第2話 遥かなる遠雷
窓の外から聞こえる小鳥のさえずり。
緩やかに鳴りを潜めていく微睡に別れを告げて沙紀美は身を起こした。
僅かに力の入らない左手。
原因は寝起きだからだけではないだろう。
「…………」
枕元に置いてあるのは兄の鱶丸に借りた漫画。
その日あった出来事を少しでも忘れるために読んだその本は、今では、アレが紛れもない現実だったと証明してくれる悪魔の書となってしまった。
「夢だったら、良かったのに」
眼前で起きた戦い。
それは既に、常識の範囲にあるものではなく、彼の身を強張らせ、親しい友人が、自分の兄の首を絞めた姿は、自分の正気を疑うに足る光景だった。
ーーあの時にもしも、自分に何かできたのなら空の心の傷はもっと軽かったはずだったんだ。
彼にはそう思えて仕方がなかった。
「強く……なりたいな」
沙紀美は両手を固く握りしめ、同様に瞼を閉じる。
数秒後。彼は胸の内にわだかまる後悔の念を押し込めるように俯き、小さく息を漏らして立ち上がろうと手をついた。
「よ、おはよ」
「おはよ、アニキ」
その時になって聞こえた男性の声。
それは紛れもなく兄の鱶丸のもので。
「……いつから、そこにいたの?」
「強く、なりたいです」
沙紀美の抱いた疑問と困惑は、羞恥心へと即座に姿を変えた。
「…………!!!」
「お、おい、沙紀美?」
発する言葉はなくとも、真っ赤な彼の顔が次にとった行動は鱶丸に冷や汗を流させるのに充分だった。
「……なぁおい、いい加減機嫌直してくれよ」
「…………」
腕を組み、隣に座る頬の赤い鱶丸にそっぽを向いたまま一言も言葉を返さない沙紀美。
二人は今、観光地とは別の場所にあるファミリーレストランに訪れていた。
この辺りに住む人たちは基本的に、人が多く活気に溢れている海に面した方の街に向かう事が多い。
しかし、どうしても肌に合わない人や、溢れる人の波に疲れた人たちもいる。
そういった人たちは、住宅街を挟んで建てられている商店街に足を運び、観光地からは絶えないカメラの音や異様なまでの喧騒・高い興奮などがないこちらで自分の時間を過ごしている。
中でもこのレストランは幅広い世代に人気があり、元々この地に住んでいる人たちからは重宝されている待ち合わせ場所の一つだ。
そのレストランの一角。窓側のテーブル席に二人は並んで腰かけていた。
今日は、二人にとっては夏季休暇中の一日でしかないが、学校へ通っていない人々にしてみれば平日。店内はがらんとしている。
彼ら同様休暇中の学生は、より賑わっている観光地側に流れているようだった。
「なぁー、悪かったって。別に盗み聞きするつもりはなかったんだ。許してくれよ」
そんな中、わざわざ向かい合わずにいる鱶丸と沙紀美。
仲がよさそうに見える座り方なのに、彼らの間に漂う雰囲気はあまり芳しくない。
両手を合わせて頼み込んでくる兄にも何のその。沙紀美は変わらずにそっぽを向いたままだ。
「…はは。何だ、元気そうじゃないか」
「えぇ。そうみたいですね」
相変わらず残っている微妙な空気。
通り過ぎざまに思わず苦笑いしてしまう人さえいる状況にも関わらず、スーツ姿の一組の男女は気にする様子も無く、二人に話しかけてきた。
「悪いな、遅れた。座ってもいいか?」
「どーぞ」
片手を立てて謝罪する男……昨日知り合った森田 堅斗は、鱶丸の返事を受けると向かい側の席に、もう一人の女性・那須 涼と共に腰を下ろした。
「ホントすまんな。指定したのはこっちなのに」
「いえ、大丈夫ですよ。そんなに待ってないですし」
歓談とした…とまではいかないが、知り合いに会った時のような柔らかさで言葉を交える鱶丸と森田。
しかし、隣に座る沙紀美は、状況が全く飲み込めていなかった。
「(あ、アニキ)」
「ん?」
「(待ち合わせって、この人達の事だったの……?)」
「(あぁ。言っただろ?)」
「(……聞いてなかった)」
「なんだ、鱶丸君はちゃんと教えてやらなかったのか?」
「あ!い、いえ!アニキは別に……」
コソリと話しかけたはずの沙紀美。しかし、目の前でそんな行動をとればバレるのも当然で、森田に微笑みを浮かべさせた。
「いやいいんだ。気にするな。昨日の今日のでやってきた俺達も悪い。鱶丸君が君に伝えられなかったとしても無理ない」
「ですね」
どこか申し訳なさそうに口にした二人。
だが、直ぐに真剣な面持ちに変わる。
「……そちらの鱶丸さんには既にお伝えしてありますが、私達があなた方をお呼びしたのは、その昨日の件です」
那須の言葉で一瞬にして沈みゆく辺り一帯の空気。
少し離れた位置の、注文を伺いに行こうとしていたウェイトレスでさえ不可解な雰囲気を察し、踵を返してしまっている。
「……アレは、一体何だったんですか?」
僅かに声を荒げて問う鱶丸を、隣に座っている沙紀美が心配げに見つめる。
「……単刀直入に言う。妖怪だ」
「………何だって?」
森田が口にしたあまりに現実離れした答え。
沙紀美と鱶丸の思考は一瞬、硬直した。
「お二人が理解できないのも分かります。……ですが、事実なんです」
「あぁ。昨日の妖怪は影女。古くは安永十年頃まで遡る、かなり歴史のある妖怪の一種だ。彼女は、時を追う毎に在り方を変え、現在は誰かの影に住まわせてもらうのを条件にその人を色々と手助けをしているらしい。
昨日の少年は、彼女に生活する上で必要な雑用をしてもらう代わりに、住処として自身の影を提供していたらしい」
「ちょ、ちょっと待ってください」
つらつらと、困惑を呼ぶだけの説明を聞かされる沙紀美と鱶丸。
いきなり妖怪の詳細を教えてもらったところで、『あぁ、そうなんですね』と言えるわけもなく、混乱気味に鱶丸は森田の言葉を遮った。
「昨日あった事がまともじゃないってのは分かりました。
けど、妖怪って何なんですか?」
「そ、そうですよ。何かこう、秘密裏に作られた兵器が使われたーーとかならまだ納得できますけど、この時代に妖怪って……」
「…はい。私も、先輩と組むまでは何一つ理解できませんでした。ですが、実際に目にして感じたかと思います。あの時の影女の攻撃が、現代科学で至れるようなものではない事が」
鱶丸同様森田を問い質すようにして口を開いた沙紀美。
だが、森田の隣に座り、テーブルの下から何かを取り出しながら話した那須によって、それ以上は何も言えなくなってしまった。
昨日の影の攻撃は確かに種も仕掛けも無いようだった。
影を自在に操り、対象に向けて刺突させて命を奪うーーそういった能力を持つ兵器ならまだ分かる。何かしらの新しい原子が見つかって影に実態を与えられるようになったのだと、飛躍気味な発想がまだ辛うじてできる。
しかし、突き伸ばされたあの時の影は、鱶丸の腕を貫通したにも関わらず、一切の傷を与えていなかった。それどころか、守ったはずの、背後にいた空をどうやってか操る事に成功し、身体のコントロールのみを奪って鱶丸の首を締めさせたのだ。
どれか一つずつなら最新の兵器で行う事は可能かもしれないが、全てを同時に行えるなんてまずあり得ないだろう。ましてやロクな装置も使わずに実現させるなんて不可能だ。
そもそも、兵器であるのなら余計な手間をかけず、影で貫いた時に負傷を与えた方が遥かに有用性が高い。
それが出来なかったというのであれば、説明できる理由はただ一つ。目の前にいる二人が言っていた妖怪・影女が持つ特殊能力が、[任意の相手を操れる]といったものだったからだ。
でなければ、昨日の事件を説明出来ないだろう。
「……分かってもらえたようで何よりだ。
こんなところでつまずかれたら、ここから先の話が出来ないからな」
「……ここからの、話し?」
那須の言葉を肯定するしか道がなく、可能な限りの理屈をつけて妖怪の存在を受け入れた沙紀美と鱶丸。
しかし、再び口を開いた森田によってまたも混乱が二人を襲うのは容易に理解できた。
「今、涼が出したのは……まぁ、[おもちゃの]銃だ。金属的な光沢はなく、重さもそれ程じゃない。至って普通の、子供向けの拳銃だ。
だがこれは紛れもなく本物で、やろうと思えば人間だって殺める事が出来る。そういった銃だ。…なんでかわかるか、鱶丸君」
カタリ、と、プラスチックを想起させる軽い音を立ててテーブルの上に置かれた、警察の持っているような黒色の拳銃。
見た目こそリボルバー式ではないが、刑事物のドラマでスーツ姿の刑事が手にしている銃にとてもよく似ている。
森田の言っていた通り、公園で子供が振り回していてもおかしくなさそうな代物だ。
「……憑りついてる、妖怪の能力………」
「そう。正解」
けれど、先ほど知らされた影女の話しを聞けば、ただのおもちゃでないのは明白だった。
「それに憑いてる妖怪の能力で相手を騙す事が出来る。……そんなところですか?」
「そうだな。その考え方で当たってる。でも、半分だけだ」
「正確には、彼に……この妖怪、古空穂(ふるうつぼ)に憑かれているのは私です。銃の見た目を変えてもらっているのは私の提案であって、彼の正しい能力の使い方ではありません。いわば、応用です」
置かれている銃を手に取り、涼は持ち手の一部を親指で押す。
その途端に持ち手の底が伸び、左手を受け皿にして流れるままに取り出した。
「おはようございます、フー。起きてください」
銃に対しての知識が薄い沙紀美と鱶丸にも涼が何に話しかけているのかは理解できた。
自動式拳銃の持ち手から取り出せる物。つまりは、マガジンだ。
銃弾を複数個装填し、本体に装着する事で弾を撃ち出せる、銃の核と呼べる部品。
当然、そんなものが言葉を話せる前例など聞いたことがない二人は首を傾げて行方を見守っている。
……すると。
「ん。今日は随分早い出陣で。主」
「ほ、本当に」
「喋るのか……」
重々しい老爺のような声が、発せられた。
「おや……。どうも、戦というわけではなさそうですな。説明、よろしいですか?」
「彼らは、我々が新しく庇護すべきと判断した民間人です。……今回は、貴方達の存在を知っていただくために起こしてしまいました。申し訳ありません」
「……なるほど。委細承知しました。では、私にできる事は何かありまするか」
「いえ。今のところは何も。ただ、このようにお教えする事で、妖怪が決して珍しいものではないと伝えたかったのです」
「そういった事情でしたか。では、私の出る幕はもうなさそうですな」
「えぇ、そうなってしまいますね。すみません。ありがとうございました」
「どういたしまして。では」
成り行きを見続けるしかできない沙紀美と鱶丸が気が付くと、マガジンは元の通り一言も話さなくなり、それを確認した涼は銃の持ち手に挿入し直していた。
カチャリ、と物騒な音をたてる銃。よくよく見てみれば銃全体に艶やかな光が帯びていて、どこからどう見ても本物としか言えなかった。
……が、それも僅かな間のみ。
いつの間にか子供だましな光沢に戻り、軽そうな印象しか受けなくなっていた。
「……と、いった具合に、俺達を助けてくれるタイプの妖怪もいるんだ。
意思疎通は可能で、会話自体もできる。問題は、相手の妖怪が人間側をどう思っているのかだったり、憑りついた奴がどれだけ狂暴なのかだが……。まぁ、その辺はまだ気にしなくていい。後々、嫌でも理解する事になる」
「は、はぁ」
「そ、そうなんですね」
恐らくは今日呼ばれた理由の一つでもある内容だったのだろうが、目の前で起きた事実の方が衝撃的過ぎたのだろう。鱶丸も沙紀美も、生返事を返すばかりで話を飲み込めてはいないようた。
「…で、だ。さっきも涼が言ったように……って言うと少し大げさだが、俺達は君たち二人…特に、鱶丸君の事を保護したいと思っている。今日はそのために来たんだ」
「……保護?」
森田の口から出てきた[保護]という、知ってはいても日常的とは言えない言葉に、一瞬鱶丸の眉根が寄せられる。
「……自分なら、大丈夫ですけど。と言うか、むしろコイツの方を護ってくださいよ」
「あぁ。君ならそう言うだろうと思っていた。
……だから、少しだけ調べさせてもらった」
それまで、テーブルの上に置かれていただけの森田の手が持ち上がり、胸の内ポケットから何枚かの折られた紙を取り出した。
「君、かなり喧嘩慣れしてるよね。昨日のを見てもしかしたらとは思ったけど、予想を遥かに超えていたよ」
「まぁ、そうですね…」
テーブルに置かれていく、白面しか見えない三枚の紙。
用紙そのものがそれなりに厚いのだろう。折られている内側が透けて見える物はない。
「一番最初のは、幼馴染の空ちゃんを守るために野良犬二匹に立ち向かい、追い払った、というものだ。
その時にこっぴどく叱られたのかはわからんが、以降はそれらしいのはなかった。せいぜい、いじめられそうになっていた空ちゃんから気を逸らさせるためにちょこちょこと頑張った程度でな」
「……あの、恥ずかしいんでやめてもらえます?」
どこか楽しそうに語る森田に対し、本当に恥ずかしいと思っているのか、鱶丸は顔を赤らめている。
「まぁ、そう言うな。ちゃんと話は繋がるから」
「うん。僕もアニキの話しもうちょっと聞きたい」
「お、沙紀美君も乗り気か?いいね。そうこないと」
「お、おい、沙紀美」
「いいじゃんアニキ。アニキ、全然昔の事話してくれないし」
「それはそうだけど……」
兄の窮地にも関わらず、その原因を作った相手の味方をする沙紀美。
弟からの思わぬ援護があったからか、鱶丸は僅かに顔を曇らせた。
「先輩。あまり長話する余裕はないですよ」
「あぁ、分かってるって。…って事で、少しだけかいつまむけど、いいかな弟君」
森田に尋ねられ、こくこくと頷く沙紀美。
それを見て嬉しく思ったのか、一度だけ笑ったように頬を緩ませると、森田は少しだけ真剣な表情をして話を続けた。
「それで、次に喧嘩をしたのは小六の春頃。今度は、野良の動物じゃなくて、同じ人間…それも、一つ二つ上の学生二人。理由は、カツアゲされそうになっていた女性を助けるため。結果は勝利で終わり、目立った外傷もなかった。
その次は同じく小六。時期は丁度夏休み中頃。仕返しにやってきた二人とそのツレだ。数は全部で五人。中学生の悪ガキが、小学生に負けてメンツをつぶされたからと怒り狂っての行動だろうな。中には武器を持ってた奴もいたらしいじゃないか。
誰がどう見ても差は明らか。勝機は無いに等しい。……にも関わらず、君は返り討ちにした。勿論、今度は傷だらけだったそうだが、拳一つで五人全員を叩きのめしたんだ。強いなんてもんじゃない。
…それからだろ。君が色んな奴らに目を付けられ始めたのは」
言い終えると同時に広げたままだった紙を開き、沙紀美と鱶丸にそれを差し出す。
書かれているのは、簡単なプロフィールと幾つかの行動パターン。それに、隠し撮りしたらしき写真だ。解像度が低く見辛くはあるが、どうにか誰なのかを判別できる程度には写っている。
「ここにあるのは、その日以来、君が相手する羽目になった喧嘩相手のリーダーだった奴らだ。
右から、[砂山 豪]、[田中 敦]、[歌島 蘭]。
どいつもこいつも、その地域じゃ要注意人物として危険視されてる札付きだ。眼が合ったら殺される、なんて噂が立つくらいにはヤバい奴らだったらしい。中三でそんな事言われるんだから世も末だな。……って、どうした?」
「あ、いや…」
吐き捨てるようにして言い放った森田は再び話を続けようとするも、非常に興味深そうに読んでいる鱶丸に気が付き、不思議そうに尋ねる。
「なんか、中学に上がってからやたらと絡まれるなとは思ってたんですけど、そんな事情があったんだなぁと思って」
「……は?」
「ま、まさかとは思いますけど鱶丸君、気が付いてなかったんですか……?」
「え、えぇまぁ。知り合いに手を出したり、学校の人たちに迷惑を掛けたりとかして、遠回しに俺を呼び出すって事もあったんで変だなとは思ってたんですけど、そんな大きな事件に巻き込まれてるとは少しも……」
含みも何もない鱶丸の発言を聞き、目を見開く森田と那須。
ほんの少しの間の後、二人同時にため息を吐き、互いに顔を見合わせた。
「ちょ、ちょっとばかり予想外だったけどまぁいい。お陰で疑惑が確信に変わった」
「疑惑……?」
「あぁ。と言うのも、俺達は君の事を[妖怪憑き]なんじゃないかと疑っていたんだ」
「「は、はぁ!?」」
突如落とされた爆弾に驚愕の声を上げる沙紀美と鱶丸。
何か言おうと口を開く二人だが、パクつかせるだけで肝心の言葉になっていない。
「君のその常人離れした強さと、驚くほど無頓着な性格。これで妖怪憑きでないのなら、ただの筋肉バカだ」
「ま、待ってくれ!力が強いのは確かに憑いてる云々を判断できるかもしれないけど、どうして無頓着だと確信に変わるんだ!?」
「妖怪は主に二種類の人間に憑りつきます。一つは異常なまでに神経質な人間。もう一つは、君のようにあまりにも何も気にしない人間です。
妖怪は執念深いかのんべんだらりとしているかのどちらかですから。その辺りが反映されてるんだと思います」
「そ、そうなのか……?いやだけど!俺、今まで一度も、その、フー?みたいなのとかに会ったことないし、やっぱおかしいだろ!」
椅子から半立ちになって抗議する鱶丸。
だが、森田も那須のも彼の言葉に頷く事は無く、むしろ、[やはり]といった顔をした。
「妖怪ってのは、観測する者ーーつまり、[いる]と心から思う人が見て初めて存在を確認できるんだ。宇宙と一緒だな」
「私も先輩と初めて会った日に『妖怪憑きだ』と言われ時は、気でも触れてるのかと思いましたが、たまたま事件に巻き込まれたせいでいると信じられるようになったんです」
「だ、だけど……」
「…まぁ、妖怪がいると分かっても自分に憑いてるかどうかを信じられるかは別だよな。こればかりは自分で気が付いてもらうしかない。
それよりも問題は、さっきの三人の事なんだ」
力なく腰を下ろし、眉を寄せながら額に手を当てる鱶丸をよそに、森田は再び先ほどの紙を差し出す。
混乱の収まらない中、一先ずそちらに目をやる鱶丸と、沙紀美。
「……実はな、この三人、つい先週に、死んだんだ」
「………は?」
唐突に告げられた、声も知らない三人の死んだという事実。
予想もしていなかった発言に、二人の思考は一瞬停止した。
「近いうちにやるニュースでは死因はクスリか何かと報道されるだろう。だが、それは違う。…間違いなく、殺人だ」
「さ、殺人…」
「誰に!?」
殺人。
事ここに至っても、その言葉には生唾を飲み込むしかできなかった。
いいや、むしろ先ほど知った妖怪の話しのせいで、森田の言葉には必要以上なリアリティが纏わりついていた。
「そもそも、この三人は本人が気が付いているかはともかく、妖怪憑きでした。当然、一般人とは違い、ある種の特殊な力…能力があります。所謂、運がいいだとか、鱶丸君のように体力や力が際立っているといった風にです。
ですので、刃物を持っている異常者が相手だったとしても、少なくとも殺されたりは無いはずなんです。同じ、妖怪憑きでもない限りは」
荒唐無稽な理屈を確信を持って口にする那須。
本来ならばあり得ない話だ。とてもじゃないが、納得のしようがない。
だが、その[特殊能力]を二人は実際に目の当たりにしている。それが常識では測れない事も、知ってしまっていた。
「じゃあ、何か。その犯人が俺達を……いや、俺を、狙ってるって言うのか」
メディアでさえ報道されていない事件を一般人に話す意味。
理由は、考えるまでもなかった。
「えぇ。私達はそう思っています」
那須と鱶丸の視線が重たく交わる。
彼女の口から伝えられる、嘘であって欲しい事実。
けれど、その瞳には一点の曇りもなかった。
「アニキ……」
「……なんだ、やっと機嫌が直ったのか?」
「………ッ!知らない!」
「ははっ。またやっちまった」
不安げに漏れ出た沙紀美の言葉に対し、おどけた様子で返答した鱶丸。
冗談を言っている場合ではないにも関わらず取られた行動は沙紀美の逆鱗に触れ、今度こそ本当に彼を怒らせてしまった。
「……被害者の三人は抵抗する暇もなかったのか、抗った形跡がなかった。
現場にはバラバラになった人体が散乱していて凄惨だったそうだ。凶器は刃渡り約八十センチの鋭利な刃物。恐らくは刀の類だろうと聞いてはいるが定かじゃない」
「盗まれた物もなかったそうです。……お二人がそういった知識をお持ちかは分かりませんが、特定のパターンや儀式的な要素もありませんでした。
過激派のカルト教団による強盗殺人といったモノでも、統計学的な俗にいうサイコパスの仕業でもないと、現状では考えられています。
異常者の犯行である事は疑いようがありませんが、それ以外の判断材料があまりにも少な過ぎます。
……けれど、それはあくまでも現実的な思考で事件を推察した場合の結論でしかありません」
含みのある言い方に、鱶丸の喉が小さく鳴る。
「以前から何かと対立していた彼らでしたが、今回は何故か全員が同じ場所に居たそうです。理由はまだ不明ですが、検討はついています」
「……三人を殺したって奴が呼び集めた……って事か」
「えぇ。恐らく」
那須は頷き、更に続ける。
「そもそも、彼らはいつも縄張り争いをする仲であり、一ヵ所に集まるわけがないんです。なのに、集まっていた。その理由は二つ考えられます。
一つ、三つのチームが一つになるから。
二つ、しびれを切らした誰かが、或いは一人以上が、一帯を仕切ると宣戦布告したから。です。
ですがこれは先程も言ったように常識の範疇で考えた場合。
〔妖怪憑きである〕という前提の下ですと、更にもう一つの選択肢が加えられます。
それが三つ目の、自身の持つ不可解な能力を説明できると謳う何者かに呼び出された。です」
「実際、現場からそう遠くない地区で、刀を持ったキャラクターのコスプレをした少女を見たって情報がある。
犯行が犯行だけに警察共はその少女を容疑者から除外しているが、大の男だってそう簡単にはできない凶行だ。そんな中で性別なんざ関係ない。それが妖怪憑きかもしれないと考えられるのなら尚更だ」
那須に続けて詳細を語った森田は、テーブルに出されていた被害者の紙を回収し、胸ポケットにしまい込む。
「以上が、今の君たちに教えられる情報の殆どだ。影女の尋問に関しては正直信用しきれない話が多い。無駄に怖がらせたくないから今はまだ控えておく。
ここまでで、自分がどれだけ危ない状況にあるのかが分かってもらえたかと思う。
その上でもう一度聞かせてほしい。
我々は、君と、御兄弟であり共に行動する機会の多い沙紀美君を保護したい。
勿論、保護とはいっても何処かに隔離したりとかじゃなくて、影から見守る的なモノだ。せいぜいが家の外だと視線を感じるって事くらいで、必要以上に干渉するつもりはない。
まぁ、君たちが望むのなら友人関係になるのも悪くないけどな。その方が楽に守れるし、こっちとしても後ろめたさが少なくていい」
「保護……」
再び口にされた保護という言葉。
鱶丸にとってはフィクション作品や小動物にのみ使われる単語であり、隣に座っている沙紀美にとってもやはり非現実的な部分が多い。
「どうでしょうか。少なくとも、人数差は埋まります」
「そう言われても……」
森田や那須の言っている事が理解できないほど二人は馬鹿ではない。お互い、[はい]と答えた方がいいと分かっている。
けれど、終始監視されるのを簡単に受け入れられるほど単純な思考を持っているわけでもなかった。
「……少し、考えさせてください」
膝の上で握られる鱶丸の拳。
彼はまだ中学二年生だ。遊びたい盛りであるのは当然で、異性に興味が湧いている事に気が付く時期でもある。自身一人が監視されるのならまだしも、しばらくの間ーー恐らくは犯人が捕まるまで、常に見られているのだろう。
共に行動している友人や家族、或いは恋人となるかもしれない人も。
誰かを巻き込んでまで、自分の身を優先させる気は彼の中にはない。
最悪、沙紀美の事は自分が身を挺して庇えば済む事だ。どちらを取っても我儘になるのなら、今までと同じ生活を取った方が気楽でいい。
ただし、もしもその犯人が実際に襲ってきて、自分よりも遥かに各上だというのであれば、その時に、頭を下げてお願いすればいい。
どれだけ最悪な場合でも、沙紀美の事は守れるのだから。
鱶丸は、そう決定付け、森田と那須に返事をした。
「…あぁ。その答えは間違ってない」
「無理強いはしません。こちらとしては忠告だけでも聞き入れてもらえれば、私達の目的の半分は達成できていますから」
一言ずつ口を開き、言い終えてお互いの顔を見合わせる二人。
彼らは何かアイコンタクトをとると、那須の方から名刺が一枚取り出された。
「もし、考えが変わりましたらこちらに電話をください。私達のどちらにかけていただいても大丈夫です。
……念のためお伝えしておくと、保護期間は犯人が捕まるか、君たちに危険がないと分かるかまで、です。
正直、明確な期間は分かりません。これが連続的な事件なのかも、突発的な行動なのかも分かっていませんから。
ただ、今分かっているのは、鱶丸君と浅くない関係の人たちが一度に殺されてしまった事と、既に昨日襲われてしまっている事、です。
影女の口からの信用に足る自白によっては少々強引な方法に出てしまうかもしれませんが、その時はもう一度こういった機会を設けたいと思います」
言い終えると、椅子から立ち上がりテーブルから外へと出て行く那須。
森田も倣うようにして後に続いた。
「ま、そういう事だ。気が向いたら電話をくれ。
おっと、言っとくが涼にアタックするのだけはやめとけ。こいつは異常者タイプの妖怪憑きだ」
「余計な事は言わなくて結構です。さ、行きますよ」
「ほらな、先輩の扱いがなってねぇ」
「ちなみに先輩は愚鈍タイプですね。私に殴られるのがまだわかってないようです」
気が付けば重苦しく変わっていた空気を一瞬で霧散させた森田と那須。
二人は一度にらみ合ったかと思うと、鱶丸と沙紀美に向き直り、別れを告げようとした。
その時になって、途中から黙って聞いていた沙紀美が口を開いた。
「あの…昨日一緒にいた女の子には、今の事、話したんですか……?」
彼の問いを聞き、森田は浅く椅子に腰かけると、鱶丸と沙紀美にだけ聞こえる声の大きさで話し始める。
「……いや、彼女にこの話をするつもりはない。鱶丸君はまだ自覚のない状態でしかなく、弟の君はかなりの頻度で彼と行動を共にしている。親しい間柄で情報を共有できる人がいないと鱶丸君は八方塞がりになってしまうかもしれないからな。だから話した。
が、本来は国家レベルの重要機密だ。そうそう話していいもんじゃない」
「じゃ、じゃあ……」
「あぁ。その子には悪いが、昨日の事は悪い夢だったと、さっさと忘れてもらうしかない」
「そんな…」
口を噤つぐみ、俯いてしまう沙紀美。
自分よりも妖怪に危害を加えられていたのだ。聞く権利はあるはずだと彼は考えたが、仮にそのせいでまた同じ目にあってしまった場合の事を考えると、沙紀美は森田と那須に言い寄れなかった。
「(……けどま、一切なんにもしないってのもちょっと違うからな。二、三日俺の妖怪に見守るよう指示を出してる。
大丈夫。アレはああ見えて女だからな。何かと気を利かせてくれてるだろうよ)」
そんな彼を見かねてか、森田は、那須と鱶丸に聞こえないよう耳打ちをし、口元に人差し指を当てると、にかっと微笑んだ。
「…どうしたんですか、先輩」
「ん?何、モテる秘訣をちょっとな」
「………はぁ、そうですか」
大きくため息を吐き、再びにらみ合う森田と那須。
今度は鱶丸たちに向き直る事なく、そのまま店の外へと繋がる自動ドアへと向かって行ってしまった。
「あの人、なんだって?」
「うん。とりあえず、空さんは心配ないって」
「…そうか。ありがとな、聞いてくれて」
「ううん。アニキだって大変だろうし」
残された二人は小さく息をついた後、空の安否を確認し合う。
「さてと、どうする?俺達も帰るか?」
そうして、心配がないと分かると、鱶丸は身体の力を抜き、背もたれに身を預けながら沙紀美に尋ねた。
「うーん、どうしよっか」
対して、テーブルに突っ伏すようにして崩れ落ちた沙紀美。
僅かな沈黙の後、どこからともなく、二匹の虫の悲鳴が上がった。
「…ま、ここまで来て帰るわけにもいかないよな。飯でも食っていくか」
「え、けど、お金とかは…?」
「心配すんな。一応持ってきてるし、軽く済ませれば夕飯とかも大丈夫だ」
「……そっか、そうだね。じゃあ、少しだけ」
「あぁ。じゃあ、決めるか」
言い終えるや否やメニュー表を取り出し、目を通し始める鱶丸。
後に続いて沙紀美も食指の動く料理を選び始めた。
同日、深夜。
沙紀美は一人、自宅を抜け出し、以前鱶丸と訪れた海岸に立っていた。
夏と呼べる時期とは言え終盤も近い頃の、それも海辺。
吹いてくる風はうすら寒く、彼の身体を僅かに震わせた。
「……強く、ならないと」
それでも彼の脚が帰路へと向かないのは、昨晩から考えていた一つの想いからだった。
[強くなる]
昨日のような失敗は、もう、二度としたくない。
危ない状況である兄を少しでも手助けし、これ以上負担をかけたくない。
今朝まではまだ弱々しかった気持が、昼頃の森田と那須の話しで確たる決意へと、彼の中で変わっていた。
「…まずは、体力をつけないと」
両手を握りしめ、砂浜の上で足首をくるくると回す。
そうして、軽いストレッチを行った後、沙紀美は走り出した。
辺りに、人の影はない。
あるのは不気味なまでに反射する海面の煌きと、澄ませば聞こえそうな星空の輝きだけ。
彼の耳に、潮騒は届いていない。
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