砂糖菓子は思い出になる

星!

砂糖菓子は思い出になる

 ヒジリは湯に浸かることが嫌いらしい。私がそのことに気づいてからおよそ二カ月と十四日が経つけれど、毎日彼の家に赴いて湯を沸かしてやっている。皮膚片が全くつかない浴槽を甲斐甲斐しくブラシでこすり、ついでに周辺の調節もして、給湯スイッチを押すと、私はなんとなく大義を終えたような気になってヒジリ宅の大きなソファに体を沈ませる。毎日だ。まったくナンセンス。だけど、毎日だ。『皮膚片の全くつかない浴室を甲斐甲斐しくブラシでこすり、ついでに周辺の調節もして、給湯スイッチを押す』私のことを、ヒジリがちゃんと認識してくれているのかさえ知るよしもないけれど。もしかしたら、張った湯から立ち上る湯気で浴室が若干温まっているという変化にさえ彼は気付いていないのかもしれない。

 

 私がヒジリと知り合いになったのは大学四年のある夏の日。それまではただの、同じ研究室で同学年の___私は機械工学を専攻していて、機械いじりを趣味にするような陰気な少女であったことは否定できない。そんな私がいうのであるが___多少リーダーシップをとりたがる嫌いのあるラガーマンという程度の認識しかなかった。ヒジリも私のことなんて眼中になかったと思う。私は目立たず、騒がず、ただそこそこ充実した大学生活を送りたいだけの、そしてその目標の達成を目前にしたつまらない女子大生にすぎなかった。とりあえず理系学生のほとんどがするように研究室に入り、約一年が過ぎようとしたころだったけれど、私は大学院に進む気はさらさらなかった。適当なところに就職できるだろうと、甘い考えを持っていた。根性無しで、つまらない女。実はそう思われていたのかもしれない。ある夏の日、ともったいぶっても、それはゼミの旅行だったし、大学一可愛いと噂のマキという女の子とくじ引きで同じグループになって京都を巡ったので大して独特な一日であったというわけではなかった。私、ヒジリ、マキの三人きりで一グループだった。もちろんヒジリの目もマキに奪われた。まあ彼女にしたら、ヒジリにも大した存在感はなくて、ただのラガーマンに過ぎなかったのだけれど。それでもマキの笑顔は__たとえそれがまがいものであったとしても、だ__ひとの心を動かす健やかさがあった。ヒジリはあっさり手玉にとられてしまった。

 

 そういう、諸々の経緯で知り合い少しずつビジリと親睦を深めた私は、彼が大学の(バイト先の、ショッピングモールの、楽器屋の、ライブ会場の)トイレで用を足したあと、手を洗ってもその手を拭いていないことを私は知っているので、いつもさりげなくハンカチをかしてやっている。

 知り合った経緯はともかくとして、ヒジリに対する私の愛情はこうした、些細な、一挙諸々で示してきたつもりだし、これからも示すつもりでいる。

 残念ながら私は、ヒジリのこのことについてだけは良く知らないのだけれど、彼が大学の秘密クラブのようなものに所属していて、恐らく秘密クラブが原因で常に首が回らない生活をしていることを知っている。秘密クラブはマキがとても楽しい、ぜひ入るべきだというので入ったとヒジリは言っていた。私はなんだか自分がないがしろにされたような気がしていた。ヒジリは相当の金額を秘密クラブに支払っている。私が思うところではギャンブルみたいな会だと思うのだけれど、そういう、いかにもヒジリの見た目で手を染めそうな行為は、彼には似合わないと私は常々思うのだった。すぐにでも抜けてほしい。そんな思いがありながらもマキが所属している手前そう簡単に手をひかないことは分かっているし、バイトを週四日いれても彼の生活がままならない状態であることを知っているので、どうしても酒が飲みたいと珍しく私を前に可哀そうな小動物のような顔を見せた時、いくらか金を貸してやったりする。

 返すのは焦らなくてもいいから。

 ヒジリの目の前に二枚の万札をちらつかせて言うと、いつもは私より大きく筋肉質な彼の肩がしゅんと小さくなり私はその瞬間だけヒジリの神様になれる。

 そういう瞬間が私は、なによりも好き。

 元は屈強だったはずなのに、私のせいで薄弱になってしまう彼のその姿が、その精神が好きなのだ。こういうことを言ってしまうと私の人格が疑われかねないのだけれども、正直に言うと、それはヒジリでなくても良いのだ。誰が、という必要はなくて。ただこの時期はたまたま彼であったというだけ。彼が近くにいたというだけだった。それでもヒジリを心の底から好きでいられている、ような気がしている。だから、下準備は全く苦にはならなかった。

 

 私の二カ月と十四日の苦労がもうすぐ報われようとしている。

 

 私は今日も大義を終えてソファに身を投げる。ヒジリは秘密クラブの集まりがあるので、今日は帰りが遅いはずだ。それに今夜は、強い雨が降る。現に窓を小雨が濡らしている。私は自分が練った計画を頭の中で本当の始めから最期までを一通りおさらいしておこうと思って、目を瞑る。ちらちらと浮かぶのは、二カ月と十四日どころではないヒジリと過ごした四季の景色だった。いや、景色というにはあまりにピントが定まらずお粗末なただの色彩にすぎないけれど、カラフルに滲みだした色が少しずつ硬度を高めて絡み合い、徐々に形が現れてくるような感覚。思い出がヒジリになる。ああ、こうも言える。ヒジリが思い出になる。

 

 そしてある瞬間にぴたっとピントが合って、あの夏の一日が再生される。マキとはついにはぐれてしまって、そのまま別行動となってしまったのだ。その時に私はヒジリの新たな一面を知ったのだった。ヒジリは甘いものが好きだ。いかつい見た目に反して、彼がゼミの京都旅行で何を買ったのかというと、琥珀糖を買ったのだった。透明なケースの中に、これまた透明度の高い色彩が収まっている。そのどれもが角ばっていて、太陽光を浴びて四方八方に輝きをとばし、同時に色のついた影を落とし、カラフルな宝石を通した太陽光線がまじりあって新たな色彩が生まれている。____どうしてこんなに鮮明な記憶を保っていられるのだろう。あたりまえかしら、ヒジリのことだからだ。私はなんだって彼のことなら、記憶している。___私は彼の手にきらびやかな琥珀糖が収まっているという事実が、なんだか信じられなくて、彼の存在に魔法を感じたのだ。存在そのものが宙に浮いているような、特別に感じられるような。違う。ともかく、彼でなくてもよかったけれど。私が初めて見つけたそういうやつが、ヒジリだったというだけ。根性無しでつまらない私のような人間よりも脆弱な男が、たまたま近くにいたというだけ。私にひとつ黄色の琥珀糖を渡す彼の愛くるしさ。顔にてらてらと色とりどりの光があたる様。それはもう、私に芸術方面の才能があったなら彫刻にしておきたいくらい。一生その形のまま。一生どころか、死してなお、その形のまま。

 

 私はソファに丸まり、右の親指でリモコンを撫でる。

 赤いボタンが一つあるだけの、手製のリモコンだ。

 浴槽にはちゃんと黄色の色素、砂糖、その他諸々の材料をちょうどの比率で配合した「湯」が準備されている。

 

 二カ月と十四日の『皮膚片の全くつかない浴槽を甲斐甲斐しくブラシでこすり、調、給湯スイッチを押す』という苦労の末につくりあげた、これまた手製の浴室型ショックフリーザーは、しっかり仕事をしてくれるだろうか。

 

 窓を大粒の雨が叩いている。私はヒジリが、滅多なことがない限りは傘を持って外出しないことを知っている。

 秘密クラブの集会はもうとっくに終わっている頃だ。

 私はヒジリに対する愛情を些細な一挙諸々で示してきたつもりだし、もちろん、これからも示すつもりでいる。それは本当。間違いない。

 ガチャ。

 思い出の帰る音がして、私はにっこり微笑むのだった。


 

 

 


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