第1話 喪失

俺はその時夕飯の準備をしていた。今日は人参が安売りしていたので、ビーフシチューの中に入れた。兄は人参が嫌いであるが、小さく切ってしまえばバレないだろう。そんな兄は俺の料理をいつも美味い美味いと言う。


「お前は母さん似だな。料理が上手い男は女にモテるんだぞー」


いつもそんなことばかり言うから俺はまるで自分が料理の才能があると錯覚してしまう。しかし悪い気はしなかった。今日も兄はそんなことを言ってくれるのかと思うとやはり嬉しくなる。時計を見ると兄がそろそろ帰ってくる頃合いである。しかし今日はいつもより少し遅い気がする。そんな事を考えていると突然電話が鳴った。兄なのではないかと思い受話器を取ると、知らない男の声がした。


「すみません。そちら矢神剛志様のお宅でしょうか」

「はい。そうですが」

「こちら練馬警察署の者です」


俺は言葉に表せないような不安感に襲われた。


「あなたは矢神修哉さんで間違いないですね」

「そうですが」


なんだ。いったい兄の身に何かあったのか。


「あなたのお兄さんが事故に会いました今すぐ、署に来ていただけますか」


事故?兄が?一体なぜ?


「分かりました。すぐに行きます」


思わず声が震えた。現実とは思えなかった。電話を切ったあと出掛けるための支度に異常に時間が掛かってしまった。急いで家を飛び出した。一分一秒すらも時間が惜しかった。電車を待っている間、さっきの警察からの電話の内容を思い出した。事故ということは自転車か車と衝突したに違いない。きっと、兄は帰りを急いでいたに違いない。俺は悔やんだ。俺の大学に行くための資金を稼いでいた兄。俺が大学に行きたいなんて言わなきゃよかったんだ。悔やんでも悔やみきれない。電車が来る。俺は練馬警察署へと急いだ。


練馬警察署に到着し、受付カウンターで事情を話すとすぐに通された。電話した警察官が先に言ってくれたに違いない。目的のの場所に着きドアをノックすると体格の大きい40代半ばと見られる警察官が出てきた。俺を一瞥すると


「あなたが矢神修哉様ですか」


と聞いてきた。


「そうです」

「矢神剛志様はー」


相手の話をお構いなしに俺は尋ねる。


「兄は!兄はどこにいるんですか。一体兄の身に何かあったんですか?」

「あなたのお兄さんは部屋の奥に居ます。しかし、居ると言ってもあなたのお兄さんはー」


警官の話を最後まで聞かず、俺は部屋の中に急いで入った。兄の状況をいち早く知りたかった。入ったら、兄は軽症程度で俺を待っているのではないかと思った。しかし


現実は残酷だった。


兄はベッドの上に横たわっていた。体の上と顔の上に白い布が被せられていた。横には医者が居たが、尋ねなくても兄はどういう状況かは明白だった。医者がこちらを見て苦しそうな顔で言った。


「あなたの・・・あなたのお兄さんは亡くなりました」


その瞬間抑えていた全ての感情が溢れ出した。泣かないことなど不可能だった。

俺は泣いた。怒りと悲しみが自分の頭の中でグチャグチャになった。夜の警察署に俺の咆哮に似た泣き声が響き渡った。




こうして兄は死んだ。




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