った。
大体、お互いのペースは掴みかけていた。
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