家族と食事

 9年ぶりの家族と囲む食卓はぎこちないものだった。

 誰も拓が何故部屋から出てきたのかを知らない。引き篭りをやめたキッカケについて、拓に聞いていいのかどうかも分からない。その根底には、会話の中で何か間違ったボタンを押してしまったら、拓が再び部屋に篭るのではないか、という不確かで薄暗い可能性がある。


 そして拓自身も、なぜ自分が部屋から出ようと思ったのかが分からなかった。ある朝、突然外に出ようと思ったに過ぎない。あまりに自分自身の心の痛み、そこから派生する焦燥や不安、世界や生命の根源に触れるような疑問を持ち過ぎたせいで、頭がおかしくなったのかも知れなかった。情報はダイヤルアップのインターネットにいくらでもあった。きっと、いつまでもこのままなのだろうな、と拓は思っていた。だがそうではなかったし、「そうではなかった」理由については自分の中でも説明は付かなかったから、当然他人に説明が出来る事でもなく、正直なところ説明をする必要性さえも感じていなかった。


 拓は、家族が自分に気を使っているという点について、全くの無頓着だった。腫れ物を触るような扱いをされ、姉がそれを嗜める。そうした繰り返しの中で、自分が家族の中で異質なものである、と認識されていることは分かったが、だからといって居心地が悪くなるという事もなかった。拓はただ、自分がしたい事をするだけだ。可能であればなるべく、誰にも迷惑を掛けずに。何かが拓を突き動かしていた。胸の奥の方から、大きな振動を伴って連れてくる強震をとめどなく拓は感じていた。しかし今は腹が減っている。


「痛ッ」


 拓が二つ目の鳥の唐揚げを噛んだところで声をあげた。歯が抜け、血が出ていた。


「あーあーもう、拓は歯医者へ行かなきゃダメだな」


 父がビールを飲んだ赤ら顔で言った。


「なにせ、たまにしか磨いてなかっただろう。虫歯相当痛かったんじゃないのか?」


 拓のそばで布巾やティッシュで手当てをしていた母がハッとした顔をした。今まで、食事中の引き篭りについての話を避けてきたからだ。


「痛かったけど、その内痛くなくなった」


 歯が抜けて、フワフワとした発音になった拓が言った。家族はその歯痛が想像を絶した筈のものと知っていたので、何も言うことは出来なかった。神経が死に絶えるまで、ヒトは歯痛を我慢できるものなのだろうか。


「まぁ、その何だ」


 オホンと咳をして父は平静を保って言った。


「まずは歯医者で、全部直してもらう事だ。歯は人生を築くスコップみたいなものだからな。粗末なスコップでは立派な城は建てられん、なんちってな」


 ガハハ、と同意を求めるように父は周囲に大きな笑い声を振る舞ったが、母も姉も表情を変える事はなかった。「人生」という言葉がNGワードであるようだった。9年間というロスを抱えた拓の人生、とは。そうした命題が3人の頭に浮かび、それから3人がそうした事を考えている事を悟られたのではないかという雰囲気のが拓を捉えたのではないか、という不穏な予感が家族を覆った。拓は気にせず、口の中に指を突っ込んで、他にも抜けそうな歯を物色していた。


「あらあら、まぁまぁ」


 母が顔を顰めて辛そうにした。


「いいから洗面所でやってきなさい。痛かったら鎮痛剤あげるから。夜だけど緊急外来の歯科もあるでしょう。ね、そうしなさい」


 拓は席を立って洗面所に向かった。


「ふう〜」


 父はため息をついた。


「何だろうな、この緊張感」


「9年ぶりの家族全員の食卓」


 姉・優子が大きな唐揚げに噛り付いて言った。


「ぎこちなくて当然よ。家族だからって何もかも許されるとか、分かり合えるとか、そんな訳ないんだから」


「あなたっていつからそうリアリストになったのかしらね。やっぱり煙草を吸い始めたからかしら」


 母が洗面所を気にしながら言った。


「 ──環境が人を作るのよ」


 姉・優子が柔らかくて美味しい唐揚げに免じて言葉を選んだ。


「何にしても、これから先は長いんだし、焦る事はない」


 父が察して努めて明るく言った。


「明日、コンビニの件を聞くとして、歯医者へ行って、体力をつけて、勉強していけばいいんだ。なあ母さん」


「そうね」

 母が答え、続けた。

「でもあんまり将来が将来がって言い過ぎると、また引き篭もっちゃうんじゃないかしら」


「確かにね」


 姉優子が同意した。


「あれやれ、これやれって頭ごなしに言われ続けたら本当に腹が立つし、また引き篭もってもおかしくはないわ」


「何だか実感が篭ってる言い方だけど」


 母が思った事を言った。


「お母様におかれましては、大学の入学から就職まで、口すっぱく勉強しろだの、たくさん面接行けだの、ご指摘を大いに賜りまして、感謝を申し上げます」


「どういたしまして」


「皮肉よ」


 ピシャリと姉が言った。


「まあ、あなた方ハッピーセット達は、拓に気を使っても仕方がないっちゃ仕方がないわ。あたしが拓をどうにか社会復帰するように導くから、最低限のサポートでよろしく」


「頼もしい、優子がいつの間にこんな立派な娘に……」


 父が感動した。


 母が何かを言おうとしたところで、拓が洗面所から帰ってきた。


「たくさん抜けた」


 母はそのまま卒倒しようか一瞬迷ったが、電話をして歯医者の予約を取ってからゆっくりと気を失うことにした。





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