第8話 衝突


 一陣の風が音も無く流れる。

穏やかながらも不穏さを感じる中で歩道に立ち相対するは、一人の少女と一つの兄弟。

 「……人攫い?」

真っ白な髪を風で膨らませながら少女が呟いた言葉に首を傾げる鱶丸。

辺りを見渡してもそれらしい影は見当たらず、そもそも耳に悲鳴は届いていない。

 「無自覚だなんて、頭に来るわね」

小さく息を漏らした少女は、腰に携えている太刀にも骨にも見える何かに手を伸ばす。

 「ア、アニキ、あの人」

 「知り合いか?」

訪ねられ、背負われている沙紀美が頷く。

 「うん。今日、学校にいた変な人」

 「学校…?」

囁かれるようにして言われた言葉に鱶丸の眉間が僅かに寄せられる。

『今日、学校にいた変な人』

それは恐らく、沙紀美を攫おうとし、青乃を危険な目に合わせたというあの女の事だろう。

その名は、確かーー

 「……ノエル?」

 「あら、案外ちゃんと調べているのね。嬉しくもなんともないけど」

思わず口からこぼれた名前に反応を示す少女ーーノエル。

何かが燻っていた先ほどまでの瞳に、薄っすらと驚きの色が灯っている。

 「…なるほどな。諦め切れなくて待ってたってわけか」

 「まぁ、そっちからしたらそうなるわね。業腹だけど」

鼻で笑い、握った柄が微かに下げられる。

途端、辺りの空気が一変した。

 「……沙紀美。悪いけど、自分で立ってくれ」

 「…アニキ?」

 「そしたら直ぐに離れろ。いいな」

さらされた地肌にべっとりと張り付くような不快感に直感的に気が付いた鱶丸は、未だ状況を飲み込めていない沙紀美に小さく指示を出しながら背から降ろした。

 「わ、分かった」

兄の行動に戸惑いつつも、言われた通りに動き、二人の距離が離れていく。

おおよそ三メートルほどの間が出来た頃。不意に、沙紀美の頬を風が撫ぜた。

刹那。

 「ぐぅッ…!!」

耳を疑う破壊音が響いた。

 「あら、反応が速いのね」

軽快に、けれど異質な音が沙紀美の鼓膜を直撃する。

普通ならあり得るはずのないアスファルトの木っ端が舞い上がっている。

それは、上段からのノエルの一太刀を両腕で受け止めたからだ。その光景はさながら瓦割りをする空手家のように当たり前に映り、異様だった。

尋常ではない光景。フィクションの中でしか見られるはずのないそれは、爆風を伴い再び沙紀美を襲う。

 「うわっ!」

二人を中心地とした強風が、破片を孕み周囲へ吹き荒れていく。

飛ばされた欠片の一部が沙紀美の肩にぶつかり悲鳴が上がるが、対峙している二人には届いてはいない。

 「ぐ…ッ!クソ!はええ!!」

太刀の腹から伝わる有り余るほどの力の奔流を受け止めている鱶丸の両腕から身体を走り抜けていく激痛。叩きつけられる感覚と軋む音が教えてくれるのは腕部の骨に現れた異常だろう。

だが、幸いにも流血はない。

顰めるしかない鱶丸の瞳から覗けるのは人の骨を模したような鞘であり、白銀の光沢を帯びた刃ではない。

鱶丸がノエルの一撃を受けた瞬間に脳裏を過った最悪の展開、[一撃での戦闘不能]だけは避けられたらしい。

 「でも」

明らかに人間の域を超えた彼女の力。にも関わらず、ノエルは額に一滴の汗すら滲ませはしない。

それはつまり、今のコレは、必殺の一撃ではない、という事に他ならない。

で、あるならば。

 「なッ!?」

必然。二撃、三撃と追い打ちが繰り出されるだろう。

 「ごめんなさい。あんまりにもいい隙間があったものだから、つい」

腹部に鋭い鈍痛が滞在している鱶丸を、ノエルは太刀を払い下ろし、乱れてしまったスカートを何食わぬ顔で正しながら眺めている。

嗚咽を漏らし、エビのように背を曲げながらも鱶丸の視線はノエルから外されずにいるが、決して易い攻撃ではない。

吐血こそないものの、臓器が受けた被害は激しい。

嘔吐もせず、膝も屈さずにいる状況は奇跡とまで言えるだろう。

 「…っは!随分お上品な膝蹴りだな。お陰で目が覚めたよ」

その上で鱶丸は挑発を口にした。

 ーーここでもし俺が倒れてしまえば、沙紀美の事をこの女から気を失ってまで護ってくれた 青乃に顔向けできない。

彼を立たせているのはそんな想いだった。

 「えぇ。この服を戴いた時もそう言われたわ。『こんな綺麗な人に着てもらえるなら嬉しい』って」

 「……あぁ、そうかい。そりゃあ良かったな」

そんな覚悟を露ほども知らないノエルは、挑発をそのまま返したつもりなのか、本気で言っているのか、そう答える。

 「ありがとう。でも、貴方に言われても嬉しくはないわね」

だが、その視線は鱶丸を捉えてはいなかった.

小さく頭を振って長髪を整えながら彼女が見ているのは遠くで腰を抜かしてしまっている沙紀美だ。

 「……シエル」

まるで眼中に鱶丸はいないと言わんばかりに沙紀美のみを気にかけるノエル。

 「おい、どこ見てんだ。まだ終わってねぇだろ」

この場からノエルが離れてしまわないよう、鱶丸は彼女の意識を引き付けようと声を上げる。

だが、彼女の視線が下げられはしない

 「おい!喧嘩の相手から目を逸らす奴があるか!!」

声を荒げ、襟首へと手を伸ばす鱶丸。

しかし、その腕はすぐさま掴まれてしまう。

 「……やっぱりね。貴方、私を馬鹿だと思ってるの?」

 「何!?」

鱶丸の腕に走る強い圧迫感。

脳に駆けていく骨の軋みに顔を歪め、振り払おうとするも、ピクリとも動かない。

 「殺意も何もない相手と戯れるほど私は暇じゃないのよ」

変わらず向けられる事のない視線。

けれど、握られたままの鱶丸の腕は更に悲鳴を上げている。

 「ぐぅっ…!」

 「…見たところシエルの身体に傷はないみたいだし、背負ってたって事は少しは情があったのよね?

………なら、今回は特別に許してあげる。あの子に危害を加えていないのなら、殺す理由はないわ。疲れるし。何より、早く抱き締めたいしね」

吐き捨てるような、心の底から相手にしていないような、聞き手の神経を逆なでする物言い。

それは、文字通り[相手にならない]と、そう告げられていた。

事実、鱶丸とノエルの間にある力の差は歴然だった。

最初の一撃といい、二度目の膝蹴りといい、どれも鱶丸にとっては致命傷に成り得るものだった。

対してノエルは傷を負っていないどころか呼吸一つ乱さず、汗の一滴すら浮かべていない。あまつさえ、ただの一握りで鱶丸の右腕の動きさえ封じ込め、骨に深刻なダメージを与え続けている。

 「……だね」

 「…何?」

だが、それでも。

 「嫌だね。そう言ったんだ」

彼の瞳から闘志は燃え去っていなかった。

いいや。それどころか、寧ろ大きく滾っているようだった。

 「最初からやる気がない?……あぁそうだろうな。『何があっても女は殴るな』。親父に教わった、男であるための約束事だ。『体格差でも、力量差でもない。[もし殴った相手が自分の愛する女(ひと)だったら]それを常に考えろ』そう言われて育ってきたんだ」

鱶丸は丸まってしまっている背をゆっくりと持ち上げながら握りしめている襟首にさらに力を籠める。

 「へぇ。まるで手を出せたら勝てるみたいな言い方ね」

つい先ほどまでは感じる事の出来なかった[それ]を、掴んでいる腕から感じ取ったのか、ノエルは微かに片頬を吊り上げながら沙紀美から視線を外す。

 「……多分、勝てないだろうな。でもな、そうまでしてお前が沙紀美にこだわるなら話は別だ」

そうして彼女の目に映ったのは、口端から赤い筋を作った鱶丸だ。

 「これは俺の覚悟の問題でもある。今まで守ってきた約束と、もしかしたら事実かもしれない出来事を、否定するのが嫌だったんだ。

だけど。今さっき決心がついた。

俺は、人から託された想いよりも、お前(たにん)が抱えてきた想いよりも、沙紀美と居る日々を選ぶ」

 「……………ふぅん」

彼の口から示された言葉に違わぬ決意を胸にした発言。

それを耳にした途端、ノエルの表情から薄い笑みさえ消えた。

 「お前とあいつの関係なんざ知った事か。沙紀美がしらねぇっつんならお前は赤の他人だ。それはきっと俺にとっての都合のいい解釈かもしれねぇが、それが何だってんだ。沙紀美は家族で、俺の弟だ。それ以上でもそれ以下でもねぇ。

だから、かかって来いよ。お前が力ずくだって言うなら、こっちだって力ずくだ。負けねぇよ」

 「分かったわ」

鱶丸が全てを言い終えると同時、彼の身体に違和感が走る。

意識の埒外から訪れたナニカ。それがあるだろう自分の脇腹へ、視線が反射的に移動する。

 「盗人の分際でよく回る口だこと」

驚くほど冷静に回転する鱶丸の頭が捉えたのは、少しずつ周りよりも色が濃くなっていく学ランだった。

 「その服、結構分厚いのね。まぁ、あまり関係ないけれど」

話を終えながら、一気に引き抜かれていく太刀。

刀身の中ほどが赤黒く、薄っすらと夕陽じみていた太陽の光を反射させていた。

 「即死……じゃないけど、直ぐに手当てしないと本当に死んじゃうわよ」

そう言って太刀に付いた液体を一振りで地に払い落すと、ノエルは腰に携えた鞘にしまい入れた。

トクリ、トクリ、と小さな湧き水のように腹部から血液を溢す鱶丸。

出血量こそ大したものではないが、一向に止まる様子がない。

 「それじゃ、私は行くから」

自身の脇腹に手を当て、絶えずこぼれる血液に目を奪われる鱶丸に別れを告げ、ノエルは再び沙紀美に視線を戻そうとした。

恐らくは確信したのだろう。

今日既に与えた三度の攻撃に加え、今の一太刀だ。これだけの痛手を与えればどんな人間でもーーいや、ダメージの度合いから言えば、殆どの動物だってその場に蹲り痛みに耐えるしかなくなるはずだ。

更に言えば、度重なる攻撃で命を奪えなかったにしろ、このまま出血が長引けば死さえ有り得る。本能で生きる動物や訓練を受けた人間ならまだしも、ただの人間がこの状況で自身の命を優先しないわけがない。

それが彼女がこれまでに得た経験であり、ほぼ絶対のルールだった。

稀に見られる死に屈しない行動でさえ、彼女にしてみればただの自暴自棄でしかない。

[ただ死ぬくらいなら、一矢報いてやる][背後で隠れている子が逃げるための時間を稼ぐ]。ただそれだけでしかなく、そこに自身の命を入れた損得勘定はなかった。

そんなものに興味を抱く事ほど時間の無駄は無い。そう彼女は思っていた。

何があろうと、生きて、叶えなければならない事がある。

彼女が生き続ける理由がそれなのだから。

 「待てよ」

だからこそ。

 「まだ、終わってないだろ」

 「……へぇ」

喉を遡ってきた血液を吐き出しながらも呼び止めてくるこの男に、ノエルは初めて興味を抱いたのだ。

 「確か、吐血ってのは臓器がやられた時に出るんだっけか。道理で血が止まんねぇわけだ。ありがてぇ事に、沢山は出てないみたいだけどよ」

彼は言っていた。多分、死ぬだろう。と。

彼は知っている。このままでは死んでしまう、と。

けれど、それでも。

この鱶丸という男は立ち上がり、闘志を胸にしていた。

決して自暴自棄になどなっていない、生を渇望した瞳を持って。

 「そうなの?博識なのね。

私は吐かせるばかりでよく知らないけれど、そうなってる人が言うなら説得力はあるわね」

 「だろう?これでも成績はいいんだぜ」

鱶丸は会話をしながらズボンに手をかけ、何かを取り出し始める。

 「何してるの?」

 「気にすんな。痴漢とかじゃねぇよ」

ほんの少しの間もぞもぞしたかと思うと、鱶丸の手には黒く若干太いベルトが握られていて、それで傷口を隠すように腹部に回した。

応急手当を心見たらしいが、圧迫が不十分なのか血液は止まっていない。

 「……それ、意味あるの?」

 「これ、怖いか?」

鱶丸の問いに小首を傾げるノエル。

 「じゃあ、意味はなさそうだな」

それを見ると、少しだけ笑いそう答えた。

 「さてと。…待たせたな。続きをしようぜ」

朱色に染まった拳を握り締め、戦闘態勢をとる鱶丸。

彼の身体の周りには可視化できるのではないかというほどに闘志が溢れている。

……溢れて、いるのだ。

 「……えぇ。いいわよ。貴方がそう望むのなら、相手してあげる」

納刀している太刀を引き抜き、鋭い音をもって空を裂くノエル。

けれど、その瞳は淡く閉じられている。

 「…どうした、眠いのか?」

 「……いいえ、まさか。ただ、お祈りをしてたの」

 「ははっ。そりゃあいい。俺も勝てるようにお祈りしとくかな」

 「えぇ。悪くないわね」

再び開かれるノエルの瞳。

その視線が捉えているのは、鱶丸ただ一人。

朱く濡れた両拳を構え、両の脚で立つ男。

だがその姿は、誰が見ても戦える様子ではなかった。

拳は握られていても構えられてはおらず、立ってはいても踏ん張りが利いていない。

言い換えるなら、ノックダウン寸前のボクサーだろう。

それでもノエルに[構えている]と幻覚を見せたのは、彼の背後に立ち込める戦う意志ーー鬼気迫る決意を纏った者にのみ許された、気迫だ。

 「……シエルが貴方とどんな関係は知らない。それを認める気も許す気も無いけれど。

貴方の、その心の在り方は認めてあげるわ。あの子は、幸せな子ね」

 「言っただろ。俺達は双子の兄弟だ。ちょっと珍しい、学年違いの、な」

 「…しゃべり過ぎたわね。そろそろ、終わりにしましょう」

柄に手を添えたノエルの辺りから空気の乱れが消える。

まるで呼び寄せたような無風の時に、両者の呼吸が整えられていく。

見る者全てに戦慄を与える静寂の中。

軌跡が、同時に走った。

 「そこまで!!!!」

閃光と見紛うほどの攻撃は、けれど両者の喉元に届いていない。

二人の必殺を込めた一撃が捉えるは無の空間。

ノエルと鱶丸。互いの瞳が交わる空間に、微量な粒子が集まっていく。

 「その死合い、俺が預かる」

やがて容(かたち)どられたのは森田に憑いている妖怪のセトだった。

 「……ガラクタの分際で、どうして私達の邪魔をしたのかしら」

セトの右腕で止められた太刀をカタカタと震わせながら問うノエル。

 「鱶丸の後方を見てみろ」

今にも追撃を放ちそうな彼女に、けれどセトは冷静に答えた。

 「……シエル?」

言われるがまま視線を向ければ、確かにそこに居たはずの沙紀美の姿がどこにもなかった。

 「…この分だと、鱶丸が逃がしたわけじゃなさそうだな。

おい、刀女。もしかしたら、大変な事になったかもしれないぞ」

 「ど、どういう事よ!」

シエルが消えた事に驚きを隠せていないだろうノエルはすぐさま太刀を下ろし、セトの首元を掴む。

 「落ち着け!…って言ってもしょうがないか。

まぁいいや。とにかく、オレが今から話す事は憶測だがそれでもいいか?」

セトの言葉にノエルは力強く頷く。

 「ついさっき、オレの主とその相方から聞いた話なんだが、お前が今やり合ってた鱶丸って奴は、どうもこの辺じゃ妙に狙われているらしくてな、敵が少なくないらしい。

そのうちの誰かが沙紀美…お前が言うにはシエルか?をかどわかして、こいつを呼び出そうとしてるらしいんだ」

 「かどわかす…って事は、つまり」

 「あぁ。誘拐だ」

言うや否や、掴んでいた手を離して駆けだそうとするノエル。

その肩を直ぐにセトが掴んだ。

 「離しなさい。それとも、離してほしいのかしら」

 「したけりゃしてもいい。代わりに、めぼしい場所は教えないけどな」

 「…ッ。いいわ。早く教えなさい」

セトに言われ気が付いたのか、ノエルは今にも走り出しそうになる脚を止め振り向いた。

 「ここから少し離れた所の、観光地として有名な街の外れにこの辺一帯の流通を担う倉庫街がある。

基本的には人の出入りが多い場所なんだが、一区画だけ災害用に備蓄してる倉庫群があるんだ。中でも寝具やらびにーるしーととかの日用品をしまってある場所に、かどわかすくらい平気でやる奴らの隠れ家があるらしいんだ」

 「そこにシエルがいるかもしれないのね」

 「あぁ。だが、さっきも言ったようにこれはあくまでオレ達側の憶測でしかない。

単に沙紀美が隙を見て逃げたって線も有り得る」

居場所の検討を伝えるセトの兜らしき部分を見つめながら話を聞くノエル。

今の話に嘘が無いと感じたのか、ノエルは一度瞳を閉じると小さく頷いた。

 「…話は分かったわ。

けど、どうしてそれを私に教えるの?一応私、あなた達を襲ったはずだけど?」

眼光鋭く、当然の疑問を口にする。

普通なら教える必要などないどころか、寧ろ秘匿した方がいいだろう。

 「まぁな。本当は教えたくねぇけど、オレ達はあくまで鱶丸(コイツ)と沙紀美を護りたいだけだ。こいつらとどういう関係かは知らないが、少なくともお前は沙紀美に手を上げたりはしないと思ってな。

仮に聞いた通りにかどわかされてた場合、相手の総数が把握しきれてないんなら人数が多いに越したことはねぇ。それに妖怪憑きがそいつらの頭張ってたのは間違いないらしいしな。もし手下にそんなのがゴロゴロいたらオレらだけじゃ少し厳しい」

だがそれでも協力を仰ぐという事はそれなりの事情が絡んでいる以外に理由はない。

セトの説明に納得がいったノエルは小さくため息を吐くと、若干呆れた様子で口を開く。

 「つまり、体のいい助っ人ってわけ。舐められたものね」

 「この国じゃ呉越同舟って言うんだ。利害の一致した敵との一時的な協力の事をな」

 「なんだっていいわ。私はあの子が無事で、また一緒に暮らせるようになれればそれでいい。

…ま、情報の提供には感謝するけどね」

言葉を漏らし、再びセトに背を向けるノエル。

今度は観光地側の方を向いている。

 「ならその分働いてくれよ。向こうには先にオレの主たちが先に行ってるはずだ」

 「心配しなくてもシエルを攫った奴らを殺すまでは誰にも手を出さないわ」

振り向く気もせず言い切ると、ノエルは今度こそ沙紀美を助けに行くため走り出した。

その後姿は脱兎の如くアスファルトを駆けていき、まばたきの間もなく姿が見えなくなった。

 「……さてと。これで向こうはとりあえず平気だな。後は…」

辺り一面が平穏さとはかけ離れてしまった路上で残されたセトと鱶丸。

 「あの話聞いても動けねぇって事はそこそこヤバいかもな」

彼女の手元で抱えられるようにしている鱶丸には意識がなかった。

乱暴に過ぎる応急処置からこぼれ続けている血液。鱶丸の立っていた場所からノエルと打ち合うはずだった場所まで点々と赤い瘢痕が連なっている。

 「……医者、は無理だよなぁ。ほけんしょう?とか言うの必要らしいし」

鱶丸を、所謂お姫様抱っこで持ち上げながら頭を悩ませているセト。

兎にも角にも、まずは移動しなければならないだろうと考えたセトは鱶丸の家の方へ向かおうと歩き始めようとする

と、その時、彼女の頭にふと考えが浮かんだ。

 「……まぁ、一番確率は高いよな。………緊急事態だし」

鉛のように重たい言葉を漏らし、セトは歩き始めた。




   -------     ------ー    ------- 


 そこはとても暗い空間だった。

だが、あの時少年が感じた暗さとはほんの少しだけ違う。

僅かにぼやけるような……いうなれば、太陽や電気を直視した後に瞳を閉じると出来る淡く白い靄を、少年ーー沙紀美は感じていた。

ーーーまた、夢?

口を開いた感覚を感じながらも、声が出ている気はしない。

ーーー気分が悪いなぁ…

もう一度話してみるが、あるのはやはり口の動いた感覚のみで声が出た感じはしなかった。

一日に二度も意識を失うなんて珍しい…などと、混濁する思考の片隅で沙紀美は妙に冷静さを保っていた。

それに安心感を覚えたのか、今度は何故自分は気分が悪いのかを分析し始める。

ーーー熱中症?でも飲んだもんな。後は、疲れたとか?…ううん。むしろいつもより仕事が少なかったからそんなことないはずだし。

原因となりそうなものをいくつか浮かべては直ぐにそれを否定していく沙紀美は、不意に眩暈を覚えた。

ーーーうぅ…頭がくらくらする。

思わず出てしまった言葉。

やはり熱中症だったのだろうかと疑問に結論付けようとした時、唐突に沙紀美の身体に冷たさが駆け巡った。

 「うわぁ!?」

 「さっきからうるせーぞ!!」

頭部から下に向かって滴り落ちていく違和感の正体を掴む間もなく鼓膜を刺激する怒声。

しかしそれは、怒っているというよりは興奮していると言えるような類のものだった。

 「…なーんて、水ぶっかけるのも久々だな。へへ」

 「み、水…?あ、ほ、ホントだ」

沙紀美の目の前で尻をつけずに腰を下ろしている、毛端が銀色の少年。手元には水滴が零れ落ちるバケツを持っている。

 「ちょっと山銀(やましろがね)、ソイツはあくまで人質なんだから、あんまり手荒にすんなよ」

 「そうよ。死んじゃったらどうするの?」

 「はぁ?クスリ使って拉致らせといて、今更何言ってんだ」

混乱する沙紀美を他所に、山銀と呼ばれた少年の後ろから現れる二人の女性。

一人は金髪で釣り目をしたすらりとし、もう一人は髪型こそオレンジ色でセミロングだがそれ以外はかなり似通っている。他に似ていない部分があるとすれば胸元にほんの少しばかり差があるくらいだろう。

見たところ三人は学生のようだ。 

 「……まぁいいや。イカれ姉妹に何言ったってしょうがねぇ」

 「「イカれド畜生のお前よりはマシだけどな(ね)」」

声を揃えて否定されるも、特に堪えていないのか山銀は沙紀美に視線を向け直し。

 「とまぁ、そういう事だ。俺は手元が狂ってお前の事殺しちまうかも知れねーけど、そん時は勘弁な」

両手を合わせて片目を閉じ、どこか楽しそうに口端を吊り上げて言い放った。







to be next story.

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