第2話 記憶が1日しか持たない人
「よかったら、こちらに座って。はるばる日本から大変だったでしょう。お菓子でも食べてくつろいで」
エイミーは二人にコーヒーとチョコレートケーキをキッチンから用意すると、白いテーブルの上に置く。ケンとリナはテーブルと同じく白いソファに横並びに座り、エイミーは彼らと向かい合わせに座った。
「リナの調子はどう? 半年前と変わらない?」
コーヒーを一口飲んだエイミーは、日本語でケンに尋ねた。彼は固い表情で、ちらと隣に座る妻を見てから答える。
「そうですね……。特に変わっていないと思います。朝起きると、記憶が全てリセットされてしまう」
悲しそうに言うケンに、エイミーは励ますように明るい声で言った。
「変わっていないということは、リナが頑張っている証拠よ。記憶を司る部分が損傷した場合、何もしなければ退化していくものなの。けれど、リナは私があなたたちと初めてコンタクトを取ったときと変わらず、一日だけ記憶を保持している。素晴らしいことだわ」
すると彼女の励ましが伝わったのか、ケンは表情を和らげた。
「そうなんですね、よかった。彼女が努力していることは俺が一番分かっています。本当にすごいんです」
「あなたが傍にいることは、間違いなく彼女にとって大きな支えになっていることでしょう」
エイミーが言うと、彼は照れ臭そうに笑う。
「そうだといいのですが……」
「自信を持って。大丈夫よ」
「それで……、今回の彼女の記憶力の向上はどうやって行うのですか?」
ケンはおずおずと尋ねた。
リナは、普通の人と比べると記憶力が著しく低い。保持できるのは一日だけ。そのため夫婦は様々な医療機関を訪ね歩き、時にはネットを使って記憶の向上が望める方法を探していた。そして辿り着いたのがエイミーのところだったのだが、彼女は医者でもなければ、記憶のことを調べている研究者でもない。だが、エイミーのホームページにはこんなことが書いてあった。
――あなたの能力について相談に乗ります。
胡散臭いと思ったが、藁にも縋る思いで連絡してみると、彼女は「リナの記憶力は取り戻すことができる」と言った。そして上手くいかなかったらお金はいらないが、リナの症例の場合は失敗するよりも成功する確率の方がずっと高いというので、ケンとリナは彼女を信じて詳しく話を聞いてみることにした。
エイミーの治療を受けるためには、様々なことを聞かれたが、特に現状の把握と、能力向上を間違いなく望んでいることを何度も確認された。そのためケンは、この治療がとても危険なものではないのかと思い、「手術でもするのでしょうか」と尋ねたが、彼女は「No」と答えるばかりで、治療の具体的な内容は一切話してはくれなかった。
正直、ケンはエイミーのことを疑っていたが、リナは記憶力が戻るなら何でもしたいと思っていて、エイミーのことを少しずつ信じるようになっていった。そうでなかったら、今日彼女とケンたちが会うことはなかっただろう。
「手術ではないから安心なさい」
ケンの心境を察して穏やかに言うエイミーに、ケンは訝しげな表情を浮かべる。
「では、どうやって記憶力の回復をさせるのですか……?」
問い続けるケンに対し、エイミーは謝った。
「ケン、悪いけれどそれは言えないの。契約をするときにも言ったはずよ。治療について一切尋ねないことが承諾できなければ、この契約は破棄することになると」
「……すみません」
ケンの中では葛藤があるのだろう。治療を受けたあとにリナの身に何かあったらと。だが、エイミーもその治療法について話すつもりはないらしい。
しかし問題のない治療法なのに、何故言うことができないのか。ケンは不思議で仕方がないようだった。
「あなたがリナのことを心配するのも無理はないわ。私の素性を探偵を使って調べたでしょう?」
エイミーの指摘に、ケンは顔を青くした。
「何故……それを……」
「責めているわけではないの。でも、分かって。残念ながら、どんなことをしても私の素性は分からないし、治療の方法も教えられない。だからあなたたちにとって、この選択はとても危険なことだわ。だから私もあなたたちから、五百ドルしか貰わない。けれど、記憶障害を完全に治療するといったら、こんな金額では決して済まないのも事実」
ケンは頷いた。
「分かっています……。僕らにとって、あなたが希望なのは代わりはありません。そうだよね、里奈?」
そういって妻を見ると同意を求めた。話せないようだとしても、エイミーに「治療をお願いしたい」と思っているのだろう。
「……うん」
「リナは、私に何か言いたいことはない?」
エイミーが尋ねると、リナは「ありません」と答えた。
「この人と息子のことを毎朝覚えていて、思い出を振り返ることができるのなら、それで……」
「そう。じゃあ、私の治療法を受け容れてくれるということでいいわね?」
「はい」
「分かったわ」
エイミーは頷くと、出したコーヒーを一口飲んだ後、こう言った。
「もう少しゆっくりしたら、リナにだけ話したいことがあるの。明日の治療に関する重要なことよ。でも、ケンには話せないことだから、二時間くらい出かけていて欲しいの」
「……契約書にも書いてあったことですね」
「そうよ。この辺りのことを良く知っている知人が来て案内してくれるから。自然公園もあるけど、近くだとディズニーランドがあるわ。あまりに広いから、先にどういうところか見に行くのも良いと思うの。それにリナの調子が回復したら、日本に帰る前に二人で行くのもいいんじゃないかしら」
エイミーが次々と話すのを聞き、ケンは少し考えた後に頷いた。
「――分かりました。あなたの指示に従います。でも何故そんなことをするのですか? 里奈はあなたの説明を聞いても、明日まで覚えていることができないのに……」
不安そうな顔をする彼に、彼女はゆっくりと大きく頷いた。
「ええ、分かっているわ。だから、意思の確認をするわけではないの。ただ……私の話を聞いて欲しいだけ」
「エイミーさんの話を、ですか?」
反応したのはリナの方だった。
「そう」
エイミーはただ柔らかく笑う。
「……」
リナは彼女の真意を掴めないでいた。
明日まで記憶が持たない自分に、話したいこととはなんだろうか。それは怖いことでもあったが、リナは少し嬉しくもあった。いつも自分と話をしてくれるのは夫と息子、そして両親くらいである。それ以外の人たちは、彼女と会話をしようとはしない。何故なら、覚えていてくれないから。自分のことを話して忘れてしまう人に、会話する意味がないと思っているのだろう。――だからこそ興味も惹かれた。
ケンは不安そうな表情をしながら妻を見ていたが、少し考えたリナは頷いた。
「分かりました。私で良ければお聞きします」
彼女の真っ直ぐな返事に、エイミーはほっとした様子でお礼を言った。
「ありがとう」
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