66 遥か、海
海岸には誰もいなかった。
冷たい風が絶えず吹きつけ、潮の匂いを運んでくる。ウミネコが寂しげに鳴いている。
寄せては返す波の音――
乾燥した空気はどこまでも澄み渡り、江ノ島の背後には富士山が見えた。
ずっと来たかったんだ、とあなたは言った。でも、どうしてだろう。何がしたかったんだろう。
あなたは砂浜の上で膝を抱えるようにして座っていた。海の向こうを眺めている。どこまでも広がる太平洋、その水平線を。
この向こうにハワイとかアメリカがあるんだな。そう呟く。でも、まるで見えない。地球が丸いせいかな。ただどこまでも海が広がってるように見える。まるで世界の果てみたいに。
がっかりした?
どうだろう。むしろほっとしたのかもしれない。世界は思ったよりずっと広いんだって。遠いんだって。手が届かないんだって。
あなたは膝をぎゅっと抱き、続ける。
本当はどこにも行きたくないのかもしれない。家も学校も街も嫌いじゃないから。恵まれた話だよな。それでどうして、離れたいなんて思う? 逃げ出したいなんて。忘れたいなんて。
あなたは泣いている子供が顔を隠すようにして俯いた。二つのつむじがよく見える。細い髪が風に遊ばれてふわふわと揺れる様も。
でも、なんでなんだろう。なんで、こんなとこに来ちゃったんだろう。
そういうこともあるよ。人の感情は複雑だから。カナちゃんはきっと一人で抱えすぎてたんだよ。自分の気持ちを誰にも話さず、言葉にすることもなかった。だから、自分がわからなくなった。そうじゃない?
……わからない。
うん。いまはまだそうだと思う。でもね、自分の気持ちは大事にしてあげて。ずっと付き合っていく隣人なんだから。
隣人、か。
そう、たまにちょっとやかましくて迷惑な隣人、だね。だから自分の意にそぐわないことだって多い。理解できないことも。でも、それは当然のことだから、否定しないであげて。
そういうもんか。
そうだよ。それにね、嫌いじゃなくても、たまには離れてみるのも悪くないと思うよ。その方がきっとずっと好きでいられる。
あなたは少し考え込むようにした後、小さく頷いた。
そうだな。
そう言うと、あなたは立ち上がり、息をすうっと吸い込み、そして海に向かって叫んだ。
ばっきゃろおおおおお!
カナちゃん?
海って言ったら、こうするものなんだろ?
そう、だね。
……ここに来られて少しすっきりした。そう言って、振り向く。なあ、知佳はどこか行きたい国ってあるか。
国というか南極かな。コウテイペンギンを見てみたいんだ。条約で人間からは近づけないんだけどね。
ペンギン、好きだもんな。あなたは言った。夢があるっていうのはいいことなんだろうな。ユキがいつも言ってた。
あなたはふたたび海に視線を戻した。そのまま黙り込んでしまう。
……そろそろ帰ろうか。
あなたはそれが聞こえなかったかのように無言で海を眺めている。
カナちゃん?
違うんだ。ただ――
あなたは首を振った。
その、せっかくだから東京でも案内してくれ。何度か来たことあるんだろ。
あなたはこちらを見下ろした。陽光を受けて明るく光る瞳。わずかに緑がかった淡い瞳。
どこか行きたいとこがあったりする?
よくわからないんだ。詳しくないし。だから、任せるよ。知佳が好きな場所に連れてってほしい。
そう。じゃあ葛西臨海水族園に行こ。それから上野動物園も。
本当に動物好きなんだな。
カナちゃんは嫌い?
驚くことに、実は嫌いじゃない。
なら、これから好きになればいいね。
あなたは少し驚いたように目を丸めた。それから、微笑むようにして目を細める。
ああ。これから。
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