第12話 血幕の再会
世界が真っ赤に塗り染められていく。
瞬間的に降りしきる鉄臭き雨の元は森田を貫いた脚に打ち込まれた鬼塵弾によって戦闘不能になるまで身体を破壊された陽神莉と、衝撃を一切の緩和剤なく受けた森田のものだ。
彼女に残されたのは軸として使用していた左脚と腕以外の上半身だけしかない。
「クソ…ッタレ。まさか似た手でやられちまうとはな」
「舐めすぎなんだよ、人間の事を」
「……そんなことねーと思ってたんだけどなァ」
天井を仰ぎ見るばかりの陽神莉は、血だらけで見下ろしてくるセトに向かって微笑む。
今の彼女にとって自由に動く肢体は左脚しかなく、それ以外の部位には尋常ではない激痛が走っているだろうにも関わらずだ。
……いいや。最早彼女には痛みは無いのかもしれない。
鬼の身体や精神面はさておき、人の身体は特定条件下で痛みを感じなくなる事がある。甚大な人体の損傷により、憑りついた人間そのものの、痛覚を知らせる神経が麻痺を起こしているのなら苦痛に顔を歪められないのにも説明が付く。
たが、生き物にとって痛みとは【生きている証左】に違いない。
その証が無いという事は、恐らくもう長くはないのだろう。
彼女も、陽神莉(かのじょ)も。
陽神莉がセトに牙を剥かない理由がそれを裏付けていると言える。
「森田、って言ったっけか。死んだのか?」
「あぁ。オレももうじき消える」
唐突に森田の名を口にした陽神莉に、セトは怒りを見せずに頷く。
鬼塵弾の余力と、陽神莉のはじけ飛んだ右足の衝撃を直接受けた彼の体は形容し難い肉片へと姿を変えてしまった。
探せば或いは上半身はどこかで見つかるかも知れないが、恐らく[彼]とは認識できない。
「ってこたぁ、種子島の方は消えたのか」
「フーは憑いて間もなかったからな。お前のトドメをオレに任せて先に消えたよ」
陽神莉が直ぐにもう一人の敗因を尋ねたのはそれが分かったからだろう。
「はは、そうかい。
ま、流石にもう身体が動かねーわな。好きにしてくれ。人間の方ももう諦めてるからよ。……気に病むことはねーぜ?」
「…鬼ってのは最期までそうなのか?ちったぁビビってもいいだろ。オレら妖怪は、宿主を無くしたらそれまでの生活を失うんだぞ?」
変わらず浮かべる笑みは、命を賭してもなお[死]そのものを与えられなかった彼らに対しての勝利宣言なのか、セトには判断できなかった。
「っはは。それが何だってんだ。鬼はてめぇのやりたいように生きるから鬼なんだぜ?失ったら失ったでまた手に入れるだけだ。
……けど、そうさな」
陽神莉は辺りを見渡し、陽蘭莉がいない事を初めて認識する。
「…チッ。あのメギツネども、テメーの命欲しさに逃げやがったか。後でぶん殴ってやるから、覚えとけよ」
どこか嬉しそうに、彼女は悪態を吐いた。
「……最後に、一つだけいいか?」
「あん?殺し方の事なら首ちょんぱだけはやめとけよ。多分、死に切れなくて噛みついちまうからよ。切腹?とかにしとけ」
どこまでも不真面目に言葉を繋げる陽神莉は、けれどもう、力強さとは縁遠い。
それを感じ取ってしまってからかセトの心に苛立ちはない。
「ちげぇよ。……お前、結局なんて名前だったんだ?」
「アタシ?アタシはな……まぁなんだ。酒呑みの鬼ってところだな。
……機会があったら酒でも酌み交わすか?」
それでもと、小馬鹿にした態度で発する陽神莉。
「冗談」
その返答とばかりに、セトは彼女の心臓を一刺しにした。
「っは。ま、気が向いたら呼べよ。殺り合った仲だ。一杯奢るぜ」
「……アイツらが来るってんならな」
それっきり、陽神莉は口を開かなくなった。
ただ口端を吊り上げ、安らかな顔をして。瞼も、動かなかった。
「……ふざけやがって、相打ちだろうが。笑ってんじゃねぇよ」
開かれたままの瞳を閉じ、セトはゆっくりと向き直る。
視線の先にいるのは涼し気な顔で彼女を見続けるノエルと、ただ虚空を見つめて呆然としている沙紀美だ。
「さ、これで約束は終わりね。どうするの?」
なんの憂いも無く、なんの躊躇いも無く、ノエルは太刀に手を伸ばしながらセトに言い放つ。
「…………そりゃあ、殺り合うしかねーだろうよ」
セトもまた、応えるように殺気を放った。
……しかし。
「なんてな。オレらにはもうなんにもねぇ。せめて逃げる時間稼ぎくらいはしてやりたかったんだけどな」
薄れゆく右の手を見せながらぶっきらぼうに答えた。
「気に入らねぇが、今度ばかりはお手上げだ。宿主を失ったオレたちは消えてどっかに飛ばされて、そいつは戦えるのか分からねぇ。
…頼みの綱のアイツは今頃布団で安静にさせられてる。もう、詰みなんだろうよ」
「あら。それなら手間が省けて楽でいいわ」
苦虫を噛み潰した顔で敗北を語るセトに対し、ノエルは僅かに頬を綻ばせて喜ぶ。
それはこれまでの[僅かに動いた表情]ではなく、[堪え切れない感情]だった。
「本当に気に入らねぇ女だな」
「貴女たちほどじゃないわ。二度も邪魔しに来てくれて、心底鬱陶しかったもの」
セトから消えた殺気に気が付き、ノエルは太刀から手を離す。
「……だけどよ、一つだけいいか」
「遺言?かしら。いいわ。そういうのって、ちゃんと言っておかないと厄介事が起こるのよね?これ以上面倒なのは、ね」
既に身体の半分以上が消えているセトがそう言うと、ノエルは特に嫌がる様子も無く答える。
「悪いな。
なぁ、沙紀美」
突然名を呼ばれ、ゆっくりと沙紀美は顔を向ける。
その顔に活気は無く、微睡の狭間にいる夢見人のように呆然としていた。
「いい加減シャキッとしろ。そんな顔で兄貴に会いに行くのか?」
だがセトは苛立ちを交えずに沙紀美に語り掛けた。
あるのは、覚悟を決めろ、という鼓舞だった。
「……アニキ?」
「帰るんだろ、家に。そのためにあいつらは戦ったんだか…」
全てを言い終えるよりも早く、セトの身体が消える。
本当にそこに居たのかを疑ってしまうほど、まばたきの間に消えてしまったのかと思うほど、存在感だけを場に残したまま。
「……最後まで迷惑な人ね。帰るはずがないのに」
それを機に、とうとう倉庫の中には二人しかいなくなってしまった。
「さぁ、帰りましょうシエル。
行き先はどこがいいかしら。おねぇちゃん、いろんなところに行ってきたから、どこでも…」
「イヤだ」
「…………?」
これまで薄ら笑みしか見せてこなかったノエルが、無邪気に遊ぶ子供のような満面の笑みで沙紀美に語り掛けた。
だが、沙紀美はそれを遮って彼女に言葉を突き付ける。
「学校でも言ったけど、僕はシエルじゃない。君の弟じゃないんだ。なのにどうして解ってくれないの!?」
それまでの彼女にしていた柔らかな否定とは違う、明確な否定は、ノエルの表情を一転させる。
「ど…どうしたの、シエル?急に怒鳴ったりして」
焦り、狼狽え、困惑するノエル。
「違う!僕は一人じゃなかったし、シエルでもない!」
だがそれでも、沙紀美は決して自分の言葉を曲げなかった。
「違わない!貴方はシエルで私はノエル。たった二人きりの姉弟じゃない!どうして知らないふりばかりするの!?」
この時初めて、ノエルは沙紀美に怒声を上げた。
「あの日、嫌がる貴方を私から無理に遠ざけたのは悪かったわ。その後もきっとつらい思いをしたんだ思う…
それは謝る、謝るわ。だからもう、そんな意地悪言うのはやめて」
「知らんぷりなんかじゃない。僕は、本当に君の事なんて知らないんだ…!意地悪なんてしてないし、謝られたって困るんだ」
「……そんな」
怒りの込められた沙紀美の言葉はノエルを絶句させた。
「……もう、分かったでしょ?僕と君は赤の他人なんだ。
だから僕は帰る。アニキに、これ以上心配かけたくない」
身体をふらつかせて近くの柱に寄りかかってしまう彼女を他所に、沙紀美は出口へと向かって行く。
その足取りは早く、脇目も反らさない。
「……メよ」
背後から聞こえる他人の声にも沙紀美はピクリとも反応せず歩き続ける。
「ダメよ、ダメよダメよダメよ。あり得ない。別人なわけないもの。今まで似てる人は何人も見てきた。でも、その人たちじゃないのはすぐに分かった。
貴方だけなのよ。一目で分かった。私の弟だって。間違いなく貴方だって。直感なんて安直なのじゃない。だって、家族なのよ?たった二人だけの、唯一の姉弟だもの。分からないわけないじゃない。だから、だから!
行かない…」
「それでも、別人だよ」
悲嘆と錯乱、懇願を内包した叫びは、けれど、はっきりと沙紀美に否定された。
「……助けに来てくれてありがとう。さようなら」
感謝と別れを告げ、沙紀美は倉庫を後にしようとした。
ーーだが。
「……そう。分かったわ」
沙紀美の足元に何かが飛来する。
それは質量を持ちながらも鋭利な音を立て地面に突き刺さり、外の光に長身な身体を輝かせる。
「ごめんね、シエル。すごく怖いかもしれないけど、我慢して。こうすればきっと思い出すはずだから…!」
それまで、離れた位置から聞こえていたノエルの声が突然沙紀美の真横から上がる。
位置はそう、丁度、飛来した何かの近くでーー
「……え?」
沙紀美の右腕を、冷徹な何かが掠めた。
「う、うわぁぁぁ!!」
いつの間にか真横に居たノエルに驚いた沙紀美は慌てて距離を取る。
その時、腕を掠めたモノを確認し、全身を総毛立たせた。
「か、刀…!?」
「えぇ。どうすれば対処できるか、わかるよね」
再び振るわれる太刀を間一髪避けた沙紀美は慌てて距離を取り、緊張を走らせる。
「ねぇ、懐かしいでしょ?昔はよくこうやって練習したよね」
太刀を一振りして構えを解き、柔らかにノエルは話しかける。
「れ、練習!?何言ってるの!!?」
「森の獣を狩るために一緒に戦い方を考えたじゃない。…シエルは優しかったから、殆ど見てるだけだったけどね」
「も、森!?」
一歩一歩、ゆっくりと近づいてくるノエルから沙紀美は目を逸らさぬよう後退る。
「そう、森。
沢山、獣がいたわよね。熊、猪、狼…後、そう。山賊まがいの輩とか。
大変だったよね。私達、家に入れてもらえる時の方が少なかったから、殺せるようにならないといけなかったんだもん」
「何言ってるの!?」
緩やかに迫り来る恐怖から更に離れようと試みるが彼女との差は一向に開かない。
「そうそう。逃げる人を追うならこれが一番いいのよね。自分は必至なのに、相手は平然としてる。それが大事なんだっけ。
力の差をちゃんと教えてあげると、もう二度と関わってこない。…シエルが気づいたんだよ?」
「し、知らないよ!こっちに来ないで!!」
「……!」
何歩も後退し、本来なら沙紀美の身体はとっくに倉庫の外へと出ていてもおかしくない距離を移動しているはずだ。
しかし、ふと沙紀美が後ろを見やればそこには壁しかなかった。
「……獲物を追い詰めるのは、いつまで経っても下手だったもんね。
でも、おねぇちゃんが得意だから、シエルは気にしなくていいんだよ?」
「う、うぅぅ……!」
「大丈夫、怖がらないで。これは本当じゃないの。ただ、シエルに思い出してもらうためにしてるの」
緩慢さも俊敏さも無く距離を詰めていくノエルの声は、だが沙紀美には届いていない。
今の彼の中にある考え。それは、【どうして彼女がここまで自分に執着するのか】その一点だけだった。
元々、沙紀美はあまり記憶力が良い方ではなかった。
……正しくは、幼少期から少年期の途中までの記憶が酷く虫食い状態なのだ。
二人の父・虎徹が言うには『沙紀美は言いつけを守らずに船へ乗り、大しけで揺られた際に海へ放り投げられた』らしい。
虎徹の救助により一命を取り留めるも、あまりの恐怖からか幼い沙紀美は意識を失い、目が覚めた時には記憶喪失を起こしてしまっていた。
幸い、それ以外に脳の被害は無く、成長していくにつれ記憶力も安定していくという医師の診断もあり、実際、沙紀美の記憶力は中学に上がるまでにはかなり元通りになっている。入院期間が長かったため同級生からの認知度は低いが、鱶丸と共によく見舞いに来ていた空は彼の事を覚えている。
それ故に、ノエルが自身の姉、ひいては家族や親族であるはずがないと言い切れる。
身体能力や価値観、名前の読み方でさえ、血の繋がりを疑う理由になり得ない。
ーーだが、それでも強いて上げるとすれば、今の沙紀美には一つだけ心当たりがあった。
「……崖」
「…?」
「絶壁の崖で、僕の事、海に落とした?」
「……!!それって…!」
つい先日に見た不可思議な夢。
映画のスクリーンを思わせる画面の中に映し出されていた、小さな二人の子供の映像だ。
「確か、森の中に怖い人がいたんだよね?」
「え…えぇ、えぇ!!そう、そうなの!思い出してくれたのね!!」
ポツリポツリと、夢を思い出しながら話す沙紀美にノエルは太刀を落として瞼に両手を添える。
「……その後、襲ってきた一人を、誰かが倒したんだ」
「…そうね、そう、そうなの。シエルが、妖怪の力を使ってアイツらの一人を殺してくれた…。そのおかげで……!」
とめどなく溢れる涙を拭いながらノエルは口早に語っていく。
だが、沙紀美はそれを遮り。
「ならやっぱり、僕じゃないよ」
「……え?」
再び、明確に否定した。
「ど、どうし…」
「どうしても何も、僕はいつも誰かに守ってもらってるんだよ?……今日みたいに。雷…?か何かを出せるわけないんだ。それに、森田さんと那須さんは言ってた。妖怪が憑いているのはアニキだ、って」
「でも…!」
「でもじゃない!……でもじゃないんだ。僕と君は赤の他人で、全然知らない人なんだ」
「……そんな。そんなはずないのに……」
「……人の意識は無意識下で繋がってる。そう本で読んだ。だから、君たちが実際に体験した出来事が、僕の夢になって表れてしまったんだと思う。
……ただ、それだけなんだと思う」
きっぱりと沙紀美は突き放す。
【自分は絶対に違う。あくまでも他人だ】と。
「……いいえ、違う」
「…え?」
瞬間、沙紀美の真正面に死を思わせる煌きが訪れる。
「……うん。やっぱり、反射神経は変わってない」
「な、なに言って……!?」
言われて傍と気が付く。
沙紀美は自分でも気が付かないうちに、ノエルの太刀を近くの鉄パイプで受け止めていた事に。
「それに、やっぱり甘いところも一緒。
峰打ちじゃなかったら、今ごろ真っ二つよ?」
「な、どういう……!?」
咄嗟の行動…にしては、あまりに的確な防ぎ方に戸惑う沙紀美。
だがノエルはそれに構わず更にもう一撃、横腹目掛けて太刀を振る。
「ま、待っ…」
反射的に瞳を閉じてしまう沙紀美。
「そんな必要、無いでしょ?」
その数秒も立たずに響く鉄同士の衝撃音。
左腕に走る衝撃は鋭く、襲ってきた刃の恐怖を直に伝える。
ーーそう。沙紀美の腕に伝わっているだけだ。
「ふふ。やっぱり覚えてるんだね。身体はちゃんと覚えてるんだ」
更に二撃、連続で叩き込まれるも沙紀美はそれらを即座に受け止める。
彼女の言う通り、まるで身体が覚えているかのように。
「ち、違っ…」
「なら、これをどうやって説明するの!?」
言い切るよりも早く振るわれる三本の光の軌跡。
その二本を受け止め、最後の一筋を沙紀美は右腕に喰らった。
「ぐ、うぅ…!」
骨身に染みる鋭痛に奥歯を噛み締める。
…が、彼はどこか嬉しそうに微笑んだ。
「で、でも、今度は受け止め切れなかったよ。多分偶然なんだ。それに自分で鍛えたりしたからそれで…」
その喜びとは、太刀を受け止められなかったという事実だ。
彼女の言うように、もしも自分の身体が本当に覚えていたのならこんな失態はあり得ない。
だからーー
「いいえ。貴方はやっぱりシエルよ」
そう確信を得ようとした途端、耳へと吸い込まれるノエルの言葉
太刀の構えを解いて沙紀美に近づき彼女は喜びを露わにしていく。
そうしてその口から漏れたのは。
「だって、シエルはいつも二回目までしか守れなかったもん」
より強い、確信の含まれた言葉だった。
「いつもいつもそうだった。シエルは必ず二回目までしか反応が間に合わなかったの。だからそれを試した。一緒に暮らしてた日みたいにね。
そうしたら、思った通り三回目はダメだった。それまでの二回は止められたのに、急に。
こんなのもう、決まりでしょ?」
身勝手と言える彼女の発言に、だが沙紀美は妙な納得感を覚えていく。
……覚えてしまう。
「ち、違う!そんなの、僕が知らないんだから勝手に言えるじゃないか!」
「そうね。でも私はシエルに嘘は吐かない。何があっても絶対に」
沙紀美の言い逃れは届かない。
「それが嘘じゃないって証拠はあるの!?」
「えぇ。【私は貴方(シエル)の姉】。それが何よりの証拠」
どれだけ彼が自分を信じて言葉を吐き出しても、ノエルから返ってくるのはそれを凌駕する絶対の自信。
その言葉には恐らく嘘は無いのだろう。そう思えてしまうほどに彼女の言葉には力があった。
「そんなの信用できるわけないじゃないか!」
けれど、沙紀美はどうしても彼女を信用できなかった。
「僕はアニキの弟なんだ!君が姉なわけない!だって、君とアニキは兄妹じゃないんだ!だから!」
ノエルの前では空しく響いてしまう自信を吐き出す。
いいや、吐き出すしかない。
もしも彼女の言っている事が全て本当なら、鱶丸や両親が、もしかしたら空までもがとんでもない極悪人になってしまうから。
「…そう。貴方はどこまでも言い張るの」
「言い張ってるんじゃない。本当の事を言ってるんだ!」
今の沙紀美を支えているのはその一点だけだった。
ノエルの言葉とて信用できるものは一つとしてない。どれもこれも出まかせの可能性しかない。
けれど、それを感じさせない、忘れさせてしまう彼女の自信は何なのか。その源は、原動力は何なのか。考えれば考えるほど、その終着点は一つしか思いつかなかった。
「……ならもう、無理矢理にでも思い出してもらうしかないね。二人で過ごしたこれまでの事を全部」
「無理だよそんなの。僕と君は赤の他人なんだから」
平行線を迎えた二人の会話。
その終わりは、鉄同士の激しい激突音と共に訪れる。
「死にたくないなら全力で思い出して。おねぇちゃんに出来るのは峰打ちだけよ!」
沙紀美の背を覆う冷たい感触。
ノエルの一撃を受け止め切れなかった沙紀美は、その勢いを地面に背を預ける事でどうにか堪えた。
「だから無理だって!!」
「なら、話をしてあげる!」
眼前に迫る太刀の峰とノエルの顔。
沙紀美にはそれを受け流す技量も、押し返す力も無く、嫌でも聞くしかない。
「あの日、追ってきていたのは殺し屋で目的は私達!理由は私達が忌み嫌われる妖怪憑きの子だったから!!」
「な、なに急に…!」
「いいから聞いて!」
突如語りだすノエルに困惑を示す沙紀美。だがそれは自ら望んで出た言葉ではなく、精神を防衛するかのように自然と口から出てきたものだった。
「私達の住んでいた村は伝承や伝説を妄信する愚かな土地だった。そのせいで私達は小さい頃から迫害されてたの!」
「し、知らない!」
強く否定するも沙紀美の心は彼女の言葉を徐々に傾聴しつつあった。
その理由はノエルの言葉が異様なまでに彼の心の中で存在を大きくしているからだ。
「初めは良かった…!周りの子が悪さをするだけだからまだ平気だった。
……けど、成長するにつれて私の妖怪が暴れるようになったの。私の意志に関係なく!」
金切り音を立てつばぜり合う二人の武器が僅かに均衡を崩す。
「だから必死に抑え込めるように努力した!おかげで何よりも強い武器になった!なのに、なのに!それを認めてくれたのはシエル!貴方だけだったの!!」
一度乱れた拮抗はもう戻りはしない。
抑えきれなくなったノエルの太刀は微かに沙紀美の頬を掠め、地面をめくり上げる。
「だったら!早く本物を見つけないと!」
「それが貴方なの!!」
辛うじて身を捻り、攻撃を避けた沙紀美はどうにか立ち上がり、鉄パイプを正面で構える。
「貴方は、シエルは!いつだって私の傍にいてくれた!!何があっても私の味方でいてくれた!どんなにつらい事があっても、シエルと居られたから耐えられた!!」
振るわれる一対の軌跡。
振り下ろしから流れるように行われる切り上げを、沙紀美は反射的に受けきる。
「じゃあどうして!本人かも知れない僕を攻撃するの!?」
「そうすれば思い出してもらえるからよ!私と貴方(シエル)の記憶は決していい事ばかりじゃない。覚えていた上で私が嫌いならそれは仕方ない!!
でも!!」
再び、激しい音を立てて二人の刃がつばぜり合う。
その衝撃の最中、沙紀美の頬に当たったのは冷たい一滴(ひとしずく)。
「違うなら、思い出して欲しいじゃない…!
暖かい家なんて無くたって一緒に居られるならそれでいい。……そう言ったのはシエル、貴方なのよ?」
それが彼女の涙だと気が付くのに、ひと時の冷静さもいらなかった。
「……それでも、それでも僕は………!」
否定する言葉を並べようと思考を巡らせるも何かが彼を邪魔する。
なんなのかは分からない。だが、彼女の言葉を……話を聞くたびに、胸奥に不可思議な感情が湧いてしまう。
沙紀美はそれを【不可思議】と断定する努力もした。可能な限りの理屈を並べ、否定するに充分な内容だと理解してもなお、彼の口は言葉を、音でさえも、発してはくれない。
けれど、それでもと、可能な限りの拒絶を示そうとした時、沙紀美は気が付いてしまった。
既に自分が、ノエルの言葉を信じてしまっている事に。
【拒絶】。それはつまり、信じたくないと言い張りたいから出てくる感情だ。己の信じている事実にこだわっている証拠だ。それらは彼女の言葉を信じてしまっているから出てくるのに他ならない。
それに加えて彼女のあの目だ。声だ。
可能な限り笑顔でいようとする頬の強張りと、それを裏付けるような声の震え。
どれもそれまで沙紀美の見た事のないノエルの態度なのだ。
……いいや。或いは、そうではないのかもしれない。
見せた事が無いのではない。見せる方法を忘れてしまっているのだとしたら?
自分が本当に信用できる家族のーー弟のシエルにしか見せられないのだとしたら?
普通ならばあり得ないだろう。特定の人物にしか弱みを見せられなくなっているだなんて、まともな境遇で育っていたのなら、そんな発想さえ思い浮かばないだろう。
けれど。
けれど彼女の語った、ほんの僅かな人生は、今の沙紀美には想像もできない環境だった。
【あり得ない】が、既に目の前で【あり得て】いる。
ならば最早、沙紀美の知る常識などあてにはならない。
「……さん」
「……!」
非常識を生きてきた人間の言葉に晒されれば、理想を浴びてきた人間の防衛能力は取るに足らないものと化してしまうのだろう。
「ねぇ、さん…」
「……シエル!!」
沙紀美は自身の想いとは裏腹に、彼女の想いを受け止めていた。
「…うっ!?」
瞬間、沙紀美に走る激しい頭痛。
痛みの稲妻は一本や二本ではない。
五本、六本、或いはそれ以上が、一気に脳内を駆け巡る。
……まるで、失われた記憶が全て蘇っているかのように。
「あ、ああぁぁぁ!!」
「シエル!?!?」
叫ぶノエルの声は激痛に悶える沙紀美の声で届く事は無い。
今の彼の中にあるのは混乱と悲嘆。
何故兄は嘘を吐いたのか、そもそも彼女の言う事は本当なのか、この映像は何なのか、自分はどうしてこの街に居るのか。
溢れ出る疑問を全て解決させる魔法の言葉は無い。
何をどう足掻こうと、必ず何かは否定されてしまう。
沙紀美にはそれがどうしようもなく、苦痛だった。
「……んないよ」
「シエル!」
二人のせり合いは既に終わっている。
沙紀美は手にしていた鉄パイプを放り投げ頭を抱え、ノエルは太刀を片手に行く末を見守るしかない。
その中で沙紀美は、己の中で渦巻く感情に終止符を打つ。
「分かんないよ!」
「!?」
「分かんない、分かんないよ。
急に色々思い出したって、そんなの信用出来っこない。だって、それを信じるって事はアニキを…父さんや母さんや空さんを疑うって事だ。そんなの、僕に出来るわけない。だって、みんないい人なんだ。こんな、人の記憶を奪ってまで自分の子にするなんて酷い事出来るわけない」
「……シエル」
「でも、ねぇさんは嘘を吐いてない。それは分かってるんだ。……ううん。分かったんだ。
さっきので、多分全部思い出した。ねぇさんと過ごした日々。本当の父さんと母さんが僕らにしてきた酷い事。周りのみんなの冷たい…冷たすぎる視線と言葉。
それに、ねぇさんがいつも僕を護ってくれていた事。
だからもう、僕はねぇさんを知らない人だなんて思ったりしない…できない。
こんなに優しくて強い人、僕はアニキ以外に知らないんだ。否定できるわけない」
ゆっくりと頭部から離れていく掌を握りしめ、シエルは想いを紡いでいく。
その上で、彼は口にした。
「だから今はねぇさんと一緒にはいられない。どうしてこんな事が起きたのかをアニキたちから聞くまでは、信用しちゃいけないんだ」
事実を否定する、矛盾した思考。それを今この時だけ、彼は良しとした。
「…ごめんね、ねぇさん」
おぼつかない足取りで踵を返すシエル。
「次に会うまでには、ちゃんと決めておくから。もう少しだけ、ただの沙紀美でいさせて」
返答を求めない口ぶりで言葉を残し、シエルは倉庫を後にする。
「……そんなに、大切なんだね」
嫌味なほど美しい橙色の日差しと虚しいまでのさざ波の音の中、遠ざかっていく背中をノエルは止める事が出来なかった。
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