立て直す

「働きたい」


 拓がそう口を開いたのは夕食の場だった。どさくさに紛れて二日目の有給休暇を消化した姉・優子は肉じゃがを食べながらそれを聞き、父は瓶ビールをコップに注ぎながらそれを聞き、母はひじきを食べながらその言葉を聞いた。


「働くって言ったってお前」


 父はビールにちびりと口を付けると、もぐもぐと口を動かし、考え事をしようとして二秒で諦め、


「なぁ?」


 と姉優子に聞いた。


 優子はモグモグと咀嚼をして拓の顔を眺めた。それなりの決意がうかがえる。今日、拓はコンビニへ行って身の潔白を晴らし、歯医者へ行った。相当な体力を消耗したらしく、帰るなり眠って、晩御飯に起きてきたのだ。父はもう嘱託だから、夜の7時には帰ってきている。早期リタイア組の父は毎日のルーティンを滅多に変えない。


「働くって言ったって、どこで働くのよ」


 優子が優しく聞いた。


「だって体力だって、勉強だって、言ったら社会の一般常識だって拓には足りないのよ。足りないだらけよ」


「勉強はした」


「インターネットで勉強したつもりになってる人は大勢いるのよ」


 優子が傷付けないように柔らかく言った。拓は治療した歯をかばうように右側の歯だけでよく煮えたジャガイモを噛んだ。特に反論をする事もなさそうだった。拓は感情をあまり見せない。無駄な事も言わない。小さい頃は表情豊かで、姉に甘える事が大好きだったが、今はそうではない。


 母が会話に横入りした。

「何かをしたいっていい事だわ。優子は煙草を吸うから何でもかんでも難癖をつけたがるのよ。やりたい事はやれば良いし、やりたくない事はやらなくて良いの。お母さんが心配なのはね」


 煙草の事を突かれた優子が何か言いたそうにしているのを制して、母が続けた。


「何かを焦って『働かなきゃいけない』って思うんだったら、それはしなくて良いって事なの。あなたが、拓は人様に迷惑を掛けなければ何をしてもいいけど、『何かをしなきゃいけない』っていうのはだいたい思い込みなのよ。母さんたちは拓が部屋から出て来てくれただけで嬉しいんだし、人生は先が長いんだから」


「拓、どうなの?」


 優子が拓に聞いた。

 拓は「?」という顔をして優子の顔を見た。だめだ、分かっていない。


「どうして働きたいって思ったの?」


「お金が欲しい」


「ねえ拓」


 母が真剣な顔をして言った。


「お金は大切よ、とっても大切。稼ぎたいっていう気持ちが拓に芽生えて嬉しい。これは本当の事よ。でも、でもね、拓は色んな事をやってないでしょう? 例えば、例えばだけど、中学も高校も行ってないじゃない。一日も行けなかったじゃない。もちろん行きたくなければ、行かなくていいのよ。死ぬ思いをしてまで行くところじゃないから。行けなかったら、行けなかったで良いの」


 いつもおちゃらけている珍しい母の真剣なトーンに、家族が耳を傾けた。


「でもね、そういうやり残した事って、後からツケが回ってくるのよ。毎日歯磨きしなかったら虫歯になるでしょう。その虫歯は、治療をしない限り一生拓の事を傷つける。今日、治療へ行ったわね? とても痛かったでしょう? ──痛いものなのよ。時間も掛かるし、口をこじ開けられて嫌な思いをたくさんする。それは歯磨きをしなかった日のツケをまとめて支払ってるって事なのよ。人生も同じ。やるべき事をやらないと、大切な時に虫歯があなたを傷つけるの。歯医者では治せない痛みがずっと付きまとうかも知れない。だから、だからね、お母さんとしては、拓にはまず勉強をして、高校を卒業したっていう資格を取って、それからお金を稼ぐっていう意識をもって欲しいと思うのよ」


「拓」


 珍しく真面目なトーンで話をした母の後を埋めるように父が重々しく継いだ。


「お小遣いが欲しいなら、やるぞ。なんぼや。なんぼ欲しいんや」


「お父さん、静かに」


 姉が辛そうに進言した。


「お姉ちゃんも……あたしも、拓が働くっていう気持ちを持つのはすごく良い事だと思う。えらい。働くって、辛いけど楽しいときもあるのよ。頑張って」


「優子」


 母が困った顔をした。


「でも」


 姉が続けた。


「あたしも、勉強や社会一般の常識は大切だと思う。だから約束して」


 拓はゆっくり優子と目を合わせて頷いた。


「部屋をしっかりと片付けること。毎日1時間、何か勉強をすること。規則正しい生活を保つこと。たった三つ。そうしたら、働いてもいい。出来る?」


 拓はしばらく優子の目を覗き込んでいたが、やがてゆっくりと頷いた。優子が拓とこんなに長い間目を合わせたのは久しぶりだった。優子は、拓が本当に外の世界へ出たいという意思を持っているように見えた。あれ程長い間引き篭もっていた弟に、一体どのような内的変化があったのか、何もかもをかなぐり捨てて質問ぜめにしたい気持ちが芽生えた。だがそれをするにはまだ早過ぎる。優子にはまだ、その資格が自分にあるとも思えなかった。


「で、どこか働きたいところはあるの?」


「コンビニ」


 家族が静まり返った。


コンビニ」


「拓、まずは体力つけよ」


 姉がアドバイスをした。


「毎日、筋トレも追加ね」












  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る