髪を切る


 父と母は拓の久しぶりの外出を心配し、しきりに


「大丈夫か、ついて行ってやろうか」


「道、わかるの? 帰って来れる?」


 と玄関を出る拓に声を掛けていたが、姉だけは


「大丈夫に決まってるじゃん。馬鹿なの?」

 と冷静のままでいた。


「拓」

 と姉・優子が神妙な顔と声で言った。


「帰り際にセブンでいもけんぴ、頼む」


「おいおい優子」

 父が顔を顰めてたしなめた。


「拓はこれから髪を切りに行くんだぞ」


「そうよ、これから拓は髪を切りに行くのよ」

 母がしり馬に乗った。


「買い物なんかを頼むなんて失礼じゃないか」


「しかも芋けんぴなんて。そんなの売ってるの?」


「ハッピーセット達は黙ってて」

 姉がピシャリと言い切った。


「たかだか髪を切るついでにコンビニで買い物をお願いしただけよ。しかもお願いしたのは車やテレビじゃなくて、たかだか芋けんぴよ。税込で105円よ。躾がいい犬だってできる単なるお使い。言うなればパシリ。本質的に言って、弟は姉のパシリなのよ。何が失礼よ。さぁ拓、芋けんぴを買って帰ってきなさい」


「仕方ないわねぇ」


 母が財布から五千円札を出して、拓に握らせた。


「他にも何か欲しいのがあったら、買ってきなさい」


 拓は頷いてサンダルを履いた。履く靴など無かったのだ。湯冷めをしないように、新しいパジャマの上に分厚い茶色のセーター、黒いロングコートを着ている。どちらも父のもので、ブカブカだがやや寸足らずに見える。


「いってらっしゃい」


 両親は玄関の扉が閉まるまで背中を見送った。


「やはり心配だ、母さん、こっそり付いて行こうか」


「そうね、道だってすっかり変わってるだろうし」


「やめておきなさいよ」


 優子が腰に手を当てて言った。


「一度心配し始めたら、何もかも心配になるに決まってるわ。そのうち便所にまでついて行きたくなるわよ。ドーンと落ち着いて、いつも通りに過ごすの」


 拓はゆっくりと歩いた。

 部屋の外の世界は眩しく、空気が冷たく澄んでいた。何もかもが煌めいて見える。どこかの庭先に咲いている椿が揺れていれば、拓はそれをしばらくの間眺める事ができた。電線が青空にまっすぐ伸び、緑は深く、影は暗く、赤はどこまでも鮮やかだった。拓は身体のぎくしゃくとしたこわばりも忘れ、しばらくそうした寄り道をした後、うろ覚えの道を歩いてようやく床屋に辿り着き、扉を開けた。扉の前の古めかしいキャッシャーの後ろでフライデーを読んでいた店主が振り向き、


「いらっしゃいませ」


 と習慣で声を掛け、おぞましいものを見たかのように顔を引きつらせた。あまりに長い髪と髭、青白くやせ細った姿に、ルンペンが入店してきたのかと勘違いしたのだ。


 余談だが、この理容室の店主は将来、火事で店を失う事になる。煙草の不始末で、親子二代に渡って続いた理容室は綺麗さっぱり失われ、家族は埼玉県の奥地へと逃げるように引っ越しをしてしまう。その頃には夜逃げをした父も、不出来な店主を、何とか専門学校まで出してやった母も死んでいて、近所のスナックで知り合ったフィリピン人とその子供ぐらいしか店主には守るべきものが無かったが、やがてその妻子供も店主の元を去り、一人寂しく、孤独に生涯を終えることになる。しかしその話は関係がない。


「いらっしゃい、カットですか?」


 コクリと頷き、所在なさげに目も合わさず立ち尽くす男を店主はマジマジと眺めた。意外と若い、というか、子供かもしれない。高校生か? それと、風呂上がりなのかボディーシャンプーの匂いがする。ルンペンではない、と店主は安心した。カット台に座るように促し、清潔な白いケープを巻きつけた。拓はおずおずと大きな鏡に映るもじゃもじゃ頭の自分を前髪越しに見つめた。


「ずいぶん伸びましたね、どうしましょう」


 店主はいまだ男の襟足を揃えながら、鏡越しに目を合わせて問いかけた。男の髪は冷たく乾ききっておらず、まさに切りごろのように思えた。男は鏡越しにじっとこちらを見て、何かを言おうとしているが、声が出ないように口をパクパクとさせていた。ケープが苦しいのか?、と店主が訝しみ、少し指を差し入れたが、いつもと同じ程度の締め方だった。


「何ですか?」


「短くお願いします」


「短くね、はいはい、分かりました。じゃあ、サイドは刈り上げちゃってもいいですかね? 学校とかうるさく言われない?」


 コクコクと拓は頷いた。


「じゃあちょっとパパッと切っちゃおう。もみあげもさっぱりさせちゃうね」


 シャキシャキと心地よい音が店内に響き始めた。拓は目を閉じると、流れるラジオに耳を傾けた。お昼のNHK放送だったが、拓には何でも良かったし、興味もなかった。


「そりゃそうです、形があるものは大体消えていくものですからね、嘆いても喚いても仕方がない。ただ受け入れるしかないんです。誰も彼もそのままの姿であり続けることがあれば、生きるのはどれだけ楽な事でしょう。でもね奥さん、そんな人生って、どれだけの価値があるんでしょうね? 何も変わらないまま寿命が来て死んでいくだけの一生。つまらないと思いませんか?」


 店主がダイヤルをいじり、野球の実況放送へ変えた。


「バッター中畑。今日の打席、二塁打、サードゴロ、犠牲フライ。 ──ストライク。解説の◯◯さんどう見ますか?」


「少し脇が開いていますね。でも今日は調子がいいですからね、一発がでてもおかしくはないですよ」


「お兄さんは野球好きかい」


 店主が拓に話しかけた。拓は首を横に振ろうとして、髪を切ってる最中である事を思い出し、「どちらでも」と小さなかすれ声で答えた。そうかい、じゃあラジオはこのままでいいかな、はい。拓は小気味良いハサミの音がすぐ耳元で鳴るのがくすぐったく、面白く感じた。


 30分程で髪を切り終わり、料金を支払った。


「だいぶ見違えたな。さっぱりしただろう、ものすごい髪の量だった。これからは小まめに髪、切った方が良いぞ」


 店主は釣りを渡しながら拓に言った。


「これはおまけのガム。良かったらまた来てな」


 拓は2300円のお釣りと、小さなガムを一つ貰った。ありがとうございます、と礼を言って、拓は外に出た。少し日が傾き、まもなく夕暮れが訪れる雰囲気と匂いがした。拓はゆっくり深呼吸をすると、ガムを剥き、口に入れてから歩き出した。頭がとても軽く、空気にガムの味が混じった。





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