ラバー・イン・シャーク
あの日、怜は岩崖の下から、何かに呼ばれた。
気がついたら、すでに体は宙に投げ出されていた。
死の直前、怜の脳裏に浮かんだのは、刎頸の友、結乃の姿であった。
怜は、ひそかに彼を恋い慕っていた。自らの結乃への思いの性質にはっきりと気がついたのは、一年ほど前からのことである。
気づけば、彼のことばかりを考えている自分がいた。同性の、それも長年の付き合いである友への恋心など、どうして明かすことができよう。つらい。つらい。どうしようもない。
そうした懊悩が、怜の精神を甚だ摩耗させていた。結乃は人に好かれる方であるから、きっとそう遠からず異性と結ばれるに違いない。もしそうなったとしたら、いっとうつらい。考えたくもないことであった。考える度に、胸をかきむしり、悔しさにのたうち回った。
結乃への思いを胸に、怜は海中へと沈んでいった。
沈みゆく怜は、海中でヨシキリザメの亡霊に出会った。自分を呼んだのはこいつだ……怜は直感的にそう思った。摩耗し弱り切った霊魂が、ヨシキリザメの霊魂と結びつく。そうしていつしか、怜はサメの霊と一体になっていた。
サメの霊は貪欲であった。彼は他にも人間の霊魂を欲しがった。そこに折よく、一人の男が同じ岩崖から身を投げた。このサメが欲しがっていそうなある種の憐れさを、この男も持っていた。
男の霊魂が、サメに取り込まれた。すると、男の内側でふつふつと煮えていた怨念が、そのまま怜とサメの中にも流れ込んできた。どろりとした念が、怜とサメに混ざり合い、サメの霊を中核として、その存在の有り様が変質していく。
――そうだ、恐怖を見せてやるべきなのだ。明るい場所を歩く者全てに……
最初は、男をたばかり自殺へと誘引した詐欺師の女を、肉体関係を持っていた男と共に食い殺した所から始まった。ことは呆気なく終わった。
そのことによって、もう歯止めは利かなくなってしまった。幸せを恐怖に塗り替え命を奪う、無慈悲な化け物へとなり果ててしまったのである。
***
結乃の中に、思考が流れ込んでくる。怜の抱えた懊悩、死の真相、サメと男の怨霊……それらは氾濫する河川のような勢いを持って、いっぺんに押し寄せてきた。
「怜は僕のことが……?」
「ああそうさ。好きだったよ。でも……伝えられるはずがないじゃないか」
結乃は自分の胸に手をあてて考えてみた。確かに、彼の振る舞いには、友情の一線を越え出しているような部分がいくつもあった。彼はただの友人にしてはスキンシップが激しかったし、思わせぶりな視線を向けてくることもあった……ような気がする。けれども、自分はそこに隠された彼の思いに気がつかなかった。長きに渡って彼と共にいたというのに気づかなかった。いや……気づかなかったというより、気づこうとしなかったのではないか。今更ながら、結乃はそう自らを振り返った。
怜は、そっと結乃を抱き返した。周りの人や物は、全て静止している。今、世界にはただ自分たち二人だけが存在している……結乃はそんな気分に浸っていた。その心地は、決して悪いものではなかった。
「だからさ……結乃」
「ん?」
「ボクと一つになってよ」
ふっ、と、空気が変わった。怜の姿は、瞬きの間に消え失せていた。
止まった時が、動き出した。大口を開けたサメが、結乃を食らわんとしていた。結乃はこの時、自らの置かれた危機的状況を再び思い出した。
だが、サメの口は閉じられなかった。当然、結乃がその牙の餌食になることもない。
よく見ると、サメは大口を開けたまま細かく震えていた。まるで苦しんでいるような、そんな様子である。
「はははっ、やったぞ!」
歓喜の叫びを発したのは、マイクであった。
「お前、腕ごと十字架を呑み込んだだろう? その効き目だ!」
マイクは泡を飛ばしながらそう叫んだが、ことの実態は少し違っていた。
十字架が呑み込まれただけであれば、サメはそのまま、何事もなかったかのように暴れ続けていた。
ところが、そこに異変が起こった。怜の動揺である。これによって、霊魂同士の結びつきが僅かに弱まった。そこに、呑み込んだ十字架が効いたのだ。このサメはサメと怜、そして自殺した非モテ男の三位一体でできている。その結合が弱まり、楔として十字架が打ち込まれたことで、サメは霊体が保てなくなったのだ。
サメは宙に浮かんだまま、ぶるぶると震えていた。その体は段々と薄くなっていき、しまいには最初からそこにいなかったかのようにかき消えてしまった。
その頃、各地で暴れ回り、阿鼻叫喚の地獄を演出していたサンタ帽の青白いサメたちも、唐突に消えてしまった。突然のことに人々は戸惑いつつ、自分たちが助かったことに安堵したのであった。
それ以降、もうサメが姿を現すことはなかった。
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