リビング

 自宅に戻ると、両親が今か今かと待ち構えていた。


「拓、大丈夫か拓」

「おかえりなさい、あらサッパリしてもう、男前になったわね!」

 屈託のない両親の出迎えに、拓は少し微笑んだ。姉・優子は薄いピンク色の部屋着に着替えていた。


「拓、お前いま、少し笑ったな」

「拓、拓〜」

 はしゃぐ父と、エプロンの端で目を抑える母。

 そして、冷静な姉・優子。


「拓」

 手を差し出し、

「芋けんぴは?」


「あ」


 拓はすっかり忘れていだ。


「ごめん」

「は? 忘れたの?」

「優子、いいじゃないか芋けんぴくらい」

 浮かれた父が助け舟を出した。

「そうよ、たかが芋けんぴよ。芋のお菓子よ」

 母も後追いした。

「そういう事じゃないでしょ」

 と優子は怒った風に言った。

「たかだか芋けんぴすら買って帰れない拓が心配なのよ。あたしだって芋けんぴを今すぐ食べなきゃ死んじゃうとか、そういうんじゃ全然ないの。何よ人の事を芋けんぴ中毒者みたいな扱いして」


 みんながシュンと黙った。


「いい? 拓。約束ごとはちゃんと守るのよ。みんな約束を忘れないように生きてるんだから、拓だけ忘れちゃった、とか、出来ませんでした、じゃ済まされないの。ちゃんとできないなら出来ないって先に言わないと、迷惑が掛かるのよ」


「たかが芋けんぴで何を偉そうに言ってるの?」


 母が心配そうに言った。


「だから芋けんぴが問題じゃあないの。お母さん、頭がハッピーセット過ぎるでしょ?」


 拓は「ごめんなさい」と素直に謝った。


 家族はシンとして拓を見守った。何となく、悪い事を拓にさせてしまったのではないか、という取り留めのない雰囲気が玄関を覆った。


「次から気をつけるのよ」


 姉・優子が平坦なトーンで声を掛けた。

 拓が深く頷いた時、ポケットの方からクシャクシャという音がし、父がそれに気が付いた。


「拓、何だポケットに入っているのは」


「あ、これは」


 取り出すと、食べかけのチーズカレーパンだった。


「何だ、コンビニへ寄ったんじゃないか」


「まぁまぁ、ここは寒いから、リビングに戻りましょ。拓もコート脱いで、ね」


 母が甲斐甲斐しくコートを脱がせ、拓を家の奥に導いた。


 ■


 テーブルにはクシャクシャになった食べ掛けの調理パンが置かれている。


「これはどうしたんだ」


 父が何でもない風に拓に問いかけた。


「お釣りは散髪代でちょうど合ってる。でも出掛けた時になかった菓子パンがポケットの中に入っている」


 父が続け、そして母に問いかけた。


「という事は、どういう事になると思うお母さん」


「き、きっと、きっとお父さんのコートのポッケは、カレーパン工場なのよ」

 目を泳がせながら母が手をポンとして言った。


「ハッピーセットは黙ってろよ」


 姉が重々しく言った。


「拓、教えて」


 優子の声は中立のトーンを変えない。


「あなたが万引きしたとは誰も思っていないから」


 拓はすっかりソファの上で小さくなってしまい、それは虐待された子供を思わせた。色は白く、骨と皮ぐらいにやせ細り、顔は叱られた直後の犬のように神妙に床の何かをじっと眺めていた。


「もらった」


 拓は一言だけ発した。


「誰に?」


 優子が聞く前に、母が発した。


「サ、サダさん」


「誰よそれ」


 姉がお手上げという風に天井を仰いだ。


「コンビニの店員さん」


「ふうん、店員さんが、あなたに『これどうぞ』って言ってくれたんだ」


 優子はニコリとしながら明るいトーンで言った。


「そんな訳ないでしょ」


 一転、重たく低い声と怖い顔でテーブルに乗り出した。拓はビクリと体を引き、さらに小さくなった。倒れた事は言いたくない、と思った。


「教えて、お姉ちゃんに。どうしてもらったの?」


「もういいじゃないか、優子」


 見兼ねた父が姉をたしなめた。


「みろ拓を。こんな、子犬みたいに怯えてしまってるじゃないか」


「そうよ、外に出て帰ってきたら食べ掛けのカレーパンがポケットに入ってる事なんて、よくある事よ。ねぇお父さん?」


 相変わらずの母だ。


「お、そうだな。極めて稀に良くある事でもなくはないかも知れん。ともかく、ともかくだよ優子」


 母を気の毒なハッピーセット呼ばわりする前に父が優子に言った。


「拓はとても疲れてる。事情を聞くのはまたにすればいいじゃないか。お腹も空いてるだろうし、ご飯を食べてゆっくり寝て、明日からまた色々と話し合おう。カレーパンはカレーパン。突然龍となって空を駆け巡る、なんてこたぁ、お父さんは無いと思うよ。な、母さん」


「ちょっと何を言ってるか分からないけど、あなたがそうと言うならそうよ。カレーパンが突然鶴に変わって、どこか無くなっちゃう、なんて事は、ないと思うわ」


 ふう〜、と深い息を吐いて、ゆっくりと優子はソファの背もたれに背中を戻した。確かにあたしは、せっかく部屋から出てきた弟に多くを求め過ぎているのかも知れない。姉としてつい心配が先立って、厳しくし過ぎたのかも知れない。事情が事情とは言え、9年間も引き篭もっていた弟に対する罪悪感を打ち消そうと、辛くあたってしまったのかも知れない。落ち着け、まずは落ち着け。


「そうね、美味しいご飯食べましょ。拓、鳥の唐揚げ、好きでしょ」


 拓は視線を合わさないまま、うんうんと頷いた。


「と、父さんも唐揚げは大好きだ! 特にマヨネーズを掛けて食べるのが大好きでな、ワハ、ワハハ!」


 とってつけたように父が乗った。


「もうお父さんったら、そういう事やっちゃうからコレステロールと血圧が要注意になっちゃうんでしょ、も〜」


 母があっけらかんと笑って、父の肩をバシっと叩い。


「ワハ、ワハハ」

「ホホホ」


 両親がハッピーセットだと扱いやすいな、と優子は思った。







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