67 冬来たりなば

「わたしが本当に願ったもの。それは――」


   *


 市川さん。


 わたしにはわかる。誰がわたしの名前を呼んでいるのか。わたしの肩を揺らすのか。


 市川さん。


 目を開くと、そこにはおさげ髪の少女がいる。わたしの隣に座っている。桜の木をぐるりと囲むベンチに座っている。


 わたし、寝てた?


 ええ。それはもう気持ちよさそうに。五條さんは言う。夜更かしでもしましたか。


 大丈夫。ちゃんと寝てるから。言いながら、欠伸を漏らす。おかしいな。なんか眠くて。


 そのとき、視界をふと白いものが横切る。ひらひらと、舞うようにして横切る。モンシロチョウだ。まるで下から扇で煽られたように上へ上へと舞い上がっていく。


 もうすぐ春ですからね。五條さんは言う。午後の陽気に当てられれば、眠くもなるでしょう。


 そうだね。


 わたしは頭上を見上げたまま言う。蝶はとうに見失っている。視線の先にあるのは、枯れ枝についた無数の小さな蕾。冬を耐え、春を待つ未来の花々。


 開花予想が出てますね。五條さんも桜を見上げる。この桜ももうじき咲きごろでしょう。


 帰還兵が首を吊った桜?


 そういうことになってる桜、ですね。五條さんは共犯者の笑みを浮かべる。もしかしたら、数年後にはそういう噂が定着しているかもしれません。


 不謹慎かもしれないけど――そうなったら少しおもしろいね。


 そうですね。五條さんは言う。咲いたらお花見をしましょう。


 だったら友達を誘ってもいい?


 岬さんたちですか? 五條さんは少し戸惑ったように言う。


 前から思ってたけど――五條さんって蒼衣ちゃんと何かあった?


 何ってその――五條さんは口ごもる。むしろ何かあればよかったんですが。


 じゃあ、いいよね。


 あ、いたいた。


 背後から声がする。鼻にかかったメゾソプラノだ。小動物めいた雰囲気の少女が手を振っている。その背後には淡い色彩の少女と、背が高い黒髪の少女。


 ほら、来たよ。わたしは五條さんの腕を掴む。三人に向かって歩き出す。誘うチャンス。


 え、わたしがですか。


 戸惑う五條さんを引きずって、三人がいる渡り廊下までたどり着く。


 あ、あの。岬さん。五條さんが切り出す。その、少し先のことなんですが、タイミングが合えばのことなんですが、その――


 あら、いいわよ。蒼衣ちゃんが先回りして答える。ねえ、みーちゃん。


 え、もしかして巻き込まれた? 瑞月ちゃんは困惑する。えーっと。その、五條さん? これって何の誘いか訊いても?


 花見だろ。カナちゃんが言う。


 聞いてたんですか


 いや、なんとなく。カナちゃんは言う。そして、わたしの方を向き、


 放課後、レムリア行こうぜ。あそこのタルトタタン、もうそろそろ期間が終わるから。


 うん。わたしも後一回くらい誘おうって思ってた。


 じゃあ決まりだな。カナちゃんが微笑むように目を細める。


 そんなやり取りを尻目に、まだ少し冷たい風が中庭を吹き抜けていく。冬の終わりを惜しむように。忘れないで、と追いすがるように。


 それでも、春の兆しは至るところに見てとれる。

 新しい季節が訪れる。

 種は芽吹き、渡り鳥は営巣地を目指して羽ばたく。


 わたしたちはどうなるのだろう。

 わからない。

 わかるのは、放課後、タルトタタンを食べに行くであろうということだけ。


 それでいい、といまは思う。

 繰り返す季節の一幕でしかないとしても、かまわない。

 永遠なんてないとしても――

 いつか醒める夢でも――


 この願いが消えない限り、それがわたしの尊いものだ。

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