拓がしたいこと

 拓はぐったりしていた。

 ほとんど脂肪がない骨と皮だけの体に、長風呂は応えた。場所は家のリビングルームのソファで、頭に冷たい氷を乗せたタオルを載せて仰向けになっている。肌着は新しいものに取り替え、着ているスウェットもグレーの新品だ。父親の物なのか、ブカブカだ。


「久しぶりのお風呂だから、茹だってしまったのね」


 母が扇風機をどこからかひっぱり出してきて拓に向けた。


「どうだ、気持ち良かったか風呂は」


 父が何でもない風を装って聞いた。拓はウンウン、と頷くだけで、再びぐったりとソファに身体を横たえた。


「しかしまぁ、本当に誰だか分からないわね」


 有休休暇を申請し、会社を休む面倒ごとを済ませてセイセイとした姉の優子が胸元までブラウスのボタンを開け、腕と足を組んで弟を眺めた。


「前は小さくてひょろっとしてて、かわいい顔をしてたのに。髭モジャモジャじゃない。正直、あんた誰よって感じなんだけど」


「えっと、優子。まぁまぁ、良いじゃないか」


 父がぎこちない笑顔でやんわりと嗜めた。

 母も何となく、優子に「やめなさい」というような目配せをしている。今は何はともあれ、息子の拓が部屋から出て来た事だけを祝福すべき時なのだ。何か機嫌を損ねて再び部屋に篭ってしまったら、どうするのか。おうふ、と拓は深々とため息をついた。目の前が暗くて模様がグルグルと回っている。


「そうやって腫れ物みたいに扱ってると、良くないと思うよ」


 優子がふん、と呆れたように言った。


「ね、煙草吸っていい?」


「煙草!?」


 両親が同時に優子の顔を見た。


「おお、お前いつの間にそんな不良になったんだ!」


 父が顔を赤くして怒った。


「そうよ煙草なんて! せっかく綺麗な目と肌と髪の毛で産んであげたのに!」


 母も非難の声をあげた。


「顔と性格も悪くないって、巷じゃ噂だけどね」


 姉・優子は気にせずポーチからラッキーストライクのソフトケースを取り出して咥えると、小さなライターで火を点けた。


「あらあらもー、もー。灰皿あったかしら、昔お父さんが吸ってた時のがあったかしらね、もー」


「そりゃもう、十年くらい前だぞ、だって拓が ──」


 シン、と一瞬リビングが静寂に包まれた。


「何でもないっと」


 母がわざと大きな声で言って、台所にパタパタと立っていった。


 外の空気に触れる煙草の煙の匂いがリビングに満ちた。父がひとつ咳払いをした。


「お父さんにも一本……」


「いやっ」


 姉が食い気味に制した。それから一口たっぷりと煙を吸い込んで、改めて弟・拓をゆっくりと眺めた。


「引き篭もるのも分からなくもないけどさ……どうすんの?」


「どうするってお前」


 父も拓を見た。


「生きてりゃどうにかなるだろう」


「甘い甘い、あーーまーーいーー」


 優子が大きな声を出した。


「あまーい!」


「うるさいわねぇ」


 ガラス製の大きな灰皿を母が持ってきて嗜めた。


「こっから先なんて、どうにだってなるわよ。まずは部屋から出てきたんだから、その一歩がなんて言ったって大切なんだから」


「なこたー分かってんの」


 姉が灰皿で煙草を揉み消した。


「中学もいかず、高校だって行ってないでしょ。頭の中は小学生でほとんど止まってる。そういう体だけ大人でさ、社会でやっていけんのって話じゃん」


「学校なんていくらでもあるさ」


 父が楽観的に言った。あるいは心の底からそう思っているような言い振りだった。


「学ぼうって気持ちがありゃあ、どこだって、何だってやれる」


「そうよ、そういう、優子みたいな悪い所ばっかり言うのって、母さんあんまり好きじゃないっ。煙草を吸うから性格が悪くなるのよ」


「あたしの両親の頭はダブルハッピーセットかよ」


 呆れた口調で優子が天井を仰いだ。


「人間な、誰だって引き篭りたい時はある」


 父が重々しく言った。


「現に父さんも今、引き篭りたい。引き篭りたい、ナウ」


「古いわ、言い方」


 真顔で優子が冷たく言った。


「でもな、父さんはともかくとして」


「当たり前だろ」

 優子は容赦しない。


「 ──父さんはともかくとして、拓には拓の好きなようにさせてやりたいと思っている」


「大切な事だから二回、言ったのね」


 母が優しくフォローした。


「父さん、大切な事は二回言っちゃう癖があるからな!」


「ずっと変わらない。そういうところが、好・き」


 父と母は顔を見合わせて、満面の笑顔で同じ角度に首を傾けた。


 優子は深いため息を吐いた。こういうのにあんまり構っていられない、といった風に。


「で、拓。あんたとりあえず何がしたい訳?」


 家族の目が拓に集まった。拓は目までタオルで覆われたまま、


「……きりたい」


「切りたい?」


 ギクリとした顔をして両親が顔を見合わせた。


「や、やめておけよ手首を切るだなんて……痛いぞぉ〜、血がたくさん出るぞぉ〜」


「そうそう! 大切な身体に勝手に傷を付けるなんて、母さん絶対、絶対許さないんだから!」


「……きりたい」


「だったら何で部屋から出てきたんだ。切りたかったら部屋の中でどうとでも出来ただろう。いちいち手首を切るために、父さん達をぬか喜びさせるつもりで拓、わざわざお前出てきたっていうのか!」


「やめて、やめてぇ、お願い〜」


 母がエプロンで目尻を抑えた。


「あんた達さぁ、本当にちょっと黙って!?」


 姉が怒った。


「ちゃんと拓の言うこと、聞いてやって!?」


 静寂がリビングに再び訪れた。


「……りたい」


 拓の声が先程よりもしっかりと聞こえる。


「髪……切りたい」






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