エーブイデビュー

「小野寺くんへ


 シフトを交代してくれてありがとう!」


 とチラシの裏にデカデカと書かれ、無造作に貼られたツクモ電機の紙袋がバックヤードの汚いテーブルの上に置いてあったのは、拓がだいぶ仕事に慣れてからの事だった。拓はそれを手にとって真剣に眺めた。他人から何かの礼を貰うというのは嬉しく、こそばゆい気持ちになった。


「それな、飯島からお前にって置いてったぞ」


 佐田がギシギシとうるさい事務用の椅子に腰掛け、漫画雑誌を読みながら言った。


「中身、何ですか」


「知らんよ」


 佐田は漫画に戻った。


 拓が中身を確認すると、紙袋の中に、さらにファミリーマートのビニール袋に包まれた黒いVHSテープが二本入っていた。背表紙のテープには何も貼られていない。


「これ、何?」


 佐田が煙草を吸いながらチラっと拓が手にしているVHSテープを見ると、ブフッと煙を吐いた。


「あいつ……面白すぎ」


 拓が訝しげにテープを見ていると、佐田が教えてくれた。


「エロビデオ。あいつ相当なAVマニアなんだ」


「エロビデオ?」


 拓がキョトンとしていると、佐田がニヤニヤしていた顔を徐々に真顔へ戻していった。


「おい、エロビデオ観たことないのか?」


「ない」


 そもそもエロビデオとは何か、という所から拓は始めなければならなかった。拓には女性に欲情する、という気持ちも分からなかったし、ノートにいたずら書きをされたドラえもんの股間に描かれた暴君も見た事が無かった。性にはとことん無縁だった。他人にも、そして拓自身にも。


「マジかよ……じゃあそれがAVデビューって事か」


「エーブイデビュー、という事になりますね」


 ふふ、と佐田が笑った。


「感想聞かせてくれよ、AV初体験の気持ちなんか俺はすっかり忘れちまったからよ。そんで、良かったら次回してくれよな」


 コクリ、と拓は頷いた。


 ◆


 アルバイトがいつも通りに終わり、拓は夕食を家で食べた。父と母、姉優子がテーブルにつき、姉は食事をしながら今日の出来事を喋り、父は新聞を読みながらビールを飲んで赤ら顔だった。母はミカンを食べたり、おつまみを作ったりと、いつもの家庭の団欒といったところだった。拓は茶を啜り、そういえば今日、AVを貰ったのだ、という事を思い出した。


「母さん、うちでビデオって観れる?」


 拓が聞いた。


「ビデオ?」


「観れるわよそのテレビの下にデッキあるでしょ」


 姉・優子が箸をそっちに指した。


「優子、行儀悪い」


 母が軽くたしなめ、また家族の団欒に戻った。まったく転職して、次は会社の近くに住みたいわ。家賃2万円まで補助が出るんだって。あらあなた、一人暮らしが出来るのかしら? 誰かと結婚した方が早いんじゃないのか。お父さん、うざい。


 拓はガサガサとビニール袋からVHSビデオを取り出すと、ビデオデッキの中にテープを差し込んだ。テレビを「ビデオ入力」に切り替える。


「あ……ハウッ……」


 ザリザリの画質で、眉をハの字にした女性の顔が大写しになった。


「大洪水じゃないか奥さん……いけないね」


 筋肉質の男がネットリした口調でそう言い、露わになった胸を鷲掴みにした。


「ヒウッ」


 背ける女性の顔に、粗野な顔つきをした男が無理矢理口付けをする。


「いやぁ!」


 ……


 父、母、姉は異変に気付き、無言になってテレビと、その前で画面に釘付けになっている拓の後ろ姿を眺めた。


「あっ あっ」


 嬌声がリビングに響く。


「すっご〜い」


「拓?」


 最初に小さな声を掛けたのは姉・優子だった。拓は画面に目を奪われて気付かない。母は顔を手で覆ってテーブルに俯いており、父はビールが入ったコップを口に付けたまま微動だにしない。


「たーくー?」


「(嬌声)」


「拓!」


 はっとした顔をして拓が振り返った。姉が怒っている。


「それ止めなさい!」


 拓は慌ててテレビを消した。突然、白々しい沈黙がリビングを覆った。


「拓、それはどこから持ってきたの」


 優子が極めて中立的な立場で尋ねた。母は顔を真っ赤にして俯いたままだし、父はバツが悪そうに居ずまいを正した。


「飯島さんが、シフトを代わってくれた御礼にくれたんだ」


「ちょっとこっちに座りなさい」


 拓がテレビの前から自分のテーブルの席に戻ろうと立ち上がった。


「テープも持ってきなさい」


 ◆


 急遽、家族会議が開かれた。

 テーブルの上にはビデオテープが二本、オブジェのように置いてある。拓はどことなく悪い事をしたような自覚があるらしく、小さく縮こまっている。アルバイトを通じて、誰が、何を思っているのかが徐々に分かりかけてきていた。


「これは、みんなの前で観てはいけません」


 姉・優子が宣告するように重々しく言った。


「分かりましたか?」


「分かった。でも、どうして?」


 優子は言葉に詰まった。両親に目をやりたいが、何となく目を合わせ辛い。


「拓も男の子だ。そういう、な、そういうのに興味があっても、全然、全然おかしくない年頃だ。父さんは、分かるぞ」


 うんうん、と父が頷いた。在りし日の元気な自分を思い出していたのかも知れない。しかし、拓の問いに対する答えにはなっていなかった。拓は曖昧に頷いた。


「お母さんが恥ずかしいから、みんなの前で見て欲しくないの」


 顔を真っ赤にした母がキッパリと言い切って、また手で顔を覆った。


「こういうのはね、みんなそれぞれが隠れて見たり、その、する事なのよ」


 優子が言いにくそうにゆっくりと言った。出来るだけ拓には嘘や建前を言わずにおきたかったが、こと性について語る場合、想像以上に口にする言葉が硬く、それを分解すればするほど建前や嘘っぽい意味になっていくような気がした。


「分かった」


 拓はまだ納得はしていなかったが、父と母の様子がおかしいので話しを長引かせない事にした。あまり雰囲気は妙にならない方が良い。疑問に思った事はそうだ、佐田さんに聞いてみよう、と拓は思った。


「一人で見たり、する事にする」


 何をするのかは拓には分からなかったが、とりあえずおうむ返しをする事にした。姉は「処理や後片付けはしっかりするのよ。形跡が残っていたら、絶対いやだからね」とさらに言い難そうに言った。母は洗い物に立ち、父は腕組みをして考え事をするように黙り込んでいた。









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