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――ヤマギシさんが、そんなことするはずがないじゃないですか。
……ん、起きました? 思ったより長く寝ていましたね。目的地にはまだかかります、もう少し長く眠っていてもらっても良かったんですが。
ああ、すみません。暴れないでくださいね。まだ薬が残っていると思いますし、抵抗されても危険なので拘束させていただきました。ええ、お察しの通り、脇腹へ最高電圧のスタンガンを。迎えに行くはずだった女性には申し訳ありませんが、徒歩で帰ってもらっています。おや、赤信号だ。
さて。ある程度は、時間があります。どうせ車内に二人きりだ。あなたも、いきなり眠らされて何も知らないまま拉致されるのは不本意でしょう。運転しながらでも、語れるものはあります。
誤解を解きましょう。ヤマギシさんについての誤解を。
あなたはヤマギシさんを誤解している。
言っていたでしょう、ヤマギシさんがその弟分とやらに盗みを唆したと。あり得ないんですよ。ヤマギシさんが、盗みを唆すなんて。ヤマギシさんはね、ただ促していたんですよ。盗品を、きちんと盗んだ場所に返せって。これ以上盗みを重ねるなって。
分かっているでしょう。全ての原因は、あの地下室に置かれていた箱なんです。
ええ。そうです。ああ、一点だけ訂正を。警察は、あなたに近づく前に辞めてきました。當間組の方にもお話を伺うなどしましたが、やはり組織に所属したままではできないことも多かった。おっしゃる通り――僕は、あの邸宅の捜索にあたったヤマギシさんの後輩です。
本当はね。あの箱を開けていたのは、僕だったんですよ。
机の天板をずらした下のダイヤルは、三、八、二、六。そうすればロックが解除されるから、本棚の側面、寄せ木細工の鸚鵡が扉を開けるスイッチになる。地下室への入り方、覚えているでしょう? 解錠の専門技術を持った熟練の鑑識でさえ、少々手こずらされていましたよ。壁を破壊せずに済んだのは幸いです。
地下へと続く階段へ、何の疑いもなしに降りていこうとする僕を止めたのはヤマギシさんでした。
ヤマギシさんは、警察学校を出たばかりの新人だった僕の教育係を務めていた先輩です。『経験を積ませる』と言っては僕を積極的に現場に出すくせに、本当に危険な現場は黙って僕を下がらせて自分が前線に立つ。勘がいい捜査員として他の上官方にも信頼が篤い、そんな人でした。
そんな勘が、よりによってあの場で働いてしまったんでしょうね。ここは自分が調べる、と言い置いたヤマギシさんは僕の代わりに地下室へと降りていきました。それが、僕がヤマギシさんに言葉をかけてもらった最後になった。
思い出したくもないんですけどね。署に配属されて間もないときに、動物虐待で捕まった男の取り調べ補助にあたったことがあります。僕に任されたのは、証拠品――そいつの行為を記録していたビデオの確認でした。あのときに聞いた断末魔は今でも覚えています。
それと同じ叫びが、地下室の方向から響いてきました。続いて、一発の銃声が。
ヤマギシさんはね、自分で自分の左手を撃ち抜いたんですよ。
僕が駆けつけたときには、既に他の捜査員と乱闘になっていました。……いや、あれは乱闘じゃなかった。古ぼけた木製の箱に覆い被さって離さなかったヤマギシさんと、とにかく本人を取り押さえようとする周囲の揉み合いです。
結局、負傷していたヤマギシさんは複数人の手によって取り押さえられ、箱から引き剥がされました。
その一部始終を見ていた全員が察しましたよ。ヤマギシさんは、この箱を開けてしまったんだと。
それだけじゃない。今なら分かります。ヤマギシさんは、僕たちを守ろうとしていたんです。身を挺して、僕たちと箱の間に割って入ろうとした。
家宅捜索中の捜査員が突然、自身に向かって発砲するなんて前代未聞の不祥事です。ヤマギシさんの状態や周囲の証言もあって、箱の存在は発砲の事実ごと揉み消されました。僕を含めて、現場にいた人間は全員が配置換えになっています。
――ヤマギシさんはね。まだ病室から出られません。あんたの弟分と違って面会すらできない。あの温厚だった人が、看護師に暴力を振るう恐れがあるとしてベッドに拘束され、一人きりの病室に閉じ込められている。
阿木津神社。聞き覚えがあるでしょう? あなたの弟分だという人が賽銭を盗み、そして保護された神社です。
ヤマギシさんの事件が起こった後、警察は例の箱を供養に出すことにしました。文化財を専門家に鑑定してもらう、というお題目でね。最初に打診した大きな寺社仏閣には、全て断られたようです。途中からは内輪で話がまわったのか、こちらから連絡を取る前に断りの連絡が入った神社もあったとか。結局、警察内部の伝手を頼って地元の小さな神社に依頼することになった。それが、阿木津神社です。
お祓いには、現場となった邸宅の家宅捜索に参加していた全員が集められました。これだけの規模となれば完全な隠蔽は不可能です。箱のことは厳重に伏せられていましたが、『捜索中にとある捜査員が精神に異常をきたした』という噂は漏れてしまったかもしれません。担当した阿木津神社の神主さんも不承不承押しつけられたはずなのに、真剣に取り組んでくださった。おかげで、今のところ僕を含めた関係者に何か異常なことが起こったという話は聞きません。正式な依頼料に加えて、関係者からはそれなりの心付けが神社に渡ったはずです。
でもね。ヤマギシさんは、駄目でした。お祓いが終わって数日しても、ヤマギシさんの容態に変化があったという話はなかった。一日の大半は心ここにあらずといった様子でぼんやりして、ふとしたはずみに我を失って暴れる。その繰り返し。
どうやら失敗に終わったらしいって雰囲気になった数日後に、署に電話がありました。お祓いを執り行ってくださった例の神主さんからです。なんて言ってたと思います?
『あの程度じゃ駄目だった。あの箱を無害化するには、誰かがあちらに持っていかなきゃ駄目だ』『あんたらには分からんだろうがね、神社自体があの箱に飲み込まれてしまった』『悪いが、俺は命までは賭けられん』
そういった内容をぼそぼそと喋っていました。受話器をとった僕が意味を聞き返す間もなく、通話は切れてしまった。
電話の後、神主さんは音信不通になりました。社務所やご実家にも一切戻った痕跡はないそうです。ご家族の方が捜索願を届け出ましたが――数日後に、神主の弟さんがそれを取り下げにいらっしゃいました。見つかったわけではないそうです。『兄は、もうこの土地に戻らない方が幸せなんです』と――弟さんは、そうおっしゃっていました。
本当に、本当に。あなた達は、なんというものを残していってくれたんだ。
ああ、もう。暴れないでくださいよ。運転しながらスタンガンを操作するのも大変なんです、車線をはみ出してしまいました。車通りの少ない深夜だから良かったようなものですけどね。ここで僕が事故を起こせばあなたも無傷では済みませんよ。
ええ、はい。阿木津神社まではあと五分足らずで着くでしょう。理解が早くて結構です。
あなたが、あちらまで箱を持っていってください。あなた達庚徳会が受け継いだものだ。あなた達に責任をとらせます。
無理? 嫌だなあ、やってみなきゃ分からないじゃないですか。何事も挑戦ですよ。ほら、分かります? あの信号を左折すれば神社に着きます。大丈夫ですよ。あなたが失敗しても、僕が後を引き受けます。安心して箱に向き合ってください。
人を呪わば穴二つ。あなたが警察に残した庚徳会の呪い、あなたにお返しします。
だから――ヤマギシさんを、返せ。
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