国語

 拓は生活を立て直すことにした。

 部屋を片付け、筋トレと散歩をし、小学校の頃の教科書と向き合い、毎日朝起き、夜眠る。拓はインターネットを通じて様々な知識に触れてはいたが、系統だてて何かを学んだ事はなかったから、教科書のようにひとつの継続性のある学習は新鮮だった。算数、社会、道徳。ノートに書き写すような事はせず、1ページずつじっくりと読み込むだけでも、まるで空っぽな砂漠に洪水のような知識の氾濫が自分の内で起こっているのが感じられた。拓は砂漠の真ん中に立ち、なぜ空が青いのかを知ったし、水は何から出来ているのかを知った。膝を曲げ、砂を掬い取ってその歴史を知った。拓には集中すると、時々そういう事が起こった。違う世界へその身を沈め、やがて戻ってくると世界の見え方が違っている。そういう時、自分は、自分自身とは何なのだろうと拓は思った。さっきまでの俺はもうここにはいない。だがそう思っているのも自分自身だ。


 拓は特に国語の教科書に興味を惹かれた。

 落ち武者が老人に助けられ、傷が回復した後、ひたすら老人の手伝いで畑を耕やす間に自分自身の人生を振り返る、というような内容だった。最初に読んだ時には全く意味が分からなかったが、何度か読み返すと不思議な感覚が拓を捉えた。落ち武者は人を殺した事についてひどい自責の念に駆られていたが、土を耕やす事で身体を使い、汗を流し、大地に人間は敵わないという無力感をスタート地点にして自らを見直すという視点は、不思議と腹の奥に残る感覚があった。最初は何を言っているのか分からなかったが、いつの間にか、国語の教科書はほかのどの教科書よりも汚くなった。小学校から中学校、さらに姉が置いていった高校で使う国語の教科書も。


 歯の治療と並行して、雨の日も風の日も拓は小一時間ほど散歩に費やした。酸素を吸い、ゆったりと筋肉を動かしていると身体が熱をもち始めるのが分かった。やがて汗がシャツを湿らし、耳が風で冷たくなり、鼻は住宅街の匂いを鋭敏に感じとり、脳が様々な思考をもたらした。


 稀に思い出したくない事が止めどなくフラッシュバックし、拓はその痛みを堪える為に目を閉じ、文字通りじっと立ち止まらなければならなかった。思い出は胸に仕舞われている、と拓は思い知った。心臓が鼓動する度に、胸の奥から大きな拳が喉を通り、口を上下に割いて突出するような痛みを味わう事になった。道で立ち竦み、脂汗が滲ませ、呼吸が荒い拓を訝しげにジロジロと眺めて通り過ぎていく者がほとんどだったが、何名かは「大丈夫ですか?」と親切に声を掛けてくれるものもいた。その度に拓は「大丈夫です」「すぐに収まります」と言わなくてはならなかった。


 ◆

 ZapZap


 はい、ここでリスナーの耕し侍さんからのお手紙が届いています。おはようございます耕し侍さん。起きてますか? 爽やかな朝ですよ。今、目の前に大変な朝日が見えております。皆さんにお見せしたい。この感動的な景色をね、ババーンとこう、どうだと見せてやりたい程なんですけれど、この中年おじさんにそんな言葉はございませんから「爽やかな朝」で済ませちゃう訳なんですよね。爽やかな朝。いやぁ、楽だ! 日本語、最高! ──こんなラジオを聴いてくれてありがとう。リスナーが寝惚けている間じゃないと、とても聴けるようなラジオじゃないんだぜ。ありがてぇな、ありがてぇなホント。眠気最高。読み上げますね。


 毎週楽しみに聴いています。ありがとう。


 僕は19歳で、学校には通っていません。高校を卒業したのではなくて、小学校、中学校と通っていないのです。多分嫌なことがあって、ずっと家に篭っていました。でも何だか外に出たくなって、部屋から出ました。まるで時間が止まっていたみたいに、僕だけ子供のまま、身体だけ大きくなってしまったみたいに感じます。家族はとても優しいです。色々と気を掛けてくれています。


 ここ最近、勉強する事がとても楽しいです。僕は部屋に引き篭もっている間、ほとんど勉強もせず、ずっとインターネットをしているか眠っているかだったのですが、その間の出来事は、まるで欠落してしまったかのように自分の中に何も残していません。時間は間断なく続いている筈です。現代において、いわゆるコールドスリープという技術は未だ確立されていないですし、よしんば、よしんば!、あったとしても、僕の部屋に白衣を着たおじさん達がドヤドヤとやってきて「よし、こいつをコールドスリープで眠らせよう」などという訳もないのです。だから僕は確かにこの継続した地球時間を生きていた筈なのに、どう思い出そうとしても、生きていた思い出がないのです。


 最近、生活を立て直そうとしているのですが、時々、何か暗い思い出の影が蘇ってきて、息も出来なくなります。本当に本当に、純粋に息ができなくなるのです。しばらくすると治ります。一度病院にも行って、健康診断をしてもらったのですが、身体的に異常はないそうです。血管も内蔵も全部ピンピンしているそうです。だから、この息が出来なくなる症状は身体的な要因に拠るものではないのだと思います。


 これから先も、こうした痛みのようなものに囚われて生きていくのかと思うと、とても不安です。DJさんにもこうした事はあるのでしょうか? DJさんだけじゃなくて、世の大人になった人たちにも、こういう事はあるのでしょうか? だとしたら、みんなどうやって乗り越えているのでしょう? もし良かったら教えていただけると嬉しいです。


 耕し侍さん、メールありがとう。この素晴らしい朝に相応しい、素敵なメールだったよ。だからこの朝から酔っ払ってるおじさんDJから言える事は一言、たった一言だけだ。よく聞いてくれよな。




 




 俺は、君のことが好きだよ。貴重なリスナーだからっていうだけじゃなくってね。また、メール待ってるよ。







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