忍びよる影

雨野 優拓

忍びよる影

 誰かに見られている気がした。


 部活帰りの夕暮れ。傾きかけた太陽のせいで見えるものは茜色に染まり、縦長な影を生やしている頃。その少女は勉強道具一式が詰まって重たいバッグを肩に下げて疲れた身体を引きずるようにして歩き慣れた通学路を帰っていた。

 生憎なことに部活の仲間とは家の方向が違うせいで、彼女はいつも一人で帰っていた。

 一人娘が薄暗い時間にたったひとりで歩いて帰ってくることを母はたいそう心配したが、「もう高校生なんだから」と、少女は母の心配をうっとうしげに払いのけた。

 家から学校まではそんなに距離があるわけではなかった。

 毎日の通学のことを考えてわざわざ家から近い高校を選んだのだ。なにも人の気のない林道や、路地裏を歩くのではない。通る道はなんてことない住宅街の一角だ。母が心配するような何かが起こるとは到底思えなかった。


 けれど、少女はすこし前から何者かにずっと後をつけられている気がしていた。少女の足並みを真似ているのか足音は聞こえない。それでも、やっぱり誰かが後ろから見ている気がしてならなかった。


 最初のうちは一週間の内に一度あるかどうか程度で「たまたま通る道が同じなんだろう」と、それほど気にしていなかったのだが、ここ最近はほぼ毎日のように気配を感じた。そうなってくると話は変わる。偶然では済ませられない。

 こういう場合、無闇に振り返ったりせず相手にしないでさっさと距離を取るのがいいと、少女はどこかで耳にした覚えがあった。だからその少女は、後を付ける者の正体を確かめるようなことはせずに、歩調を速めて距離を取るようにしていた。


 父や母には、その事は言わなかった。言えばきっと、「部活を早く切り上げろ」だったり、最悪の場合は「部活を辞めろ」と言われるかも知れなかったからだ。

 少女は部活が好きだった。辞めるのは無論、放課後の練習も出来ることならもっと長くやりたいくらいだった。だから、彼女はその事を両親には話さずにいた。




 そして、この日も彼女は背後からじっとこちらを窺う何者かの気配を感じた。

 少女はその気配に慣れ始めていた。

 最初のうちはそれは冷や汗をかき、身体中の産毛は逆立ち心臓が跳ねる思いをしたが、そいつは見ているだけで何もしてこないのだ。


 だんだんと、恐怖は怒りに成り代わっていた。


 何もする気がないのにずっと後をつけてくる。臆病なのか、そうじゃないのかよくわからない。そんなことをする奴はいったいどんな面をしているのか。

 少女はその正体を暴いてやりたいという嗜虐心にも似た思いを抱いていた。

 きっと、猫背で肩を丸めた日陰者にちがいない。これまでそんな人生を歩んできた歪んだ人間の仕業だ。でなければもっと早い段階で何らかのアクションを起こしていたはずだ。

 少女はそう思った。


 そして、ついに少女は脈絡もなく背後を振り返った。いったいどんな顔しているのか、写真に収めてやろうと手には携帯すら構えていた。けれど、振り返ったそこには誰もいなかった。

 夕陽を跳ね返して橙色に染まったコンクリート道路と、異常に長い影を伸ばす電柱や道路標識しか見えず、人の姿はなかった。

 だが間違いなく、この場所には自分以外の何者かの気配があった。気のせいなんかではない。それに今も見られている。しかし、いくら見回しても人の影ひとつ見えない。人が隠れられる場所もない。まっすぐな一本道だ。


 少女はそこでふと、違和感を覚えた。

 何かが足りない気がした。

 網膜に映し出された光景のなかに、いつもあるはずの何かが欠けていた。


――なんだ。何がおかしいんだろう。


 それに気づいたとき、息が止まった。キュッと胸が締め上げられる思いがした。

 少女の目にする光景の中には影が、なかった。夕陽とは反対方向に伸びてなきゃいけないはずの、少女の影がそこにはなかった。

 少女以外の、電柱や標識の影は少女の見る先に長い影を落としている。少女の影だけがなかったのだ。

 普通ならそこになくてはならない自分の影がないことで、この世界から自分という存在が消え失せてしまったような、そんな感じがした。光が自分の身体を無視して通り抜けていくような、身体の一部が失われたような喪失感が少女を襲った。

 いつもはただそこにあるだけの影が見えなくなっただけなのに、自分が立っていた足場が崩れ落ちて高所から落下する夢を見ている時のような気分だった。

 目の錯覚なのだろうか。

 けれど、何度目をこすっても目の前の現実は変わらなかった。そして……。


「あっ」


 喉から出た自分の声が、いやに大きく聞こえた。


――何かが、いる。私の後ろに、いる。


 一言声を出したのをきっかけに、少女は指の一つすら動かせなくなった。動いてはいけない。少女の直観がけたたましい警鐘を鳴らしていた。

 何かが、品定めをするようなねっとりとした視線で少女の身体をなめ回すように見ていた。下から横から、見られている。それはすぐ近くにいるようにも思えた。口の中にじわっとだ液が分泌される。それを飲み込むことすらできなかった。

 それから突然に、全身を襲っていた無形の圧が薄れた。それでも一挙に身体を動かすのは躊躇われ、ゆっくりと、壊れた扇風機のようにギギギと少しずつ首を後ろに回す。


 そこに少女の影があった。


 少女と同じ背丈くらいの影が、のっぺりと地面に映し出されていた。それだけが独立した存在であるように、他の物の影とは逆向きにあった。

 その影は、傍を歩く一匹の鳩を見ていた。

 なぜ影が見ていたとわかったのかというと、その影には目玉があった。白目に縁取られた黒目が二つあった。それが、少女ではなく鳩を見ていたのだ。

 影が鳩に向かって手を伸ばした。少女は手を動かしていない。少女の影だけが、意思を持っているようにひとりでに動いていた。

 鳩は逃げなかった。ゆっくりと影の手が、鳩の影に触れる。そして鳩は一鳴きしたかと思うとコロリと地面に転がり、それきり動かなくなった。倒れた鳩の影はいつのまにかに見えなくなっていた。 

 それから影の目玉が少女を見た。その瞬間、少女の身体は動いていた。逃げなきゃ、と思うよりも早く身体が動いていた。

 肩から提げていた荷物を放り投げ、少女の影とは反対方向に駆け出した。疲れていたはずの身体のどこにそんな力が残っていたのだと、少女自身が驚くほどに素早く力強い動きだった。

 脇目も振らず少女は走った。だが、勢いがあったのも最初だけで、すこしもしないうちに彼女の体力は底を尽きた。それでも足を止める事無く、フラフラと身体を前に進める。止まったら全てが終わってしまう気がした。

 背後を振り返ると、少女の足下と影は繋がっているままだった。影の目が笑った。

――もう、ダメだ。

 そう思って両手を膝につきかけたその瞬間、少女の全身を強烈な光が包み込んだ。


「――おいっ! あぶねえじゃねえか!!」


 あまりの眩しさに目をくらませながら光の来る方を見れば、少女の身体のすぐ横には彼女の何倍もの大きさのトラックがあった。運転席から中年の男性が身を乗り出し、大声で喚いていた。


「いきなり飛び出してきて来やがって、死にてえのか!? オレが気づかなきゃそのままぶつかってたぞ!」


 男に構わず、少女は影の有無と確認した。影は見当たらなかった。トラックのヘッドライトと車体の周りを照らすためのライトで影そのものが見えなくなっていた。


「おい、さっさとどいてくれよ」


 トラックの男は通行の邪魔だからどけ、と言う。

 少女は思った。

 このまま、またひとりで帰ればきっとまたあの影が表れる。あれがいったい何なのかは知らないが、今この瞬間はわずかなあいだでも一人でいたくなかった。

 少女は言った。


「あの……家まで送ってくれませんか?」

「はぁ?」


 男は制服姿の少女を見て、眉根を寄せる。


「あんた、何言ってんだ」

「お願いします。少ないですけどお金も払います。どうか乗せて下さい」


 少女は必死で頼んだ。

 男は、「そんなことはできない。見ず知らずの女子高生を乗せたりしたら面倒だ」と拒んだ。しかし少女は、「お願いします。お願いします」と何度も頭を下げると、そのしつこさに根負けしたのか、渋々「……わかった。乗りな」と首を縦に振った。

 すこし手こずりながらトラックの助手席に乗り込むと、少女は「室内灯を点けてもいいですか?」と訊ねる。男は不審に思ったが、黙って車内に光をともした。


「それで、家はどこなんだ?」


 男に聞かれるまま少女は答えた。


「この道を真っ直ぐ進んで……コンビニがあるのは分かりますか? その辺りです」

「なんだ、すぐ近くじゃねえか」


 男はますます不審の色を強めた。


「とつぜん乗せてくれなんて言い出したからてっきりもっと遠くかと思ったんだがなぁ」

「お願いします」

「――まあ構わねえよ。丁度コーヒーが飲みたいと思ってたところだ。コンビニに行くついでだな」

「ありがとうございます」


 少女はそう言って何度も頭を下げた。

 トラックに乗り込んだ後も、室内灯の光が生み出す影にあの目玉が浮かぶのではないかと気が気でなかった。しかし、隣に人がいるのと座席の下から伝わってくるエンジンの小刻みの振動が恐怖を少なからず紛らわせてくれていた。

 道中、道端に投げ捨てた少女の荷物も回収して、男の運転するトラックは少女の家に辿り着く。


「ありがとうございました。少ないですけど、これ……」


 財布から数枚の紙幣を取り出そうとする少女を制した。


「コンビニに行くついでだって言っただろ」

「けど」

「いいから」


 結局、男は少女からは何も受け取ることなくトラックを駆って去っていった。少女はそれを見送ると家の中に入った。玄関のドアを閉じる。生まれた時から肌身に感じてきた暖かい空が少女の身体を包む。台所からは母親が支度している夕食の香りが漂ってくる。

 少女はこのときになって、初めて心の底から安堵した。


 荷物を持ったまま台所に向かう。


「あら、どうしたの?」


 戸口から姿を見せた制服姿の娘に気がつき、少女の母親は不思議そうな顔をする。


「ううん、なんでもない」

「そう? もうすぐでご飯できるから先にお風呂入ってきちゃえば?」

「うん」


 少女は自室に荷物を置くと母に言われたまま風呂場へと向かった。

 服を脱ぎ、汗が染みついた下着を洗濯ネットの中に入れる。一糸まとわぬ姿になると浴室に入る。

 シャワーから水を出し、少ししてから水がお湯に変わったのを確認するとそれを頭から浴びた。身体に染みついた汗や埃、その他もろもろが一同に洗い流されていく。一分近く、たっぷりと浴びると恐怖で凍りつきそうだった身体は熱を取り戻した。そうして、少女は思い返す。


――あれは、一体なんだったのか。


 あんなのはこれまで見たことがなかった。影が自立して動き、目玉を持ち、そして鳩を殺した。見間違いなんかじゃない。荷物を拾ったとき、まだそこには影を持たない鳩が転がっていた。あのままトラックの光に照らされることがなかったら、きっと私もあの鳩と同じ運命を辿っていたのだろう。まさに九死に一生を得たのだ。


 窓を閉め切った浴室は湯気で真っ白になっていた。

 顔を洗おうと曇った鏡を手で拭って、少女は固まった。鏡に映った少女の背後は真っ黒に染まっていた。浴室の電気は点いている。少女の影が、壁を黒く染めていた。

 そして、影の中に二つの目玉がギョロリと浮かび上がり、鏡越しに少女と目が合った。





 その後。いつまで経っても風呂から上がってこない娘を不思議に思った母親が浴室へと様子を見に行くと、糸の切れた人形のように浴室の床に倒れた娘の姿があった。慌てた母が抱き起こすも、光を無くしたうつろな目が虚空を見つめているだけで動かず喋らず。まるで魂が抜き取られてしまったようだった。そしておかしなことに、その少女には影がなかったという。

 

 影の失った少女の話はあっという間に広まった。少女の通っていた学校では、「夕暮れ時、ある道で後ろを振り返ると、影と一緒に魂を抜き取られてしまう」という噂がまことしやかに囁かれるようになった。


 抜き取られた影と魂がその後どこにいったのか。それは、誰もあずかり知るところではなかった。

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