青に臨む双子の絆

カピバラ番長

第1話 遠波

潮騒が風に乗って辺りを満たす。

鼻の奥まで染み渡る潮の香りは、二度も吸い込めば喉元を塩辛くさせる程に濃密だ。

視界に映る、見渡す限りの青と蒼。

天空には雲一つなく、海原には夕日に照らされた夜の星を思わせる輝きが燦々と煌めいている。

人工物と自然の間。まきびしを思わせるいくつもの消波ブロックに立つのは二つの人影。

波音をより雄弁に語る風にたなびく学ランを羽織る青年と、乱れる髪を抑えて目を細める少女のような面立ちをした少年。

釣り具も、サーフボードも、小舟もなく、青と蒼のつなぎ目を見る。

彼らは何をするでもなく、ただ海を眺めていた。

語る言葉はない。聞こえるのは寄せては返す波の音だけ。

あれほど二人の髪を乱していた風はもう止んでいる。

微かに、けれど大きく、耳に届くさざ波は、まるで二人の心の内を代弁するかのように響いた。

ーーやがて、学ランを羽織っている青年が小さく口を開く。

 「そろそろ行くか」

組んでいた腕を解き、少年を一瞥すると、ちらほらと観光客の見える商店街へと進んでいった。

後に続く少年は、もう一度だけ海原を見ると、直ぐに青年の後を追う。

 空と海の境目には橙色のベールがかかっていた。


_____________________________________


 翌朝、ささやかな凪で少年は眼を覚ました。

部屋を満たす、ほんのりとした磯の香り。

畳に引かれたカーペットの上に敷いた布団からゆっくりと身を起こす。

微かな寒さに身震いしかける身体を抱いた少年は窓へと視線を移した。

 「……閉め忘れたんだ」

半分だけ開かれた窓と、ふくらみを見せるカーテン。

柔らかな日差しが虫戸とレースからこぼれ、少年は眼を細めた。

夏の名残ももうじき去るといった頃合いのせいか、それとも頃合いなのに、なのか、薄寒い。

そんな、寝起き特有の他愛ない思考を抱えながら少年は窓を閉めるために布団から立ち上がった。

 「…下、降りよっかな」

漏れたあくびを透き通るように白く美しい手で隠し、薄っすらと灯っていた橙色の電球を紐を引いて消すと、ドアを開けて部屋を後にした。






  「お。起きたか。おはよう、沙紀美」

  「うん。おはよ。アニキ」

 階段を降りて開けた扉の先、ソファに座っているのは学ランを羽織っていた青年だった。

 「風邪、引いてないか?」

 「もちろん」

手にしていたスマートフォンを薄茶色のテーブルに伏せた青年の正面、一人掛け用のソファに腰を下ろす少年ーーー沙紀美。

 「昨日は悪かったな。急に海辺に行きたいなんて言っちまって」

 「ううん、気にしてないよ。僕も丁度見たいと思ってたし」

 「はは。なら良かった」

アニキと呼ばれた青年は快活そうな笑顔を浮かべているが、どこか寂しそうだ。

 「あら、おはよう沙紀美。まだ夏休みなのに早起きね」

視界の端から届いた優しい声に振り向くと、そこには二つのガラスのコップに麦茶を淹れて運んできた女性の姿があった。

 「おはよう、母さん。うん、なんか、目が覚めちゃって」

 「そうなの。じゃ、丁度いいし、朝ご飯にしましょうか。

あ、これ飲んでもいいわよ」

二コリと柔和に微笑んだ母親は麦茶をテーブルに置くと、そのまま台所の方へ向かって行った。






 暖かな日差しが満ち、海の見える道を歩く二つの影。

沙紀美と青年は早めの昼食を摂った後、食後の運動を兼ねて散歩をしていた。

時折届く磯の香りは胃の膨れた二人の心持ちを緩やかに解いている。

 「たまには二人きりってのも悪くないな」

 「だね」

 にこりと微笑みながら二人は更に歩みを進める。

カモメの声と僅かな潮騒が支配する一帯。

そこに、小さなノイズが発生する。

 「アニキ、何か言った?」

 「ん?いいや」

どこからともなく聞こえる空気の乱れる音。

それ程大きい音ではなかったため、聞き違いだろうかと沙紀美は首を傾げる。

 「…どうした?」

 「あ、いや…」

特に気にする素振りも見せず先へ行こうとするアニキとは対照的に、辺りを見渡す沙紀美。

住宅街や、海辺、行き先にある観光施設や商店街などを見ても何か変化があるわけではない。

けれど、少しずつその音は大きくなっていく。

それはまるで、息を切らした人のような……。

 「……あ、おい」

 「ん?」

唐突に青年に呼ばれて沙紀美は振り向く。

 「あー、いや。逆だ」

 「……?」

何故か意地悪な笑顔を見せる青年。

沙紀美がその意図に気づくのに、三秒とかからなかった。

 「さーーきーーみーー君!!!!」

 後方より突如として飛来する少女の叫び声。

 「へ…!?」

彼が振り向き切るよりも早く、声は物理的重さをもって飛び込んで来た。

 「…ったく。危ないだろ、空」

 「えへへ、ごめんね。鱶丸」

沙紀美を押し倒すようにして抱き着いてきたのはセーラー服を着た三つ編みの少女だった。

中天に輝く太陽に照らされた栗色の彼女の髪は、海辺から流れてきた風と相まってキラキラと輝きながらなびいている。

 「おーい、生きてるか、沙紀美ー?」

空と呼ばれた少女の不意の抱き着きによって前方に押し倒されたところを青年ーー鱶丸の右腕によって支えられた沙紀美は、彼女が離れていっても動く気配がない。

 「さ、沙紀美君!?」

 鱶丸の手元から沙紀美を引っ張り、立派に実った双丘に彼の顔が微かに埋もれる。

 「…ぬ……。…し…まう…」

丘の淵より漏れる、悲壮感漂う呻き声。

 「え、あ、ど、どうしよう!?」

空は沙紀美の両肩を掴んだままあたふたと汗を飛ばすだけだ。

彼女のそんな姿をそれまで楽し気に見ていた鱶丸は小さく噴き出したかと思うと。

 「ったく。しょうがねぇな」

 「あいた!?」

空の額にデコピンを一つし、反射で肩から手が離れた瞬間に沙紀美を救出した。

 「おーい。どうだ?生きてるかー」

 「し、死ぬかと思った」

 「はは。羨ましい逝き方だな」

ぐったりと力なく項垂れ、少し前と同じように沙紀美は鱶丸の腕の中に寄りかかった。

 「ご、ごめんね沙紀美君!久しぶりに会えたからつい…」 

 「う、うん。大丈夫だよ、空さん」

何度も頭を下げ、フィンチ型のメガネから可愛らしい瞳を覗かせながら空は何度も謝る。

 「まぁまぁ重いからなぁ空は」

 「ちょ、鱶丸!」

 「はは、怒るな怒るな」

ぽかぽかと鱶丸の胸板を叩いて抗議するもどこ吹く風。彼は大口を開けて笑ったまま微動だにしない。

 「えっと、それで空さんはどうしてここに?」

ゆっくりと腕の中から体を起こし、若干おぼつかない足で立ち上がった沙紀美。

彼の問いに、それまで鱶丸の胸元を音が立つくらいの強さで殴っていた空が思い出したように振り向いた。

 「そ、そうだった!!新刊!!」

ドン、と一際強く音を鳴らした空は鱶丸を押しのけ、正面に小さく見える商店街の方へと走りだそうとする。

そんな彼女の肩を鱶丸は掴んだ。

 「お、落ち着けって。お前、運動苦手だっただろ。そんなに走って大丈夫なのか?」

みぞおちの辺りをさする鱶丸に聞かれ、「あ」と、言葉を漏らす空。

途端に、彼女は鱶丸の方へと倒れてしまった。

 「おっ…と。大丈夫か?」

 「う、ごめん」

 額に滲む僅かな汗。

呼吸こそ上がっていないものの、両足は小刻みに震えていた。

 「お前の家、ここからそこそこ遠いのにずっと走ってきたんだろ?そりゃこうなる」

 「だって、楽しみだったから」

 ぽそりと漏れる空の言葉。

同時に、笑ったままの両ひざに手を当てて立ち上がる。

 「ってことで、私は本買いに行ってくるね」

よたよたと生まれたての小鹿のような歩みで空は先へ進みだす。

少しの間その後姿を見ていた二人だが、直ぐに空の両脇へと駆けだした。

 「ホント、たまには運動した方がいいぞ」

 「だね。老後に響くらしいし」

 「む。別についてこなくて大丈夫だよ。子供じゃないんだし」

 「あぁ。どっちかって言うと生まれたてだな」

 「……どういうこと?」

 「あははは」

 暖かい風が吹く中、三人の会話がさざ波に混じって行く。

夕暮れはまだ遠く、陽は中ほどを少し過ぎた辺りに佇んでいる。

本当なら何事もなく過ぎてゆくはずの穏やかな時間。

けれど、平穏な水面を撫ぜる風は唐突に吹いた。

 「…いやねぇ。見てられないわ」

 ズルリと何者かの這うような音が言葉と共に現れる。

発生源は三人の背後。

それまで何の気配もなかったはずの背後から、成熟した女性のような声が届いている。

 「あ、アニキ…」

 「……誰だ」

歩みを止め、重圧を内包した問いを鱶丸は投げ掛ける。

滅多に聞かない彼の声色に生唾を飲み込む沙紀美と空。

三人はまだ後ろを振り向いてはいない。

いいや、正しくは振り向けずにいる。

声のした位置。それは常識の範囲にある距離ではなかったからだ。

 「ふふっ。後ろを向いたらわかるんじゃないかしら?」

再び鼓膜を吹く艶めかしい声は、三人が必死に拒んでいた理解を簡単に飲み込ませてしまった。

 「…俺達から、離れろ!!!」

 振り向くと同時、握った拳を振るう。

風を切る鋭い音を伴って放たれる裏拳は、しかし、虚しく空間を薙いだだけだ。

 「あらあら。いきなり物騒ね。危ないじゃない」

 「!?この!!」

商店街を背に立つ鱶丸の背後から再び聞こえる女性の声。

先ほどまで声がしていたはずの方を向いている鱶丸の裏にいるという事は、この声の主は五秒も使わずに彼の背後を取っていることになる。

常人ならば…いや、人間である以上、こんな速度で動くことは不可能だ。

 「ふ、鱶丸!!」

 「アニキ!」

 「どうした!」

 混乱の支配する彼の脳に届く、二人の焦る声。

すぐさま二人に視線を向けると、沙紀美と空は何故か鱶丸の足元を指さして目を見開いている。

 「……なんだよ、これ」

二人同様、自身の足元に視線を落とし、そこに映っているモノを鱶丸は見てしまった。

 「あらら、もうバレちゃった?」

知らぬ間に異形と成り果てた黒ずみ。

頭、腕、脚、それぞれが二対に変わっている自身の影から女の声は聞こえた。

 「ふふ、安心して。貴方は化け物になっていないから。ね?お二人さん」

低く、脊髄にまとわりつくような、這いずるような不快な音が響く。

同時に、影の一部分が生を得たように位置を変え始める。

肩から生えていた二本の腕、股下から伸びる閉じられたしなやかな脚、傾げているように首から生えている鱶丸とは比べ物にならないほどの長髪を携えた頭。

それらは独りでに動くと数秒も経たぬうちに鱶丸の影から別離を果たした。

人の、肉体を持って。

 「……くぁ…。ん、もういいの?シャド」

あくびを漏らし、鱶丸の影から現れたのは、三人よりも若干年齢の高そうな短髪の男性だった。

当然、先ほどまで聞こえていた女性とは似ても似つかぬ声をしている。

 「……女声を出してた、ってわけじゃなさそうだな」

 「ん?あぁ、まぁね」

冷や汗を垂らして男を睨みつける鱶丸。

対して、男の方は眠そうな顔をして目尻の涙を拭っているだけだ。

 「沙紀美、空、お前らは先に店に行ってろ」

 「アニキ…!」

 「それは無理じゃないかな」

 「…え?」

 「なッ!?マズい!!!」

二人に逃げるよう促した瞬間、男の足元から黒いナニカが空目掛け突き飛んでいく。

空間を裂き、ジグザグに高速で移動して彼女の眼球へとその先端が突き刺さる間際。

 「ぐッ…!?」

 「アニキ!!」

 「鱶丸!!」

寸でのところで鱶丸の右腕が割り込んだ。

飛沫く血はない。

瞼をきつく瞑り、押し寄せてくるだろう痛みに耐えるが、鱶丸の痛覚を信号が駆ける気配は一向にない。

腕を貫かれたという感触はある。しかし、その反動はなく、知覚と感覚の乖離に鱶丸は混乱を得てしまう。

 「残念。ちょっと遅かった」

平然とした態度で黒いナニカを鱶丸の腕から引き抜き、男は数歩、前へと歩く。

 「いいかい、少年。大切な人はちゃんと背中に隠しておかなきゃだめだよ」

 「何言ってんだ、お前…?」

足取りは軽く、口元はやはり眠たげに。

男はあくび交じりに、右手首を使い左腕を自身に向けて引き込んだ。

 「こうやってね」

見ようによってはストレッチともとれるその行動は、緊迫した現状での行動としては些か以上に不自然に映る。

 「だから何言って…ぐぁッ!?」

苛立ち交じりに発した言葉は即座に苦痛に歪んだ呼吸音へと変わった。

 「なん…!?誰、が…!?」

 「鱶丸…!!」

背後から届くのは焦りに満ちた少女の声。

自分の首元を締め上げる何かに対し、必死に抵抗する鱶丸に喘鳴を与えているのは細腕。

 「鱶丸…!ごめん!鱶丸!!」

 「なん……で…!!」

鼓膜を揺らす涙声。

それは紛れもなく空のモノだった。

 「離し…て……く…うぐッ!?」

酸素を奪われ、藻掻き苦しむ溺水者のように両指に力を籠めるが、鱶丸は決して空の腕を掻き毟ることをしない。

僅かに残る理性が激しく訴えかけているからだ。

彼女が自らの意思で行っているわけではないのだと。

だが、だからと言って苦しみが減るわけではない。

酸素は加速度的に消費され、血流は外部からもたらされた圧力で道を失っている。

そうして彼が首を締めあげられ経過していく時間。

一般的に、人は一分弱の間肺の換気が行えないとチアノーゼになると言われている。そうなる前に再び酸素を確保し、通常の呼吸を行えるようになれば大きな後遺症もなく日常生活に復帰できるが、チアノーゼを発症した場合、無視できない症状が発生するだろう。

鱶丸はそのことを、薄っすらと霞掛かる思考の中で思い出していた。

 映像として映し出される、いつかの日の授業風景。

黒板に書き記されて行くのは保健体育の教師が学生の蛮行を予見しての症例だ。

血液に起こる異常。異常をきたした末梢神経の果て。決して無視してはならない鼻血という前兆。

どれもこれも、想像するだけで寒気を覚える事例だが、自分には関係のないことだと鱶丸は楽観して聞いていた。

…やがて、鱶丸は他の全く関係のないことも思い出し始めた。

飽きすら忘れるほど通っている学校。その校舎で語らう友たちとの日々。

繰り返し行う日常の中で訪れた、とある日の出会い。

快い友と過ごす、ありきたりな世界の中で起きた、唯一無二の出来事。

その夜を、薄暗くなった視界の中で鱶丸は見た。

 「……沙紀、美……あの、な」

 力なくぶら下がり落ちる両腕は振り子のように、揺れている。

 「おまえ…は……」

フラッシュバックする記憶の日。

雨も、風もない、平凡な夜。

彼の家の玄関に立つ、男の姿。

その腕にかかえられている……

 「起きろ!!」

擦れ行く鱶丸の声を聞き取るため、誰一人として言葉を発していなかった空間に、男の怒声が届く。

同時に響く、駆けてくる足音。

一縷となった気力を振り絞り、鱶丸が動かした視線の先にいるのは。

 「……待たせたな!」

 無理して作ったらしい低い声で格好つける、スーツ姿の男だった。

 「馬鹿なこと言ってないで、そっちの男、どうにかしてください。先輩」

僅かに遅れて聞こえる、やはり知らない女性の声。

影から男が現れて以降、聞こえなくなった女性の声よりも若く、硬い雰囲気だ。

ただでさえ酸素が薄く、思考もままならない中で次々と起こる事態の急変で鱶丸の意識は更に谷底へと嵌っていく。

だが、彼の意識が完全に消え去る瞬間、耳元で小さな悲鳴が弾けた。

時を同じくして激流のように襲い来る酸素と血流。

ドクドクと血管の中で暴れ回る血液に、鼻を通って行った酸素をそれまでの反動によって高濃度と錯覚してしまったからか膝から地面に屈した鱶丸は激しくむせ返した。

 「…いいね。中々どうして男じゃねぇかよ。お前」

 「お、なんだ?年増が色気付いたか?」

 「んだと、凡人」

 「あぁ!?」

 「ちょっと。やめてくださいよ、人前で。見っともない」

同様にして鼓膜に溢れ返る、知らない人間たちの声。

二人は辛うじて理解できる。さっき自分を何らかの方法で助けてくれた男女だろう。

けれど、後から聞こえた乱暴な女性の声は分からない。確かに朦朧としていた意識ではあったが、別の男の駆けて来た足音が分かったのだ、聞き逃すとは思えない。

酸素、声、思考、それぞれの情報が鱶丸を同時に襲う。

だがそれでも、彼はすぐに振り返った。

 「空…!大丈夫か……!!」

まだ若干擦れている声で呼びかけるのは、首を絞めてきた、友であるはずの少女。

明瞭になりつつある視界は地面に蹲った空を捉える。

彼女は瞳に涙は浮かべているようだが、目立った外傷はなく、傍に駆け寄ったのだろう沙紀美がその肩に手を置き、励ましの言葉を投げかけている。

 「……そうか。よかった」

薄く、鱶丸は微笑む。

多少絞首の影響が残っているのか、頬の筋肉は引きつっても、微笑んでいる。

 「…あの、ちょっと?」

 鼓膜の片隅で響いていた、口論をしていたうちの一人が鱶丸に言葉を投げかけて駆け寄ろうとする。

だが、鱶丸はそれを拒んだ。

 「大丈夫。だから、二人を安全なところに」

言葉を彩っているのは紅蓮とも呼べる、明確な怒り。

ただの学生でしかないはずの彼は、本当なら倒れ伏してしまってもおかしくない状況の中で、二本の脚で、立ち上がる。

 「お前!!!」

その空間にいる全員の身を震わせる大声量が向かう先。

 「ん?」

そこにいるのは、唯一、彼の声で驚きを見せなかった、あの男だ。

 「名前は?」

 「……影山」

 「そうか。なら影山」

 「何?」

やはり、冷静さに怒りを満たした声で、鱶丸は男のーー影山の名を呼ぶ。

ーー刹那。

 「…おっと」

 「歯、食いしばれ」

彼我の距離を一瞬で詰めた彼は、その拳を男の顔面に目掛け、全霊をもって叩き込んだ。

 「おーー。飛んだなぁ」

 「だなぁ」

 「いやいや、その感想はおかしいですよ」

背後からのヤジは鱶丸に届きはしない。

彼が捉えるのは数メートル宙を舞い、アスファルトに背中から激突した影山のみ。

 「……ちょっと、アンタ、何てことしてくれるのよ」

 「……は?」

にも関わらず、衝撃音はない。

仰向けに倒れている影山から上がる艶めかしい女性の声。

誰の目にも男が一撃で沈んだのは明らかだったが、悲鳴も呻きもなく、平然としたあの声がしている。

 「はぁ。また寝ちゃったじゃないの。

……まぁいいわ。たまには私がやるのもいいわよね」

 「何言ってるんだ、お前」

 「さぁ?何かしらね」

横たわったままの影山と会話を続ける鱶丸。

声色はやはり女性のままで、静かに怒りを孕んでいるように聞こえる。

 「……なんだかわからないが、お前らがまともじゃないってことは理解したよ」 

 「あらあら。私達はそんなにじゃないわよ?」

楽しそうに微笑み、女の声は彼の後方へと意識を移した。

 「……あいつらが何だってんだ」

 「さぁ?振り向けばわかるんじゃないかしら」

ほくそ笑む声。

彼女の囁きは紛れもなく罠だ。

どこにいるのか、どんな人物なのかもわからない彼女の提案に乗れば最後。鱶丸は奇襲を受け、何らかの攻撃を喰らうだろう。

彼自身、そんなことは百も承知だ。しかし、そうと分かっていても意識は既に後ろの二人に移ってしまっていた。

 例えばもし、この声が前方から聞こえていなかった場合、声の主は既に沙紀美や空の方にいて、何かしているかもしれない。そうなれば、こうやって鱶丸を惑わせる行いそのものが罠であり、声の主の目的は達成できていると言える。

だが逆に、彼の予想した通りの罠だったとしたら。

思わせぶりな発言をして振り向かせ、背中ががら空きになったところを狙っていたとしたらーーー。

先ほど現れた二人…もしくは三人が、沙紀美と空のために命を張ってくれるとは到底思えない。

如何に正義感が強く、異常事態を察して飛び込んできてくれたとしても、やはり赤の他人のために死を覚悟してくれるとは思えない。

……で、あるならば。

 「沙紀美!空!!無事…!!」

 「優しい子」

大きく振り向き、後方にいる二人の安否を確認しようとした鱶丸。

その途端、あの黒いナニカが彼の首元目掛け、一直線に駆けた。

真っ黒な軌跡を描き、突進する鋭利な黒線。

空間を裂く音もなく迫りくる姿は獲物を捕食しようとする蛇に似ている。

 「ごめんなさいね」

黒線からこぼれる言葉。

それはあまりに小さく、また、嘘をついているようには聞こえなかった。

 「……ホント、わけわかんねぇよ」

 「へ?」

振り向き切ったはずの鱶丸の身体が僅かに正面へと向き直る。

同時に、鋭い眼光が黒線に向け、鉈のように振り落とされた。

 「反らして!!」

硬質さを覚える女の声で鱶丸は上体を反らす。

その瞬間、黒線に向けて何かが飛来した。

 「ぐッ…!?あぁぁあぁぁぁぁああ!!!!」

黒線に向け飛来したもの。それは、音もなく発砲された銃弾だった。

一際大きな波音と共に悲鳴が巻き起こる。

それまでの余裕を感じさせる雰囲気はなく、生と死の瀬戸際に在るかのような、身の毛のよだつ叫び。それと時を同じくして黒線が崩壊を始めた。

ドロリドロリと融解していく黒いナニカ。

粘り気のある液体と似た音を立てて地面に零れ落ちていくそれらは、アスファルトの上で僅かに蠢くと、徐々に形を整え始めた。

 「…それが本体か」

 「……えぇ…、そうなるわね…」

荒い呼吸交じりに微笑みながら答えるのは、美しいであろう姿をした長髪の女性を象った黒いものだった。

言い換えるのなら、二足歩行する術を得た人の影だろう。 

 「そういえば、お前に名前、聞いてなかったな。なんて言うんだ?」

 「…ふふ。おかしな子。

そうね。……私の名前はシャド。結構お気に入りなのよ」

笑みを絶やさずそう口にした彼女は、振り返ったように頭を動かすと、小さく何かを漏らす。

手を伸ばせば届く距離にいるはずの鱶丸にすら届かない何かを口にしたシャドは向き直り、両手を上げた。

 「さ、もう降参よ。煮るなり焼くなり好きになさい」

 「…何言って……」

 「あぁ。そうさせてもらう」

鱶丸が聞き返そうとすると、後ろから声が届いた。

あの、助けに来てくれたスーツの男のものだ。

 「影女、ですね。貴女には聞きたいことがたくさんあります。…ついてきてくれますよね?」

男と同様にして現れた、スーツ姿の女は鱶丸の肩に手を置いて優しく動かすと、影女とよんだシャドの手を取り、手首に枷のようなものを取り付けた。

 「…えぇ。構わないわ。最低限、保証してくれるのなら、ね」

 「善処します」

 「お、おい!だから誰なんだよお前ら!」

シャドとの戦いが終わりを見せたことにより、頭の片隅に追いやっていた混乱が再び鱶丸を襲う。

だが、彼の傍にいる三人は平然とした態度を取ったままだ。

 「おい!!聞いてんの…」

 「俺は森田 堅斗。こいつが那須 凉。詳しいことは後で教えてやるから、今はおとなしくしてろ」

 「なっ…」

取り付く島もないほどにはっきりと言い切られ、鱶丸は言葉を失う。

 「ま、そういうこった。ちょいとお預けだ。坊主」

 「……は?」

呆然としている彼の傍に露われるのは、甲冑じみた格好をした不可思議な何かだ。

 「…ったく。なんで出てくるんだか」

 「あン?いいだろ、別に」

 「話がややこしくなるからやめろってんだよ、バカが」

 「っは。このくれぇで面倒臭がるからお前は普通止まりなんだよ」

 「んだと!?」

 「二人とも、行きますよ!」

 「「…へーい」」

最早、鱶丸を蚊帳の外に置いて会話を進めてしまった三人は、呆然としている彼をその場に残して商店街とは別の方向へと歩き出し始める。

 「……悪いけど、シ…影山の事、お願いね」

頭痛が起こりつつある中、鱶丸を横切ったシャドはそう残し、そのまま那須と呼ばれた女性と、森田に連れていかれてしまった。

 「……何だったんだよ」

そうして、この場には、疲弊しきった鱶丸、倒れたままの影山、少し後方にいる沙紀美と空の四人が残された。

 「・・・仕方ないか」

呟くと、彼は離れた位置で未だ仰向けのまま倒れている影山の方へと数歩、近寄る。

 「……おい、大丈夫か」

 「うん、大丈夫。起きてる」

呼びかけに対して反応を示した影山はそのまま身体を起こし、立ち上がる。

 「……眠いから帰る」

 「眠い…って。あのな」

呆れにも似た怒りを乗せた彼の言葉は、歩き出そうとしていた青年の脚を止め、振り返らせる。

 「なに?」

 「シャド、だっけか。アイツにお前の事頼まれたんだ。

……大丈夫なのか?」

 「大丈夫だよ。うん、心配ない。前に戻っただけだ」

 「…そうか」

影山はあくび交じりに穏やかな返事をすると、もう、歩みを止めることも、振り返ることも無く、住宅街の方へと消えた。

 「おい!大丈夫だったか!?」

青年の後姿を見届けると、鱶丸はすぐに沙紀美達の方へと駆け寄る。

 「アニキ!

うん、僕も、空さんも、怪我はないよ。…けど」

不安に満ちた表情で鱶丸を見上げる沙紀美。彼の手が置かれている少女の身体は小刻みに震えている。

 「……私…私…!!」

うわ言のように繰り返し、そのたびに空は自身の左腕を強く握りしめる。

 「さっきからずっとこうなんだ。僕や、さっきいた人たちが何か言っても反応がなくて……。ねぇ、アニキ!どうしよう!!」

涙をこぼし、沙紀美は鱶丸に助けを求める。

 「…大丈夫だ」

 「……え?」

何も平気ではない状況で発された彼の言葉に呆気にとられた沙紀美は気の抜けた声を漏らしてしまう。

 「ごめんな。ちょっと、どいてくれ」

 「う、うん」

肩に手を置き、優しく沙紀美を離した鱶丸は、変わらずにうわ言を繰り返す空に身体を寄せ、包み込むようにして彼女を抱きしめた。

 「落ち着け。

俺は生きてるし、元気だ。お前が心配するようなことはなんにも起きてない」

 「……鱶丸?」

 「あぁ。大丈夫。本当だ。だから、こっちを見てみな」

ゆっくりと、空の頭が持ち上がる。

現れるのは、涙で汚れたメガネと怯え切った少女の顔。

 「ほらな」

 「……う、うぅぅぅ!!!」

鱶丸の満面の笑みを見ると、途端に彼女は大声を上げて泣き出した。

 「ごめんね…ごめんね……!私、私……!」

 「いいって、気にすんな。生きてんだから何の問題もねぇよ」

 「う、うぅぅ……」

胸元に顔を押し押せてすすり泣く空の頭に軽く手を置くと、鱶丸は隣に顔を向ける。

 「沙紀美、ありがとな」

 「え?」

 「お前がこいつの近くにいてくれたおかげで俺はあいつらとやり合えたんだ。サンキューな」

 「そんな…。僕は、なにも……」

 「バーカ。お前がちゃんと空の傍にいてくれたから、こいつはこんなもんで済んだんだぞ。お前だって、落ち込んでるときは誰かに傍にいてほしいだろ?」

 「それは、そうだけど……」

 「だから、お前も自信もっていいんだよ」

歯切れ悪く返答する沙紀美の背中を鱶丸は強く叩いた。

辺りに乾いた音と、少年の悲鳴にも似た声が響く。

 「さ。空が落ち着いたら本屋に行こうぜ。俺も買いたいのがあるからさ」

 「……うん!」

鱶丸がそう口にしてからおおよそ五分後、ようやく落ち着いた空を連れ、二人は商店街へと歩き出した。

初めはなんとなくぎこちなかった彼らの会話だったが、それも初めのうちだけ。

気が付けば、冗談を言い合う、いつも通りのものになっていた。

けれど、彼らはまだ誰も知らなかった。

今日の出会いが、三人の運命を大きく狂わせることに。

 潮騒の音は、まだ、遠い。





_____________________________________

   


 気味が悪いほどに静寂な空間。

光でさえ音として認識できてしまえるような暗室に、一瞬、明かりが灯った。

 蛍光灯のショートする音と共に照らし出される一帯は、あまりにも凄惨に過ぎた。

壁の殆どを染める赤黒いインク。

微かに飛び散っている何かの破片は生物としての特徴を残したままで。

辺りに生臭い臓物の臭いが蔓延しているのは想像するまでもない。

 「……やっと、見つけた」

微笑みを交えて響く、年端のいかぬ少女の声。

再び灯りかけた明かりは、彼女の白と赤に混じった髪を照らし、その手に持っている細長いナニカに照り返される。

 「待っててね、シエル」

くすり、と、笑みが闇に落とされた。









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