64 ソフィの世界
操緒は坂の上で待っている。実理の心臓をぶら下げて待っている。
ずいぶん早く戻ってきたね、お姉ちゃん。
知佳は坂を一歩一歩上っていく。雪に覆われた坂道を。
失せ物、忘れ物は君の十八番だ。だけど、探し物が得意なんて知らなかった。
勢いでここまで来てしまったんだろう。だけど断言するよ。君には何も見つけられやしない。その何かがあるとしても見つかるまで続けられるはずがない。だって、君は何も信じてはいないだろう?
――わたしは何も信じない。
自分が何を求めているかだって確信できていないはずだ。また、それがわかったところで永遠に続くとは思っていない。
――お姉ちゃんは自分が本当にほしいものがなんなのかわかってないとこがあるし。
何も信じず、期待せず、それで何ができるんだ? 無理さ。どれだけ崇高な理想も、何の手ごたえもなく貫き通せるはずがない。人間はそういう風にはできていない。
――……そうだな。こんなこといつまでも続けるわけにもいかないっていうのも、わかる。はっきりわかればいいのにな。
何、悪いことばかりじゃないさ。そうであればこそ人は変わっていけるんだから。永遠なんてものがあったら、きっとこの世はつまらない。そうだろう?
――神様がいないならいないってわかればいいのにな。
まさかいつか彼女が言ったことを真に受けてるんじゃないだろうね。望みがないとわかるならそれでいいと。それとも、後から後悔したくないのかな?
――でも、先生は選べなかったんや。それが悪いことばかりとも限らんけど、いまでもふと考えてしまうんや。あのとき、何かを選んでたらどうなってたんやろうってな。
自分で選んだつもりかもしれない。でもね、選ばされてるんだよ。意味とか動機なんてものは後から生まれる。そしてそれが人を縛りつけることになる。
――それはそうだろうさ。酔っぱらうっていうのはそういうことなんだから。ふざけられるのは正気の人間だけなんだよ。狂った奴ほど真面目なんだ。
考えてもみるといい。人間は不自由だ。すべてを自分で選べるなら、出発点がみんな同じなら、この世には同じ人間しかいなくなる。そもそも、最初に選ぶ自分はいったい何者なんだ? そこからして自由じゃない。
――ユキに言わせれば、それが自分がないってことらしい。自分で何かを選ばず状況を受け入れていることが。
自分で選ぶ。自分で決める。そんなことで満足するのはやめた方がいい。そんなものは幻想なんだから。自由も永遠もありやしない。この世には尊いものなんて存在しない。
――この世に尊いものなんてないよ。
そう、そんなことはわかってる、と知佳は思った。
だから、わたしはそのときしたいことを、できることをするんだよ。自分の気が済むまでね。
途中で投げ出すかもしれない。望みなんてないことがわかるだけかもしれない。だけど、何かの間違いでそれが見つかる可能性だってある。
自己欺瞞だな、と声が囁く。君は諦めたくないから、いま自分が抱く感情が永遠だと思いたいから、そうやって自分を焚きつけているだけだ。
そうかもしれない。でも、それがいまのわたしがしたいことなんだよ。
詭弁だな。
どっちが? どれだけリアリストを気取ったって、人はそうはなれない。あなたが言っているのはそういうこと。
尊いものなんてないというなら、あなたの主張を正当化するものだって何もない。あなたは恐れてるんだ。人の愚かさを。自分はそうなりたくないって駄々をこねてる。わかってるはず。でもそうせざるを得ない。あなたも人間だから。
相手が愚かだからって自分が正しいという理屈にはならない。
誰がいつ正しくなりたいって言った? わたしはもう自分の愚かさを恐れない。少なくともいまこの瞬間は。
後悔するよ。
かもね。
覚悟ができたつもりか。そんなことできやしない。あとになって見積もりが甘かったと嘆くんだ。
それは未来のわたしにやってもらう。いまのわたしには関係ない。
もう反論するだけ無駄か。
あなたはもう終わった存在だもの。こんなのはただの確認作業にすぎない。
操緒はすぐ目の前に立っている。暗い色の瞳に、知佳の姿が映り込む。わたしの姿だ、と知佳は思う。薄いピンクのモッズコートを着た、小柄で、ピンクブラウンのボブに包まれた童顔の少女。わたしがそこにいる。あなたのすぐ目の前に立っている。
君はそうやって忘れていくんだな。愚かさを恐れない? いまはいいさ。でも、いずれ自分が愚かだという自覚すらなくしていくんだ。尊いものとやらを信じ込んで、何の価値もないものにしがみつき苦しむことになる。
あなたは実理の心臓を落とす。
そうなればこうやって自嘲することすらできなくなる。なぜ自分が苦しまなければならないのかもわからなくなるんだ。
あなたの瞳の中で、わたしはそれを拾い上げる。すっかり萎びた心臓を。干からびて黒くなった心臓を。かつて、実理の全身に血液を運び、酸素を供給し、その命を支えていたものを。とくとくと脈打っていたものを。あたたかかったものを。それを手の中に収める。実理の命だったものを。
本当は全部わかってたんじゃないの?
何が。
ベテルギウスの爆発を予知したみたいに、こうなることも全部。実理と出会うことも、その命を奪うことも。わたしがあの街で出会う子たちのことも。ずっとむかしからわかってて、だから――
自意識過剰だな。偶然だよ。あるいは無作為な必然と言うべきか。僕はただ、自分の飢えを満たしたかった。そういう人間に生まれ、そういう風に育った。それだけだ。さあ、行くといい。それを持って君の街へ帰るといい。ここはもう君の居場所じゃない。
うん、さよなら。
ああ、さよなら、愚かな
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