社会

 拓は覚えが良かった。品出しのやり方、レジの打ち方、掃除の重点箇所も一度教えただけで忘れる事はなかった。


「なかなか筋が良い」


 佐田は満足気に言った。


「良いか少年。コンビニの仕事が出来れば他のことは大抵、何だってできるから。どこの職場へ行っても大丈夫だ。対応出来る。例えば事務職、営業、飲食、地球開発業、水商売、あらゆる職業、何でもだ。逆にいうと、コンビニのバイトが出来ない奴は何をやっても駄目。わかるか?」


「はい」


「いーや、分かってないね少年」


 拓はドキリとした。

 分かってない、と他人に否定される事が素直に胸に響いたし、また同時に「何が分かっていないのだろう」という気持ちと、「分かってもっと上手に何かをやり遂げたい」という気持ちが湧き出た。


「今、窓を拭いたな」


「拭きました」


「外に、何が見える」


「え?」


「外に、何がみえる」


 佐田は重々しく言った。

 窓の外にはゴミ箱から散ったコンビニのビニール袋が落ちていた。


「ビニール袋が落ちています」


「そうだろう」


「はい」


 そこで重々しい沈黙が舞い降りた。


「少年、我々が窓を拭いているのは何故だ」


「仕事だから?」


「違う!」


 クワッと佐田が大きな声を発した。拓はビクッと身体を強張らせた。


「店を綺麗にする為だ。そして少年、店の外には何が見える?」


「ゴミが落ちています!」


「そうだ! じゃあ、やるべき事は分かるな?」


「はい! 拾ってきます!」


 拓は自動ドアが開くのももどかしく外へ出ると、ビニール袋を拾い正しくゴミ箱の中に突っ込んだ。大きなコンビニの窓越しに佐田が腕を組んで鷹揚に頷き、拓は佐田という男が何と器が大きく、仕事というものごとを理解しているのだろうと感動に近い尊敬の念を抱いた。


 佐田は店の中から窓越しに尊敬の眼差しを送ってくる拓と目を合わせて、チョロいな、やはり俺の目に狂いはなかったと内心ほくそ笑んだ。これは使える。


 ◆


「どうだ、心が洗われるようだろう」


 ゴシゴシと便器をブラシで擦る拓の後ろから佐田が声を掛けた。


「トイレが綺麗になっています」


「甘い、甘いんだよなぁ」


「よく分かりません」


 拓が正直に言った。

 トイレ掃除は人生で初だが、あまりやりたく無い仕事だ。


「良いか、人間は何をしなければ死んでしまう?」


「えっと、えっと」


 水を流し、周囲を雑巾で拭きながら拓は考えた。


「心臓を動かさなければ死んでしまいます」


「そう、そうだ。心臓が動かなければ人は死ぬ。小野寺くんは正しい。間違ってない、全然間違ってないよ」


「ありがとうございます」

 拓が礼を言った。


「じゃあ心臓を動かすために、人は何をしなければならないと思う?」


「え」


 拓は考えたが、特に思い付かなかった。心臓は自立して動いているし、止めようとして止められる訳でも、動かそうとして動く訳でも無い。もしそんな風だったら、眠る時にうっかり心臓が止まってしまうではないか。


「分かりません」


 はぁ、と深いため息をわざとらしくついて、


「小野寺くん、こっちを向きなさい」


 と佐田が重々しく言った。しゃがんで床を拭いていた拓は立ち上がり、佐田と向き合った。


「人は食わなければ死んでしまう。人は食う為に働いているし、何かを食ったら必然としてうんこやしっこが出る。小野寺くんもうんこはするだろう」


「します」


「うん。その行き着く先がこのトイレだ。人は食べ物に感謝しなきゃあいけない。感謝して美味しくいただいた後は、その行き先にも感謝をするっていうのが人として当然の事じゃないのかい。人はすぐに感謝を忘れてしまうから、食べ物の終着駅つまり、つまりトイレを綺麗にするっていうのは、己の存在があまりにも小さいという事をずっと忘れずに、思い知るって事なんだよ。生きているんじゃない、生かされてるって事を感謝しながら、トイレは綺麗にしなきゃいけないんだ」


「はっ」


 拓は感動した。

 食べる、という事は日々意識もせずにやっていた事だが、こと排泄についてそこまで思いを巡らせた事が一度もなかったからだ。


「どうだ、ありがたい事だろう?」


「なんか、感謝したくなってきました」


「うんうん。じゃあ、トイレ掃除の当番は、拓くんにやらせてあげるから。これから毎回出勤したら、必ず掃除をするようにね」


「分かりました」


「うん」


 拓はトイレに再び向き合うと、いっそう清掃に邁進した。世の中は深い。こうした経験を積む事で、世界が広がりを見せていくのだ。


 とことんちょろい、と佐田は満足げに頷いた。


 ◆


「いただきます」


 拓が両手のひらを合わせて言った。

 姉と母はドキリとした顔をして拓を見た。拓は普通に箸を持つと、青椒肉絲を取り、ご飯の上に載せて大きく一口食べた。


「いただき……ます」


 姉・優子も何となくおずおずと手を合わせ、味噌汁に口を付けた。じゃがいもと玉ねぎの味噌汁はこの小野寺家では定番の品目だ。


「アルバイトの方は、どうだったの?」


 母が拓に聞いた。


「すごく疲れた」


 あれからレジ打ち、品物の発注、商品の返品のやり方など、ありとあらゆる事を詰め込まれて、拓の脳みそは破裂しそうなくらいパンパンになった。しかし、何か新しい事を覚えていくというのはそれ以上に刺激になったし、上手くやると佐田に褒められるのが嬉しかった。時々クワッと大きな声を出すのが怖かったが、だいたいその後「いいこと」を言うので、いちいちその度に自分が人間として少し深みを帯びていくような気がして、楽しかった。


「いじめられなかった? 変なお客さんはいなかった?」


 姉が何とは無しに聞いた。本当は弟が初アルバイトというのを聞いていて、仕事が手に付かないくらい心配だったのだ。


「お客さん?」


「ものを買いに来た人よ」


 モグモグと口を動かしながら姉が基本的な事を教えた。拓は少し考えて、いなかったと答えた。他に仕事を覚える方が大変で、あまりレジは打たなかったのだ。


「なら良かったけど」


「そんなにしょっちゅう変なお客さんなんか来ないわよ。大阪のコンビニじゃないんだから。優子は気にしすぎなのよ」


「大阪って、お母さん行ったことあるの?」


 優子が驚いて聞いた。


「前にね、NHKのドキュメンタリーでやってたわ。大変そうだったわ〜酔っ払いが無銭飲食したり、子供が万引きしたりして、もうしっちゃかめっちゃか。全員大阪弁だし。コンビニの店員さんって、大変なのよねぇ」


 ふうん、と優子がつまらなさそうに言った。NHKの情報が母に誤った視点をもたらす事は良くあった。今回もその一例に過ぎないのだろう。


「ごちそうさまでした」


 拓が食べ終わって、再び手を合わせて言った。

 今までに無い事だったから、姉と母はまたどきりとした顔でその様子を見た。


「お粗末、さま、でした?」


「お母さん、しどろもどろ」


 拓は席を立った。

 俺は生きているのではなく、ありとあらゆるものに生かされている、と拓は思った。風呂に入り歯を磨き、布団に潜り込む時、何は無くとも心臓は決して止まらず、また明日はやってくるのだと思いながら拓は目を閉じた。眠りはすぐに拓を捉え、心地よい重力は地球の中心線を超えてブラジル、成層圏、月、やがて遥か宇宙の先にまで拓を誘った。












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