第3話 予兆
海風にのって鐘の音が響く。
鉄筋作りの巨大な施設に向かって歩を進める幾人もの少年少女。
彼らは皆、同じような服に身を包んでいる。
開かれた車輪付きの門付近に立つのは紺色のジャージに身を包んだ妙齢の女性。
心地の良い海風でポニーテールの毛端がなびいている。
「やぁ、おはよう。休みボケはしていないだろうな」
その横を通り過ぎ、門のレールを越えていく男女は軽い会釈をして彼女とあいさつを交わす。
誰もが彼女に対して微笑みを浮かべている事からも、人望の厚さが伺えるだろう。
「漆先生、おはよーです」
人の波がちらほらと引き始めた頃、夏の終わりに差し掛かっているとはいえまだまだ暑い日差しの中を学ランを羽織って歩く青年が彼女に声をかける。
「ん。おはよう、鱶丸。相変わらずその恰好なんだな」
「落ち着くんですよね。これだと」
「そうか。ま、せいぜい風に飛ばされないよう気を付けるんだな」
入り口の前に立って軽い会話を交わす二人。
ここは、鱶丸と空が通う市立甲斐総高校だ。
生徒数約四百五十人という、鱶丸たちが住む県の中でも特に多い数の学生が在籍する中学校であり、今日が夏休み明け初日の登校日になっている。
およそ一週間ほど前に怪事件に遭った鱶丸だが、目立った外傷がない事や、それ以降におかしな目に合っていないため、休まなかった。
なお、一つ下の学年である沙紀美は所属している委員会の都合で朝早くに登校している。
「そうですね。ま、先生みたいなヘマはしないよう気を付けます」
「お前っ、それはもう忘れろと……!」
「いや、無理ですよ。あんな面白い事件」
鱶丸の言葉に焦り、動揺を見せる漆。
彼女は以前、宿直をしている時に着ていた服を濡らしてしまい乾かしていたところ、夜風に下着の上が飛ばされ、校庭の端にある巨木の中腹付近に引っかかってまった事がある。
翌日、校内清掃をしていた生徒会役員たちがそれを見つけ、かなり話題になった。
当然教師である漆が名乗り出るわけにもいかなく、事件は迷宮入りになった。
……のだが、生徒会役員の一人である沙紀美の手によって下着は無事、白佐碼 漆教諭の元へと返され、事件は終息した。
彼女に返す事が出来たのは、下着の破棄を頼まれてしまった沙紀美の相談に乗った鱶丸が夏頃の友人の話から所有者を特定できたからだ。
男子中学生の好奇心旺盛な行動が良い結果をもたらした数少ない例の一つだろう。
「おっと。予鈴だ。それじゃ先生、またあとで」
「あ、あぁ。またあとで。……ではなくてだな!!」
鳴り響く鐘の音に慌てて校舎へと駆けていく鱶丸。
その背に漆の懇願が飛ぶが、彼の耳には届いてはいなさそうだった。
騒々しさに満ちた一室。
今朝までは几帳面に並べられていたはずの机たちは既に過去の産物と成り果て、再び一時的な所有者となった生徒たちが、各々の座りやすいように位置を若干ずらしている。
およそ三十人ほどの生徒が久しぶりの再会に喜び、休日の出来事で話に華を咲かしている中、半開きになっている教室の扉が完全に開かれる。
「よう、おはよ」
現れたのは僅かに額に汗を浮かべた鱶丸だ。
「おー、おはよう海原。初日からダッシュか?」
「おは~。暑いのに相変わらずだね。沙紀美ちゃんみたいに半そでにすればいいのに」
「ははは、うるせー」
教室に入った途端、彼の元へと男女問わず何人かの生徒が集まっていく。
「そういやコイツ、夏休み中もこの格好だったぜ」
「え、それホントかよ」
「ん?あぁ、まぁな」
「うっわ、馬鹿でしょ」
「そうか?中々過ごしやすいぞ」
「そりゃあ、一番着慣れてるでしょうからね……」
その人数は一人、二人と増えていき、気が付けば十人近くなっていた。
それまで多岐に渡っていた生徒たちの会話は一瞬にして海原 鱶丸一色に変わっていく。
近くに寄ってきていないクラスメイトでさえ彼の話題になっていた。
……それが、いいモノであるかは別だが。
「あ、鱶丸。遅かったね」
彼の元へ寄っていたクラスメイト達が一言二言あいさつを告げ離れていく中、一人、近づいていく女生徒がいる。
「あぁ、空。おはよう」
「うん、おはよう」
三つ編みのおさげを揺らし、ハトのようなフィンチメガネから瞳を覗かせるのは山鳩 空。
一週間前に鱶丸、沙紀美と共に怪事件に遭遇した、彼の幼馴染だ。
「寝坊?」
「んーまぁ、そんなとこだな」
「なにそれ。どうせまたゲームでしょ」
「まーそうだな」
「……ふーん。ま、いっか」
二人は会話を交わしながら自分たちの席がある窓際へと移動する。
「宿題、忘れてない?」
「多分大丈夫だな。一昨日確認した」
鱶丸は手にしたままだった学生鞄を机に置き、椅子に腰を下ろした。
その姿をジットリとした目で見ていた空も、同様に自分の席に着く。
「……鱶丸、前もそう言って宿題忘れたことあるでしょ。なんで昨日確認しなかったの?連絡もしたのに」
非難するような、呆れているような口調で問いかけるも、鱶丸にはそれを気にした様子はなく、何かを思い出したように微笑むと。
「いやー、ボス戦がアツくてな」
と、感慨深そうに返した。
「……はぁ」
額に手を当て、空は大きなため息を溢す。
それを聞き、鱶丸は心外そうな表情を彼女に向けた。
「なんだ?お前から借りたゲームだぞ。主人公と従妹が戦うってやつ」
「まぁ、そーだけどさ……。で、どうだった?倒せた?」
「いや、途中で寝落ちして、朝起きたらやられてた」
「……鱶丸って、ホントバカだよね」
「ムービーがなー、ちょっと長すぎて」
「そこが見どころなんだけど…?」
背もたれに身体を預けてため息交じりに漏らす鱶丸に、空は再び額に手を当てて呆れていた。
「おはよう。すまない、みんな。少し遅れた」
二人の会話が途切れるとほぼ同時、教室の扉からタイトスーツ姿の漆が現れる。
若干息を意切らしているのは、本来の開始時刻より数分遅れているからだろう。
「では、これよりホームルームを始める。委員長」
彼女の合図によって号令が掛かる。
クラス全員が一斉に立ち上がり椅子や机を引きずる音の中、すっかり使い慣れた決まり文句が空の声で響いた。
「さて、これで一通りの連絡は終わったな。
……それで、最後の連絡事項だが」
残りホームルーム時間二分弱という所で妙に勿体ぶった言い方をする漆。
どこかそわついた様子から察するに、今日最も伝えたかった事柄らしいが……。
「喜べ!お前ら!!来月には学校祭があるぞっ!!!!」
ハイなテンションで教卓を叩き拳を突きあげて告げられたのは、学生生活の中でも特に大きなイベントの一つだった。
この甲斐総高校で行われる学校祭は二年に一度。学年によっては一度しか経験できない、修学旅行と同じくらい重要な行事だ。
そして鱶丸が在籍する二学年は正にその一度しか経験できない年の入学生にあたる。
ともなれば、学校祭は二学年の生徒皆々が待ち望んだに違いないイベントのはずだった。
……しかし。
「………あれ?」
クラス全員から聞けるだろうと思っていた歓喜の声は全くなく、あえて興奮気味に発言していた漆が驚くほど浮いていた。
「学校祭、ねぇ……」
「面倒だなァ」
どこからともなく上がる不満の声。
それは一つや二つではない。
「そもそも準備期間がみじけーんだよ」
「あ~わかる~~。学生生活送りながらお店とかの準備して、間に合わなそうなら休みと放課後返上だもんねぇ~」
「最早ブラック企業……もとい、ブラック学校」
「ゴミかな?」
「ゴミでしょ」
「少しは俺らの事情も考えてくれっての」
「「「「「なーーーーー」」」」」
沸々と沸き上がる負の感情。
それらは初め冗談交じりの、得てすれば面白くも聞こえる会話だが、次第に増していく険悪な雰囲気は下手に長引けばボイコットを呼び起こしそうなまでに膨れ上がっていく。
「うるさーい!!!」
それを感じ取ったのか漆は再び教卓を叩き、一身に生徒の視線を呼び込んだ。
「お前ら!ブラック舐めんな!!まずはなぁ!教師の仕事を体験授業するかあぁん!?」
「あ、やっべ。サメちゃんが怒った」
「これはジョォォォズになりそう」
「うるさいうるさい!
ともかく!君らが何を言おうと学祭はやるんだから、面倒でもやれそうな出店を決めておくように!!」
漆が言い終えると同時、教室内にホームルーム終了のチャイムが鳴り響く。
「てーことで、空と鱶丸は来週のこの時間までにアンケートを取っておくように!以上!良い新学期を!」
最後に学級委員の二人に仕事を任せ、漆は教室を出て行った。
それを皮切りにそれぞれ教室を後にしていくクラスメイトたち。
行き先は別クラスの友人のところやトイレだろう。
「……だって。どうする?」
「どうするったって、なぁ…」
流れに乗らず、机に着いたまま会話を続ける二人は仕事を任された空と鱶丸だ。
「………とりあえず、今日の放課後は残ってもらうか。幸い、新学期初日は全部活休みだしな」
「ま、そうなるよね。
それじゃとりあえずクラスのSNSにメッセージ流しておくね」
「おう。頼む」
視線を交わし合った二人はそれぞれ、放課後に向けて必要な物の準備に取り掛かった。
そうして訪れた放課後。
「さて、クラスのメッセージを見て残ってくれたみんな。これから学校祭のやりたい事アンケートを取るぞ!」
教室内の机を埋める、おおよそ四分の三のクラスメイトたち。
メッセージを送るのが早かったおかげか、相当数の人数が残ってくれていた。
「なー鱶丸。ここにいない奴らはどうすんだ?」
そのうちの一人からあがる疑問の声。
「そんなの俺が知るか。自分の責任くらい自分で取ってもらう」
「うはは!流石に容赦ねーな」
一切の迷いなく言い放たれた彼の考えは、どうやら聞き手の考え方と合ったらしくそれ以上の詮索は無かった。
「他のみんなにも一応言っておくが、朝の段階で連絡したにも関わらずここにいない奴らの事は基本無視してくれていいからな。
事情があってこれないって奴からは意見貰ってるから、それとだけ照らし合わせる。それ以外は知らん。文句言われたら俺のとこに来るよう言っといてくれ」
「「「「「あーーーい」」」」」
「よし。じゃ、さっそく用紙を配るから、そこにやりたいものを三つまで書いてくれ」
教卓の中から束になっている紙を取り出しながら言うと、半分を空に渡して端から配り始める。
「んじゃ、ちょっと長いが十分経ったら集める。
終わったら邪魔にならない程度に話したりして待っててくれ」
鱶丸の言葉を合図に響き始める筆記用具の走る音。
なんだかんだ言って皆楽しみなのか無駄口を叩く者は少なく、時折聞こえてくる話声は『何がいいかな』というような相談だけだった。
……が、そんな授業風景よりも真面目なのは少しの間だけ。五分後には見る影も無く賑やかになっていた。
「……さてと、空」
「うん、そろそろだね」
気が付けば休み時間と大差のない騒がしさになっている中会話を交わした二人。
そのうちの鱶丸が立ち上がり、軽く息を吸い込むと。
「さて!時間になったから後ろから集めてくれ!」
大きく声を張り上げ、回収を促した。
「ーーーよし。これで全部だな」
「こっちも集め終わったよー」
再び熱を帯び始めた会話の中、用紙を集め終えた二人は最後に手違いがないか枚数を数え終えると紙を一度教卓の上に置き、皆の前に向き直る。
「折角の早帰りの中悪かったな。アンケートの枚数のズレも無かったし、これは問題なさそうだ。
そんでもう一つ、みんな的には他のクラスや学年と出し物が被るのがアリかナシかを聞きたいんだ。どこまで要望が通るかはわからんが、一応今から【アリ】【ナシ】【どっちでもいい】で多数決を取りたいと思う」
「それが終わったら解散だ」と、一言付け足し、全員の様子を伺う鱶丸。
それぞれの顔から不満さを感じず、進行に問題がないと判断した鱶丸は空を一瞥すると。
「よし。んじゃさっさとやっちまうか」
最後の仕事に取り掛かった。
僅かに傾き始めた太陽の下を歩く三人組。
彼らの顔には柔らかな笑みが浮かべられている。
「アニキ、空さん。クラスの出し物決まったら出来るだけすぐに教えてね」
「おう。早けりゃ明日中には生徒会に渡しに行けるぜ」
「白佐碼先生のチェックが終われば、だけどね」
「了解」
穏やかに会話をするのは鱶丸と空、それに委員会活動を終えて合流した沙紀美だ。
「あぁ、そうそう。他の奴らの出し物と被らないようにしたいんだけどさ、それって教えてもらったりできるか?」
「んー、多分大丈夫だけど、一応会長に聞いてみないと何とも言えないかなぁ。
けど、例年そういう人が多いらしいし、詳細は無理でも被ってるかどうかくらいなら教えてもらえるんじゃないかな」
「あぁ、それで構わないから是非教えて欲しい。
…まさか、あんなにやる気がないって言ってたみんなが、満場一致で『被るのは嫌だ』って言うなんて思わなかったからなー。後が怖い」
「けど、最初に『無理かも』とは言ってたし、大丈夫じゃない?」
「まぁ、それはそうだけどさ」
頭の後ろで手を組みつつ表情を曇らせる鱶丸。
空の言うように予防線は張ったが、それはそれだ。期待を持たせた以上は全て叶えるべきだろう。彼はそう考えていた。
「……ま、ダメだったら俺が直接別クラスの奴らに聞きに行けばいいか。他学年は無理でも同級生なら大丈夫だろ」
結局、悩んでも仕方ないと考えたのか、鱶丸は組んだ手を解く。
「そうなったら私も先輩とかに聞いてみるから安心してね。
それじゃ、こっちだから」
彼の結論を聞いた空は同意を示すと、鱶丸たちとは別の方向にある住宅街へと身体を向けた。
「おう、また明日」
「さよなら空さん」
「うん、バイバイ。沙紀美君、鱶丸」
軽く手を振り別れを告げ合うと、空は一人、住宅街へと歩を進めていった。
「……結局、何も聞かれなかったね」
「あぁ」
遠ざかる後姿を見つめながら口を開いた沙紀美。
一週間前の事件。アレをそう簡単に忘れられるはずがない。だが空は、共に被害にあった二人に何も語らず、聞かなかった。
或いは森田たちの言うように悪い夢だと思ってくれているのかもしれない。
……いいや、そんなはずはない。その後の意識はあり、共に本を買いに行った。ならばアレは事実に相違なく、白昼夢と割り切るにはあまりに前後が確かな記憶として残った。
考えられるとすれば……
「…いや、やめとくか」
「うん?」
前触れなく漏れ出た鱶丸の言葉に反応する沙紀美。
だが鱶丸は頭を振って小さく微笑んだ。
「いや、何でもない。
さて、俺たちも行くか。アンケ纏めなきゃいけないしな」
「そうだった!僕も学校祭の資料作んないと」
互いに小さくため息を吐いた後、二人も我が家へ向けて再び歩き出した。
ーーそう、考えられるとすれば、彼女は今必死になって忘れようとしている事だ。
古くからの友人の首を自ら締め続けたその感触を、今まで通りに振舞う事で記憶から消そうとしているのだ。
事実を受け入れろと言うのは簡単だ。しかし、ただの学生である彼女にはこの上なく酷な注文であり、受け入れれば二度と同じ関係にはなれないだろう。
少なくとも、両の掌に残る生暖かい感触が消えるまでは。
ーー安心して忘れてくれ、空。誰も、責められないんだからよ。
僅かに夕焼けを帯びてきた空の下を二人は進んだ。
遠くから響く波の音に気が付きもせずに。
to be next story.
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