ふうちゃんの着物

増田朋美

ふうちゃんの着物

ふうちゃんの着物

11月というのに、まったく夏みたいな暑さだった。こんなわけだから、おかしな伝染病が流行るわけだとえらい人たちは、口をそろえて言っている。一般的な人は、もはや地球環境をどうなんて、出来るわけがなく、せいぜいマイバックをもって買い物するか、紙のストローでコーヒーを飲むかのいずれかである。みんな、この気候は少々おかしいのではないかと思うのではあるけれど、それをどうしようか、何てできるはずもないのだ。世の中を変えるなんてことは、大体のひとにはできやしないのだから。

変わらないと言えば、杉ちゃんだけはいつもと変わらず、口笛を吹きながら、依頼された着物の寸法直しをしていたのだった。最近、着物の寸法直しをしてくれと頼んでくるお客さんが多くなっている。まあ、着物を着てみたいというお客さんは増えているんだけど、それ以降が続かないという人が多くて、着物は結局、箪笥の肥やしに戻ってしまうというパターンが多い。其れは、仕方ないのかもしれないが、着物を使いこなすという文化が、なくなりつつある事を意味することでもある。だからこそ、何とかしなければ、と、偉い人たちは言っているが、今の時代、役に立つものでなければ、どんどん切り捨てられて、利益をつくれない人たちは、どんどん消し去られてしまうような気がする。

杉ちゃんが、口笛を吹きながら、今日も着物を縫い続けている間、蘭は、暑いなあ今日は、と言いながら、テーブルの掃除をやっていた。そんなとき、インターフォンがピンポーンと音を立ててなった。「あれ、今時誰だろう。」

と、杉ちゃんが言うと、

「ごめんください。影山杉三さんのお宅はここでよろしかったでしょうか。」

と、一人の女性の声が聞こえてきた。

「はいはい、まさしくその通りだよ。一寸さ、いま手が離せないから、入ってきてくれる?」

と、杉ちゃんが、でかい声でそういうと、女性は、わかりました、と言って、がちゃんとドアを開けて、中に入ってきた。彼女が部屋に入ると、蘭は、その体格に驚いてしまった。確かに女性であって、眼鏡をかけているが、一寸太った感じのひとで、ガタイが大きいという表現がよく合うひとである。

「で、今日は、僕に、何の用があってきたんだよ。」

と、杉ちゃんが、針を動かしながら、そう聞くと、

「ええ、この着物なんですけど、箪笥の肥やしにしてしまうのは、もったいないものですから、誰か着る人にあげようと思って。それで、友達から、影山杉三さんという人が、和裁をやっているから、その人なら、何とかしてくれるのではないかというものですから、それでお願いにきたんですよ。」

と、彼女は言って、カバンの中から、着物を一枚取り出した。よく見ると、白い生地に、松にボタンを小さく規則的に入れ込んだ、ずいぶん上品な着物である。捨ててしまうにしては、もったいないと思われる、立派な縮緬の生地で、しっかり、しぼもついていた。

「ずいぶん見事な着物ですね。」

と、蘭は、彼女にとりあえずそういう。

「これはどういうところから、入手したものなんですか?」

「ええ、骨董市です。リサイクル着物の。お値段は、確か、1000円くらいだったような。」

と、彼女は答えるが、一寸信じられないくらいの値段だった。こんなにおめでたい柄が入っているのにも関わらず、新しい持ちぬしをまた探さなければならないのだから。

「だけどね、1000円とはいっても、これは実に素晴らしい、小紋着物です。簡単に捨ててしまおうとか、買い取りに出しちゃおうとか、そういうことは考えないでもらいたいな。そうなると、このくらいの価値しかないことになって、着物がかわいそうですよ。」

蘭は、そういうことを言ったのであるが、

「でも私、着物はもうこんなに太っちゃって、着れないし。」

と、彼女は答えるのである。

「まあ、太ったと言っても、小錦みたいに太ったわけじゃないし、相撲取りだって、着物を着ているんだから、何とかすることをかんがえよう。それでは、お前さん、一寸立ってみて、それを着てみてくれるか。」

と、杉ちゃんがいきなり唐突に本題を切り出した。杉ちゃんという人は、前置きも何もなく、話してしまうことがとても多い。だから、大体のひとはそれにびっくりしてしまうのであるが、杉ちゃん自身は、何も悪びれた様子もなさそうである。

「ほら、良いから立つんだよ。寸法合わせするから。」

「でも私、もうこの着物は、着れないって、もう言われちゃいました。だから、もうあきらめるしかないのかなと。」

そういう彼女に、

「あきらめるのは、試しに着てみたあとにせい。とりあえず着てみるんだな。言っておくが、着物というもんは、体格に合わせて、着物を選ぶのではなく、自分を着物に合わせて調整するもんだ。」

と、杉ちゃんは平気な顔で言った。杉ちゃん、もうちょっと、説明してあげればいいのにと、蘭は思うのであるが、杉ちゃんというひとは、そういうところを無視して強引にやってしまうのである。

「とりあえず、着てみてくれ。」

と、杉ちゃんは言ったので、彼女はその通りにした。まず着物を羽織ってみたが、確かに、普通に着るにしては、一寸身幅が足りないかという塩梅である。こうなると、座ったりした時に、着物が割れてしまう可能性があった。

「よし、着付けに工夫すれば、まだ着れるな。一寸裾を持ち上げて、下前の裾が、斜めになるように着てみてくれ。」

と、杉ちゃんに言われて彼女はその通りにした。これをすると実は小さい着物でも意外に着られるようになってしまうのである。杉ちゃんの指示通りに着てみると、確かに、背中心はずれるのであるが、何とか着ることができた。

「ほら、大丈夫じゃないか、アンティーク着物って奴かな。そういうのを着るときは、皆、そうやって工夫して着るさ。着られなかったら、着れるように工夫すればそれでよいの。お前さんは、太っているというが、そんなの大したことじゃないから。出来なかったら何とかしようと思わなきゃ。寸法直ししなくても、それで着付ければ大丈夫だね。」

杉ちゃんはそうにこやかに言うが、彼女は、一寸困ったという顔をした。蘭が、

「どうしたんですか。まだ何か、困ったことでもあるんですか?」

と、彼女に聞くと、

「ええ、本当は、着物なんて着るところなんて何もないから、もう処分したいと考えていました。」

と彼女は正直に答えてくれた。

「まあ、処分なんてしないでくれよ。1000円なんて馬鹿な業者が付けちゃった値段に騙されんな。これは、お前さんが、考えている以上に立派な着物だよ。だからさ、処分なんかしないでさ、着る機会

をつくってきてほしいな。きっと何か縁があって、お前さんのところにきてくれたと思うんだよ。」

杉ちゃんがそういうことを言うと、

「それでも着る機会無くて、置きっぱなしにしては、ちょっとかわいそうだと思うので。」

と、彼女はそういうことを言った。

「だけど、そういうことはしないでもらいな。本当に価値のある着物だからさ。じゃあ、教えてやるか、松は一年中、枝の落ちない神の木と言われているんだ。だから、松の柄ってのは、自動的に格が高くなるわけ。其れをふんだんに使ってるんだから、これは、礼装から、外出着まで、使える着物だよ。なかなか優秀な着物だぜ。」

杉ちゃんは、えへんと咳払いして、そういうことを言った。

「そうかもしれないけど、着る機会がないし、着たら、着物を直すおばさんとか、そういうひとに遭遇して帯のつけ方が間違っているとか、そういうことを言われちゃうし。」

と、いう彼女に、

「ほんなら、その次の日から直せばいいの。言われたら、ああそうですか、わかりましたと言って

置けばそれでいい。わかんないことが在ったら、僕たちに見たいな着物を着ているやつらに聞けばいいの。そんなことは、よくある事だから。それでいいじゃないか。」

と、杉ちゃんは、反論した。でも、そういう風に、解釈ができてしまう杉ちゃんという人は、本当に

すごいなあと、蘭は思ってしまうのであった。ただ、言われたんだから直せばいいじゃないかという解釈は、簡単そうに見えて実は難しいものであると蘭は知っている。たとえば、過去のことについて悩んでいる人がいた場合、過去を捨てろというのと同じくらい難しい。

「大丈夫だよ。今は知らなくて当たり前だし、同時になんでもありの時代なんだからさ。これはこうっていう決まりごとが、初めからおしまいまで、もうないっていう時代なんだから、誰かに言われたら言われただけで置いておいて、自分流を貫けばいい。」

「杉ちゃんすごいね。そういうことが言えるなんて、信じられないよ。」

蘭は思わず杉ちゃんに言った。

「だって、そうするしかないじゃないか。それ以外、なにもできることはないし、出来ないこともないんだ。」

「だけどねえ、其れは一寸、厳しいというか、きついというか、、、。」

「ほかに、何もないだろ?」

杉ちゃんと蘭がそういうことを、言い合っていると、女性は二人が言い合っているのを見て、感動したと思ったらしい。

「本当に、ありがとうございます。こんな私のために、議論をしてくれたりしてくださって。うれしいです。」

彼女は、一寸涙を見せながら言った。

「いいんだよ。お前さんの事じゃなくて、当たり前のことを論議していただけだから。ところでお前さんの名前なんて言うんだ?」

杉ちゃんが軽い気持ちでそういうと、

「加賀山房江です。ほかのひとにはふうちゃんと呼ばれています。」

と、彼女は一寸恥ずかしそうに言った。

「加賀山房江、、、。なんか聞いたことある名前だな。ふうちゃんというのも、聞いたことがある。」

蘭は一寸、その名前に聞き覚えがあった。

「加賀山房江、加賀山房江、えーと。」

と、一生懸命思い出して、

「あ、あなたは、一度、小説かなにかで賞をもらったひとですね。あの、ある女の日記という本で。」

と、やっと思い出した。

「僕は、本を読んだことはないけれど、加賀山房江さんがテレビに出ていたのは見ました。確か、静岡の県民文芸に入賞したとか。」

蘭がそういう通り、加賀山房江という人は、そういうひとだった。静岡県民文芸の表彰式の映像で、彼女の顔が写っていたのを、蘭は、思い出したのである。

「でも、その一作だけなんですよ。本として出したのは、ある女の日記だけ。それ以外は、何も出版の話は来てないんです。」

と、彼女は、静かに笑う。

「そうですか。でも、僕のもとにやってきたお客さんが、とても素晴らしい本だと言っていましたが。」

と蘭は言った。

「それでも、もう出版の話はもう無いと思います。もう、小説を書く気にもならないし。其れもそうだけど、あの頃のことはもう忘れたい。なかったことにしたいんです。」

「はあ、ネタ切れでもしたんかいな。」

と、杉ちゃんは、一寸からかうように言った。

「まあ、まだ描きたいことはあったけど、もう自信がなくて、おわりにしたいかな。」

房江は、そういうことを言う。

「おわりねえ。其れがなくなったら、お前さんはどうやって生きていくんだ。何か別の商売探すのか?」

と、杉ちゃんが言うと、

「ええ、でも、それが何も無くて、困っているんですけどね。」

と、彼女は言った。はあ、なるほどねえ、と杉ちゃんも蘭もお互い相槌を打つ。確かに、一度有名人になってから、いろんな所へ職を求めると、その名前が邪魔をして、何も仕事が見つからないという事例は結構ある。

「まあ確かに、そういうことはよくある事だけど、でもさ、一度、そういうことをやっていたんだから、もう一回、それを書いてみるというのも、悪いことじゃないと思うぜ。なんでもいいからさ、本気出して、ある女の日記パートつうを書いてみたらどうだよ。一度、小説を執筆してるんだったら、そのノウハウは、知っているはずじゃないか。」

と、杉ちゃんが、でかい声で言うと、

「ええそうですね。でも、もう、書くということというか、やることがなくなってしまったし、もう私は、おわりになっちゃうのかなって。」

と、彼女は答えた。

「お前さんは、着物だけじゃない。自分の命も、無駄にしているぞ。」

杉ちゃんは、一寸強い感じでいきなりそういうことを言った。

「でも、もう私は、」

と、彼女が言いかけると、

「だからあ、人間なんて、ちっぽけなもんだよ。どうせ、出来ることは一つか二つくらいなの。長い人生だっていうけど、大成したことは、一つか二つ。それくらいしかできないさ。残りの時間は、そのために費やす時間。それで、一度やっているんだから、黙っておんなじことをやるんだよ。黙ってな。涙なんか、見せちゃだめだぜ。」

と、杉ちゃんは言った。

「一生のうちに、一つ以上の仕事ができるやつもいれば、そうじゃないやつもいるし、其れは、いろんな人がいていいはずだ。大事なことはね、其れよりも、お前さんの一番大事なものを一番好きなものに、かけていくことじゃないか?」

「そうですよ。時間と、それが許されるんだったら、それをする方が良い。無理して普通のひとでいる必要はありません。」

蘭も、そういうことを言って、彼女を慰めたが、彼女は頭をだらっと下げたまま、

「もっと前に、お二人に出会っていたらよかったわ。まだ私が、ある女の日記の作者だった時に。」

というのであった。

「それ、どういう意味だ?だって、あの本を書いたのは、お前さんだろ?ほかのやつが書いたとか、そういうことはないんだろ?」

と、杉ちゃんが聞くと、

「ええ、確かに其れはそうなんだけど、私はあの後、、、。」

彼女は返事をしかけて、また言葉に詰まってしまったらしい。

「あの後なんてどうでも良いじゃないかよ。其れよりも、あるものは今だぜ。今しかないんだよ。

どっかの偉い人がさ、人生において一番大事な時、それはいつでも今だって、言ってたじゃないか。其れを、忘れてはいかんよ。」

と、杉ちゃんが言った。

「そうだけど、私は、もう終わりなのよ。」

そういう彼女は、どちらかと言えば、そっちの方を言ってほしいという感じの表情で言う。

「僕らは、お前さんのことを責めたり怒ったりしているわけじゃない。そういうことじゃなくて、お前さんの大事なものを無駄にしていると言ってるんだ。誰でも、お前さんはダメだなんて言うやつがああるか?それは、言ってほしくないだろ?それよりも、お前さんにはできることが在るって、言ったほうが、お前さんだっていいんじゃないの?」

杉ちゃんが、彼女に疑問を投げかけた。蘭は、なんとなく、彼女の答えが、わかってしまったような気がした。以前、周りの評価はさんざんなものであるが、自分の中では自分は芸術家としてやっていきたいという誓いのしるしとして、刺青を彫ったことのある客がいた。其れと彼女は同じことを言っているのだと思う。

蘭が、何か考えていると、玄関のドアがピンポーンとなった。

「はいはい誰だよ。今忙しいから、上がってきておくれよ。」

と杉ちゃんがでかい声で言うと、

「あの、こちらに、加賀山房江さんが来ていますよね。すぐに、こちらに戻ってきてくれるように言っていただけますか?」

と、若い男性の声がした。

「はあ、彼女ならいるけど、お前さん何ものだ?」

と、杉ちゃんが答えると、

「わたくし、看護師の高森と申します。加賀山房江さんの訪問看護を担当しています。加賀山房江さんが、着物を買い取ってもらいに行くといったまま、いつまでたっても帰ってこないので、何かご迷惑をかけているのではないかと思いまして、心配でこちらに来させてもらったんです。」

と、彼は言った。

「へえ、じゃあ、加賀山房江さんの担当ってわけね。」

「ええ、加賀山さんが、何か迷惑かけていませんでしょうか。もし、ご迷惑でしたら、すぐに帰らせますから。加賀山さんが、何か変な発言をしたり、おかしな言動で迷惑かけたりしませんでしたか?」

と、高森さんは、そういうことを言いながら、急いで杉ちゃんのいる部屋に入ってきた。看護師と名乗っていたが、看護師のよくある制服は着用せず、ジャージ姿をしている。

「ええ、僕たちは、何も迷惑はしておりません。ただ、彼女が、新しい小説に挑戦してくれるように、彼女を、鼓舞していただけの事です。」

蘭が、高森さんにそう言ったが、高森さんは冷ややかな顔をしていた。

「確かに、彼女はそういうときもありました。でも今は、僕たちの患者として来てもらっていることを、しっかり自覚してもらわないとね。加賀山さん。あなたは、小説を書いたかもしれないけど、そのあと、妄想をさんざん口にして、家族や知り合いに迷惑をかけた事を忘れてはいけません。それに、」

「そうだけど。」

と、杉ちゃんが口をはさむ。

「でもさ、彼女は確かに心が病んだのかもしれないが、彼女が、ある女の日記を書いたということを、忘れてはいけないんじゃないか。だって、あの本は、間違いなく、彼女が書いたもんでしょう。其れは、彼女の才能というか、もっときちんと認めてやるべきじゃないか?」

「ええ、そうなのかもしれないけどね。でも、彼女は、今はそんなことも書くことはできませんし、妄想の世界で、ぼんやりと、生きているような人ですよ。だから、僕たちのいうことは聞いてもらわないと。それでは、ご迷惑をおかけしたことをお詫びして、自宅に帰りましょうね。」

杉ちゃんがそういっても、高森さんは、冷たい顔をして、そう返すのであった。蘭は、彼の表情を見て、こういう気持ちこそが、彼女に対する、究極の差別なのではないかと思った。多分彼女が作家として、この世界に生きていることは、非常にむずかしいことなのだと思うが、どこかで負けずに書き続けてほしいと思うのだった。

「本当に、ご迷惑おかけしてすみませんでした。彼女をすぐに帰らせます。」

と、高森さんは、そういって、彼女の手を取って、さあ行きますよと、彼女に帰るように促した。そして、もう大丈夫だからと言って、彼女の手を引いて、外へ出ていった。

「何が大丈夫なもんか。そういうお前さんたちが、彼女の自信と言うか、そういうものを、奪っていることに気付け!」

と杉ちゃんが、でかい声で言って反論したけれど、彼女は何も言わす、高森さんに従って帰っていくのだった。

後には、例の着物だけが残った。

一年中、枯れないでいる、神の木と呼ばれる松が描かれた、着物だけが。

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ふうちゃんの着物 増田朋美 @masubuchi4996

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