小さすぎた十字架

 結乃の目の前で、サメは口を開いたまま静止していた。周囲を見渡してみると、真咲も修道服も、微動だにしていない。止まった時の中で、自分だけが動ける。そういった状況であった。


「結乃」


 声が聞こえた。その声変わり前の少年の声に、結乃は聞き覚えがある。


「怜!? いるの!? 何処なの!?」


 聞こえた声の主は、怜その人であった。少なくとも、結乃はそう感じた。長らく友誼ゆうぎを結んできた相手だ。聞き間違うはずもない。


「ボクはここだよ」


 声は、サメの口の奥から響いていた。そして、サメと結乃のちょうど間に、まるでホログラムの映像のような、半透明の怜が姿を現した。彼が死ぬ前に結乃が見た時と全く同じ姿をしている。死人がこのような形で再び姿を現すなど、常時では信じられないことであっただろう。だが幽霊のサメを見た後とあっては、もう驚くべきことではなかった。


「怜、これは怜の仕業なの……?」

「その通りさ。どうだい? 結乃。怨霊とジョーズなら無敵だろ」


 怜は白い歯を口からのぞかせ、にやりと不敵な笑みを浮かべている。彼の秀麗な尊顔は、狂気の色に塗られていた。にやにやと、まるで自分の偉業を誇るかのように……

 

「どうして……怜はそんな人じゃなかった」

 

 そう、彼は決して、意地の悪い狡児ではなかったし、凶暴で好戦的な悪童でもなかった。人を殺してへらへらと笑うような狂人では決してない。


「結乃はボクのことを誤解してるのさ。お前が思っているよりずっと姑息なヤツだよ。この世の幸せそうな奴らが理不尽な目に遭うなんて、愉快極まりないじゃないか」


***


 この時、結乃と真咲には知る由もないことであったが、サンタ帽をつけた青白いサメによる捕食被害は、様々な場所で同時に起こっていた。

 公園の噴水、ラブホテルの一室、個人宅、ありとあらゆる場所にサメは姿を現し、そしてカップルを惨殺した。共通するのは水のある所から姿を現すことと、恋人たちが仲睦まじくしている場所に決まって現れ、むごたらしく狼藉を働くということであった。

 正体不明のサメに、果敢にも攻撃を試みるものもあった。だが、サメには拳も、石も、拳銃さえも全く効かない。全て半透明の体をすり抜けてしまうのである。サメに対する抵抗は、全くの無意味であった。

 手の打ちようがない怪物に、人々はただ怯えることしかできなかったのである。


 サメがもたらしたのは、血染めのクリスマスイブであった。


***


 結乃は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。もう、彼は対話不可能な怪物と化してしまったのかも知れない……結乃の中で、悲嘆の念が恐怖に勝った。もはや結乃にとっては自分の命よりも、刎頸の友であった者の変容の方がずっと重みを持っていた。


「怜……もしかして怒ってるの?」

「何を? どうしてボクが結乃を?」

「だって、怜のお姉さんとえっちなことしちゃったから……」


 そう、自分と真咲の関係は、正直に言ってよからぬものである。そのことに怒った怜が、サメをけしかけているのかも知れない。いや、そんな単純な理由であったら、どんなに良かったことか……この推測には、結乃自身の願望も大いに含まれていた。


「はは、結乃が姉貴とヤろうが何しようがどうでもいいさ。どうでもいいことだよ、そんなことは」


 この時、結乃は怜の返答を聞きながら、違和感を感じていた。彼の顔から、あの嘲るような笑みが消えていた。その表情から、結乃は彼が動揺していることを察知した。きっと今のことは、怜にとって心を動かされるようなものであったはずなのだ。「そんなことは」の部分を吐き捨てるように言い放ったことから、どこか虚勢を張っているようにも見える。


「怜……本当は何か隠してるんじゃないの?」

「黙れ! いくら結乃でも許さないぞ」


 やはりだ。結乃の推測は当たっていた。怜はきっと、動揺しているのだ。その怒声ではっきりとした。


「僕たちずっと友達だったじゃないか」

「だからだよ。だから言えないんだ……」


 先の不敵な笑みはどこへやら、怜は流麗な目を結乃から逸らし、うつむいてぎりぎり歯をかみしめている。拳は固く握られ、すらりとした体をわなわなと震わせていた。


「理由は分からないけど……やっぱり怜を放っておけないよ」


 結乃は一歩、踏み込むと、怜を正面からそっと抱きしめた。不思議にも、怜には実態があった。もう死んでしまっているせいか、怜の体は冷え冷えとしていた。

 「形而下であり、形而上である」マイクはサメをしてそう説明した。サメは自らの意志によって、実態を持ったり持たなかったりしているのだろう。そしてそれはサメだけでなく、目の前の怜もきっと同じなのだ。

 怜は、結乃に抱きしめられるのを拒まなかったということである。


「結乃……」


 怜の頬に、涙がつたっていた。

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